憲法制定会議(アメリカ) – 世界史用語集

憲法制定会議(Constitutional Convention)は、1787年5月から9月にかけてフィラデルフィアで開かれ、独立戦争後のアメリカ合衆国が機能不全に陥っていた連合規約(Articles of Confederation)を根本から作り替え、現在の連邦憲法の草案をまとめた会議です。名目上は連合規約の改正でしたが、実際には課税権や通商規制、行政・司法の欠落を補うため、強固な連邦政府と分権の原理を併せ持つ新体制を設計しました。ワシントンが議長、マディソンやハミルトン、フランクリンらが主要な知的推進力となり、人口比と州平等の緊張を調停する「コネティカット妥協」、奴隷制をめぐる「3/5条項」や奴隷貿易期限の取り扱い、独自の大統領制度と選挙人団、二院制、司法の独立、修正手続などが固められました。会議後は各州での批准闘争が本番となり、『ザ・フェデラリスト』が支持を広げ、反連邦派の懸念に応えて権利章典(修正第1〜10条)が追加されます。憲法制定会議は、国家を強くしつつ自由を守るという矛盾の綱引きを、制度設計という形に落とし込んだ歴史的転換点でした。以下では、背景、会議の進行と主要妥協、設計された制度の骨格、批准とその後の政治的意味を解説します。

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背景:連合規約の行き詰まりと「国家の再設計」

独立戦争(1775–83)を戦い抜いた十三州は、1781年に連合規約を発効させ、各州が主権に近い自立性を保持する緩やかな連合を作りました。しかし規約は、連邦議会に課税権と通商規制権、常設の行政府と独立した司法を与えておらず、財政と執行の点で慢性的に弱体でした。戦債の返済や西部領土の管理、対英・対欧通商の再編、州際関税・通貨乱立の是正など、国政上の重要課題に連邦レベルの実効手段が欠けていたのです。

象徴的だったのが1786–87年のシェイズの反乱です。マサチューセッツ州での農民蜂起は、戦後不況と税負担、債務の帰結でしたが、連邦は治安維持に十分な権能を持たず、州の私的部隊や臨時動員に頼らざるを得ませんでした。国内外の信用失墜は深刻で、各州は互いに関税や紙幣政策で競合し、統一市場が破壊されつつありました。こうした危機感の共有が、フィラデルフィアに州代表を集める政治的エネルギーになりました。

会議招集の前段として、1785年のマウント・ヴァーノン会議、1786年のアナポリス会議が、州際通商の協調と連合規約改正の必要性を確認しました。とりわけアナポリス会議では、翌年により広範な会議を開いて制度改革を検討する勧告が採択され、議題は当初「規約改正」と慎重に表現されましたが、実勢としては「国家の再設計」を志向する者が多数派になっていきます。

代表団は十二州(ロードアイランドのみ不参加)から計55名が参加し、出席率は会期を通じて変動しました。平均年齢は40代前半で、弁護士・プランター・商人・財政官など実務家が中心です。ジョージ・ワシントンは議長として象徴的正統性を与え、ジェームズ・マディソンは比較政治と古典共和主義に通じた草案設計者、アレクサンダー・ハミルトンは強政府派の理論家、ベンジャミン・フランクリンは調停役として影響力を発揮しました。

会議の進行と主要妥協:多数と少数、州と国の均衡

会議冒頭、バージニア代表団は「バージニア案」を提示しました。これは人口比例に基づく二院制議会、三権分立、国法の優越、広い連邦権限を提案する包括案で、事実上の新憲法草案でした。これに対して小州は、各州平等代表を前提とする「ニュージャージー案」を提出し、連邦の権限強化は認めつつも州の対等性を死守しようとしました。両者の対立は激化し、会議は一時暗礁に乗り上げます。

ここでコネティカットの代表(シャーマンら)が仲裁的に示したのが「大妥協(コネティカット妥協)」です。上院は各州平等の二名、下院は人口比例、財政案の起案は原則下院からという仕組みで、多数派の原理と州の平等性を折衷しました。これは連邦主義の後ろ盾となる制度的均衡を提供し、以後の詳細設計の前提が整いました。

奴隷制は、代表配分と課税、通商政策で避けて通れない争点でした。南部は黒人奴隷人口を政治的代表に算入することを求め、北部はこれに反発します。妥協として、税と代表の計算において奴隷を「五分の三人」と数える3/5条項が採択されました。また、連邦議会による奴隷貿易の禁止は即時ではなく、最短でも1808年以降とする経過措置が取られ、逃亡奴隷の返還義務(逃亡者条項)も盛り込まれました。これらは憲法の内に制度的矛盾を埋め込む結果となり、後の内戦の火種を残します。

行政府については、単独の大統領を頂点とする独自制度が採用されました。任期は4年、再選可能、拒否権(ただし再可決で覆り得る)、軍の統帥、条約締結や高位官任命への上院「助言と同意」など、権限には制約が組み込まれました。選出方法として直接選挙・州議会選出・国会選出などが議論され、最終的に選挙人団方式が採択されます。これは大国・小国の利害、連邦と州の権限配分、民意と熟議のバランスを調整するための折衷策でした。

司法は連邦最高裁を頂点とする体系が設計され、下級裁判所の設置を議会に委ねる形が取られました。違憲審査権は明文では規定されませんでしたが、連邦法の優越と裁判官の終身在職、権限条項の解釈から、後にマーシャル裁判所がマーバリー対マディソン判決(1803)で違憲審査を確立する土台が生まれます。国法の優越条項(Supremacy Clause)は、州法との競合における最終決着点を連邦側に置く規範です。

