憲法制定会議(ロシア) – 世界史用語集

ロシアの「憲法制定会議」(Учредительное собрание/Constituent Assembly)とは、ロマノフ朝崩壊後の1917年、全国民の普通選挙で選ばれた代表が集まり、国家の最終的な政治体制と憲法を定めることを目的に企図された議会のことです。二月革命で臨時政府が誕生すると、帝政の専制に代わる正統な憲法秩序を作る機関として開催が公約され、同年11月(ユリウス暦10月)に史上初の男女普通選挙で議員が選出されました。しかし、十月革命で権力を掌握したボリシェヴィキ政権は、ソビエト(労農兵代表会議)こそが革命の主権主体だと位置づけ、会議の権限を厳しく制約しようとします。1918年1月(新暦)に開かれた初会期は激しい路線対立の末、その日のうちに武装兵士によって解散させられ、ロシアにおける立憲的な憲法制定の試みは挫折しました。以後、国家の骨格はソビエト体制下で制定された1918年ロシア社会主義連邦ソビエト共和国(RSFSR)憲法に引き継がれます。以下では、成立の背景、選挙と政治勢力、会期当日の経過、そして解散後の制度・社会の推移を整理します。

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成立の背景:二月革命から十月革命へ

1917年2月、第一次世界大戦の長期化と物価高騰、補給難、政治的不信が重なり、ペトログラード(旧サンクトペテルブルク)で労働者のストと兵士の離反が連鎖しました。ドゥーマ(帝政下の議会)は臨時委員会を設け、ニコライ2世は退位、300年続いたロマノフ朝は終焉します。帝政崩壊後の実権は、自由主義者や社会主義諸派からなる「臨時政府」と、工場・軍に根を張るソビエト(評議会)が並存する「二重権力」の状態に入りました。

臨時政府は、全ロシア的な正当性を持つ新国家の構えを示すため、「憲法制定会議」の開催を公約します。帝政時代の基本法を全面的に作り変え、政体(共和制か、立憲君主制か)、中央と地方の関係、国民の権利、戦争継続の是非などを決める「国の作り直し」を担わせる構想でした。にもかかわらず、戦時継続への支持を失い、土地改革や民族問題の解決を先送りするほどに、臨時政府は大衆の支持を急速に失いました。

この間、ボリシェヴィキ(レーニン派)は「平和・土地・パン」を掲げて支持を拡大し、ソビエト内で多数派化します。1917年10月(新暦11月)、武装蜂起でペトログラードとモスクワの権力中枢を制圧し、「第二回全ロシア・ソビエト大会」で政権掌握を承認させました(十月革命)。新政府は〈人民委員会議〉を樹立し、「土地令」「平和に関する布告」などの急進的布令を発しますが、同時に、憲法制定会議の開催方針自体は形式上維持しました。ただし、彼らの基本発想は「ソビエトが革命主権の担い手」であり、制定会議はそれに従属すべきというものでした。

選挙と政治勢力:史上初の男女普通選挙とねじれ

憲法制定会議の選挙は1917年11月12日(新暦)に実施され、広大な帝国の各地で約7億平方キロメートルに及ぶ選挙区が設けられました(当時の行政範囲内)。選挙法は普遍・直接・平等・秘密を原則とし、年齢要件を満たす男女に選挙権が与えられました。女性参政が国政レベルで全面的に行われた世界的にも早期の事例です。ただし、戦闘や交通遮断、地方行政の混乱により、一部地域では投票が遅延・中止・再実施となり、民族地域や前線付近では結果の集計が難航しました。

投票の趨勢は、農村の大多数を占める小農層の利害と、都市・兵営の急進化との間のねじれを反映しました。最大勢力となったのは社会革命党(エスエル、SR)で、農民の土地要求(地主地の無償没収と村落共同体への分配)を掲げ、全国の農村で広範な支持を獲得しました。ボリシェヴィキは都市部と前線兵士で強い支持を得て第二勢力に躍進しますが、総得票ではSRに及びませんでした。立憲民主党(カデット)は自由主義・議会主義の旗を掲げるものの、戦時の責任や都市中産階級の限界から勢力を縮小し、メンシェヴィキも分裂と影響力低下に苦しみました。

なお、SRは十月革命を契機に左右に分裂し、ボリシェヴィキと連立して布令を追認する「左派エスエル」と、議会主義・戦争継続寄りの「右派エスエル」に大別されます。選挙名簿はしばしば統一のままで提出されており、集計結果に現れた「SRの圧勝」は、実際には左右派の内訳が曖昧なまま反映された点が、のちの会期で大きな火種となりました。

このように、民意の重心は〈農村=SR優位〉と〈都市・兵営=ボリシェヴィキ優位〉に二極化しており、ソビエト(都市を基盤)と制定会議(全国民を基盤)の代表正統性が競合する構図が生まれました。制度設計上の正統性はどちらにあるのか、という根源的な問題が、初会期を待たずして政治の中心課題となったのです。

開会と解散:一夜限りの議会

1918年1月5日(新暦、旧暦12月23日)、制定会議はペトログラードのタウリダ宮殿で開会しました。会議の冒頭、議長選出をめぐって対立が表面化し、SR右派の重鎮ヴィクトル・チェルノフが多数で選出されます。ボリシェヴィキ側は、ソビエト政権が同日に公表した「勤労被搾取人民の権利の宣言(のちにRSFSR憲法前文に編入)」を会議が承認することを要求しました。宣言は土地の社会化、労働者統制、民族自決などを掲げ、ソビエト権力の優越を前提に据える内容でした。

多数派を握るSR右派・中間派は、宣言の条項のうち土地社会化の原則など一部には賛意を示しつつも、「ソビエトの優位」という前提には同意せず、制定会議が国家主権の唯一の源泉であると主張しました。彼らは臨時政府期の継続性を意識した議会主義的路線を支持し、政府の責任制や市民的自由の保障、戦争終結の交渉などを議題に据えました。討議は深夜まで続き、双方の正統性主張は平行線をたどります。

会場の外では、ボリシェヴィキ支持の赤衛隊と海兵が厳戒態勢を敷き、近郊では制定会議支持派のデモが衝突で流血を伴う場面も生じました。やがて、衛兵隊長のアナトーリイ・ジェレズニャコフが「衛兵は疲れた(Караул устал)」という言葉で会期の打ち切りを通告し、議場の閉鎖を宣言します。夜明けまでに議員は退去させられ、制定会議は実質的に解散に追い込まれました。翌日、ボリシェヴィキ政権は正式に制定会議の解散を布告し、立憲的な憲法制定の回路は閉ざされます。

この過程で、左派エスエルは一時的にボリシェヴィキと歩調を合わせましたが、やがて講和(ブレスト=リトフスク条約)や食糧政策をめぐる対立から離反し、1918年夏には反乱へと発展します。短い協調期間は、農民と都市労働者の利害を一時的に接合し得る可能性を示しつつも、戦時と内戦の圧力の中で急速に崩れました。

解散後の制度と社会:ソビエト体制の成型

制定会議の解散直後、第三回全ロシア・ソビエト大会が開催され、「勤労被搾取人民の権利の宣言」が採択・制度化されます。1918年7月にはRSFSR憲法が公布され、国家主権の担い手をソビエト(労働者・兵士・農民の評議会)と明確に定義しました。選挙権は〈搾取者〉と定義された階層(旧支配層・宗教上の高位聖職者・私企業の経営者など)を排除する限定的なもので、議会主義に基づく普遍的市民権とは異なる「階級に基づく代表」へと転換します。

第一次世界大戦の継続は、ボリシェヴィキ政権がドイツと単独講和(1918年ブレスト=リトフスク条約)を結ぶ決断を促し、広大な領土割譲と引き換えに戦争からの離脱を実現します。この決断は国内外の激しい反発を呼び、白軍・干渉軍と赤軍の内戦が本格化しました。戦時共産主義の下で食糧徴発と産業の国有化が進み、都市と農村の緊張は高まりました。制定会議の解散が象徴したのは、選挙で選ばれた「国民代表」による憲法制定という道筋から、ソビエト(評議会)による階級代表制へと国家形成の軸が切り替わる瞬間だったと言えます。

一方、制定会議派(SRや立憲民主党など)は、サマラ(コムーチ)やウファの臨時政府、シベリアの政権など、各地で反ボリシェヴィキ政権の枠組みを試みました。彼らのスローガンはしばしば「制定会議の再召集」であり、選挙で得た正統性をテコに国内外の支持を集めようとしましたが、軍事力・統治能力・対独講和をめぐる立場の相違が分裂を招き、持続力を欠きました。

民族問題では、帝政期からの多民族構成が一挙に噴出し、フィンランド・ポーランド・バルト三国・コーカサス・ウクライナ・中央アジアなどで独立や自治が宣言されます。制定会議はこの難題に答えを出す前に解散したため、各地域の帰趨は内戦と国際関係、ボリシェヴィキの民族自決政策(のちの連邦化)に委ねられました。最終的に1922年、ロシア・ウクライナ・ベラルーシ・ザカフカースのソビエト共和国が合流してソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立します。

こうして、1917年に公約された「全国民代表による憲法制定」というルートは短期間で途絶え、ロシアの近代国家形成は、革命政権が掲げる階級的代表制の枠内で進むことになりました。制定会議は一日で終幕したにもかかわらず、〈正統性はどこにあるのか〉という問い、都市と農村・戦争と平和・民族と国家の交錯という課題を凝縮しており、その後のロシア史の方向を決定づける転回点として記憶され続けています。