連邦の権限は、通商規制、課税・歳入、通貨、軍事・外交、西部領土の管理など重要領域に及び、必要適切条項(Necessary and Proper Clause)が弾力性を持たせました。他方、州に留保された権限も明確に残され、連邦主義(federalism)は権限の重層配分として制度化されます。修正手続は、連邦議会の提案と州の批准、または州憲法会議という二経路が用意され、将来の変化に対する開放性が確保されました。

制度の骨格:強い政府と自由の防波堤

憲法制定会議が描いた新体制の要は、権力の集中と濫用を同時に抑える「制度の分割工学」でした。二院制は、人口多数の短期的激情から政策を一度ふるいにかけ、上院で時間をかけた熟議と州代表性の視点を加えます。大統領の拒否権は立法の再考を促し、議会の再可決は行政府の阻止権を制限します。条約と人事に対する上院の承認、予算権と弾劾権は、行政府への強力な牽制です。司法の独立は、個別事件を通じて法の支配を貫徹し、州と連邦、立法と行政の衝突に最終的な法的判断を与える役割を担いました。

財政と通商の一元化は、連邦の信認を再建する柱でした。関税・消費税の徴収、債務整理、対外条約の一元交渉により、国家信用は回復し、統一市場が形成されます。通商条項は州際関税や差別的規制を禁じ、川や道路、港湾というインフラの公共性を高めました。西部領土の組織化は、新州の対等加盟というダイナミックな拡張メカニズムを確立し、東部の利害と調停されます。

一方で、憲法原文は個人の権利保障を限定的にしか記しませんでした(陪審・人身保護令の留保などの断片にとどまる)。この欠落は批准論争で激しく批判され、最終的に権利章典(修正第1〜10条)が早期に追加されます。ここには、強い政府を求めたエネルギーと、政府を信頼しすぎない懐疑の倫理が、同時に制度化されるというアメリカ政治の二重性が表れています。

奴隷制に関する妥協は、理念の矛盾を制度の中に抱え込む選択でした。3/5条項は南部に過大な政治的影響力を与え、逃亡者条項は州境を越える人身拘束を正当化しました。1808年以降の国際奴隷貿易禁止は実施されるものの、国内の奴隷制は温存され、領土拡張とともに拡大・封じ込めのせめぎ合いが続きます。この不整合は、連邦と州、自由と財産権、普遍的権利と地方経済の衝突として19世紀半ばに爆発する運命を宿していました。

選挙人団は、直接民主政への不信と広大な共和国の通信制約を踏まえた装置でした。各州の方式に委ねる余地を残しつつ、候補者の選抜と最終決定を二段階化することで、地域偏在と派閥支配のリスクを抑える意図がありました。時代とともに政党が制度を包摂し、一般投票との連動が強まり、当初の「熟議する選挙人」という理念は影を薄めますが、連邦制の象徴として現在も機能を続けています。

批准と政治的帰結:フェデラリストと反連邦派、その後の展開

1787年9月17日、会議は最終草案に署名し、憲法は各州の特別会議での批准に付されました。批准には九州の同意が必要で、容易な道ではありませんでした。ハミルトン、マディソン、ジェイが執筆した『ザ・フェデラリスト』は、分権と抑制の理論、派閥制御のロジック(フェデラリストNo.10)、権力分立の実効性(No.51)などを一般に説き、懐疑を和らげる役割を果たしました。大州・商業州を中心に批准が進む一方、農村部や小州、強い州権を望む人々の抵抗は根強く、権利章典の追加を条件に賛成へ回る州が相次ぎます。

1788年に必要数の批准が整い、1789年に新政府が発足しました。ワシントンが初代大統領に選ばれ、財政・外交・司法の諸制度が具体化します。ハミルトンの財政計画(債務の連邦引受、国立銀行、関税・消費税)は統一市場の基盤を提供し、司法はマーシャルの下で連邦の優越と違憲審査の枠組みを確立しました。政党政治もすぐに芽吹き、連邦党と共和党(ジェファーソン派)が対立しながら、憲法の解釈を動態的に形成していきます。

批准の過程で噴出した懸念――常備軍による自由の侵害、課税権の濫用、遠隔中央政府の専横、陪審の権利、信教や言論の自由――は、権利章典の制定によって制度的に応答されました。第1条の表現・宗教・集会の自由、第2条の武装権、第4〜8条の捜索・押収、適正手続、陪審、残虐刑の禁止などは、連邦権力の限界線を描きます。これは、会議が未完に終えた「自由の個別保障」を、政治的妥協として後から縫い込む作業でした。

長期的に見ると、憲法制定会議は「改正に開かれた剛い枠組み」を創出しました。必要適切条項と通商条項、裁判所の解釈を通じて連邦権限は拡張・収縮を繰り返し、内戦修正(第13–15条)や進歩期の修正(所得税、直接選挙、禁酒、女性参政)など、時代の転換点ごとに制度が更新されます。会議の設計思想は、固定的な青写真ではなく、競合する価値を同居させながら、政治と司法の手続で調整し続ける「柔構造」でした。

総じて、憲法制定会議(アメリカ)は、危機のただ中で国家の中心軸を付け替えるという稀有な政治工学の現場でした。代表性と効率、州と国、民主政と熟議、自由と統治、理念と妥協――これらの対立を、制度の歯車へと翻訳したことが、合衆国政治の持続力の源泉となりました。その代償として、奴隷制という爆発物を憲法の床下に残し、後世の血の清算を避けられなかったことも、また歴史の事実です。会議の成果は、完成形としてではなく、不断の修正と解釈を前提にした「開かれた約束事」として理解するのがふさわしいと言えます。