庶民院(下院) – 世界史用語集

「庶民院(しょみんいん)」とは、イギリス議会を構成する二つの議院のうち、選挙で選ばれた議員からなる下院のことです。英語では House of Commons と呼ばれ、日本語では「下院」とも訳されます。イギリス議会は、貴族や聖職者などからなる貴族院(上院)と、国民に選ばれた議員からなる庶民院(下院)の二院制をとっていますが、現代では実質的な立法権や内閣の信任・不信任を通じて政治を動かす中心は、庶民院の側にあります。つまり、形式上は「下院」ですが、実際にはイギリス政治の主舞台と言える議院です。

世界史の文脈で庶民院が登場するのは、中世イングランドの身分制議会が発展し、17世紀のピューリタン革命や名誉革命を経て、「王と議会の力関係」が変わっていく過程を説明する場面が多いです。庶民院はもともと、地方の騎士や都市の代表(市民)が集まる場として生まれ、その後、王権の専制に対抗する拠点、税の承認や法律制定を通じて国政に参加する機関へと成長しました。さらに19世紀以降の選挙法改正を通じて、有産者層中心の議会から、徐々に労働者を含む「国民代表」の議会へと変化していきます。

以下では、まず中世イングランドにおける議会の起源と庶民院成立の経緯を整理し、そのうえでピューリタン革命と名誉革命における庶民院の役割、19世紀の議会改革による「国民代表機関」への変質、そして近代以降の庶民院の権限と仕組みについて、順に見ていきます。

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中世イングランド議会の起源と庶民院の成立

庶民院の歴史をたどるには、中世イングランドにおける「議会(パーラメント)」の起源を押さえる必要があります。もともとイングランド国王は、重要な決定を行う際に、大貴族や高位聖職者を招いて助言を受ける慣行を持っていました。これがやがて、「王の諮問会議」としての性格を強め、「議会」と呼ばれる集まりへと発展していきます。

13世紀になると、ジョン王やヘンリ3世の専制的な統治への反発から、貴族・聖職者・都市の代表者が国王に対して権利を要求する動きが強まりました。1215年のマグナ=カルタは、王が勝手に課税できないことや、貴族の権利を保証することを定めた文書として有名ですが、その後の過程で「新しい税を課すには貴族や都市代表の同意が必要」という原則が確立されていきます。

とくに重要なのが、1265年にシモン・ド・モンフォールによって招集された議会と、1295年のエドワード1世による「模範議会」です。ここでは、大貴族や高位聖職者だけでなく、各州の騎士(ナイト)や都市の代表(バーガス)が招かれ、「身分制議会」としての形が整いました。これらの代表は、地方社会の利害や要求を国王に伝える役割を担い、王国全体の合意形成に参加するようになったのです。

この身分制議会は、やがて二つの院に分かれて会議を行うようになります。大貴族と高位聖職者は、王に近い立場として別室で議論し、これがのちの貴族院(上院)へと発展しました。一方、地方の騎士と都市代表は、別の場に集まって協議し、その集まりが「庶民院(House of Commons)」の原型となりました。ここでの「commons」とは、「庶民」というより、「コモンズ=共同体の構成員」というニュアンスが強く、貴族や聖職者以外の領主層・市民層を含む代表団でした。

中世の段階では、庶民院の権限はまだ限定的でしたが、課税の承認や王への請願を通じて、徐々に政治参加の余地を拡大していきます。王が新たな戦争を行うためには増税が必要であり、その増税には議会、とくに庶民院の同意が必要になったため、庶民院は「財布(財政)」を通じて王権にプレッシャーをかけることができるようになりました。この「財政を握る議会」という構図は、後の時代にも重要な意味を持つことになります。

ピューリタン革命・名誉革命と庶民院の役割

17世紀になると、イングランドでは王権と議会の対立が激しくなります。絶対王政的な統治を強めようとする王(ジェームズ1世やチャールズ1世)と、課税や法律制定に関して自らの権限を守ろうとする議会、とくに庶民院が衝突するようになりました。この対立が最も劇的な形で表れたのが、ピューリタン革命(イングランド内戦)と名誉革命です。

ピューリタン革命(1640年代)では、チャールズ1世の専制的な課税や宗教政策に反発した議会側(とくに清教徒・ピューリタンを多く含む庶民院)が王と対立し、やがて武力衝突に発展しました。オリヴァー・クロムウェルに率いられた議会派軍は王党派を打ち破り、チャールズ1世は裁判にかけられて処刑されます。その後、英国史上唯一の「共和政」期(クロムウェルの護国卿政)が成立しますが、この間も議会内部の派閥争いや軍との対立が続き、安定した共和政を維持することはできませんでした。

王政復古を経て再び王政が戻るものの、1688年の名誉革命では、カトリック教徒の国王ジェームズ2世の追放と、オランダ総督ウィレムとメアリ夫妻の招致が議会主導で行われました。ここで重要なのは、王が血統だけでなく「議会の承認」を経て即位するという原理が確立されたことです。1689年の権利章典(Bill of Rights)は、議会の同意なく課税や常備軍の維持はできないこと、議会の言論の自由を保障することなどを明記し、「王は法律の上に立たない」ことを示しました。

この過程で、庶民院は王政に対抗する政治勢力の拠点として重要な役割を果たしました。議会の中でも、選挙で選ばれた庶民院議員たちは、地方の地主や都市市民の利害を代表し、貴族院よりも現実政治に近い場として機能していました。名誉革命後、王の権限は形式的には残されつつも、実際の財政や立法を握るのは議会であり、その中核として庶民院が存在するという構図が徐々に固まっていきます。

18世紀には、ホイッグ党とトーリ党という二大政党が庶民院を舞台に競い合い、内閣のトップ(首相格)は、国王の任命を受けながらも、実際には庶民院多数派の支持を基盤として政権を維持するようになります。こうしてイギリスでは、「国王に代わって内閣が政治を担い、その内閣は庶民院の信任に依存する」という議院内閣制の原型が形づくられていきました。

19世紀の議会改革と「国民代表機関」としての庶民院

とはいえ、18世紀から19世紀初頭の庶民院は、現代のような「広く国民を代表する議会」とは言えませんでした。選挙区の区割りは中世以来ほとんど見直されておらず、人口が激減した小村にも議席が残る「腐敗選挙区(ロッテン・バラ)」がある一方で、産業革命で急速に成長したマンチェスターやバーミンガムには議席がない、という不公平な状態でした。また、選挙権を持つのは一定以上の財産を持つ男性に限られ、多くの労働者や中小市民は投票権を持っていませんでした。

こうした不平等に対する批判が高まる中で、19世紀に一連の「選挙法改正(選挙法改革)」が行われ、庶民院の性格は大きく変わっていきます。1832年の第1回選挙法改正では、腐敗選挙区の整理と新興工業都市の議席付与が行われ、都市中産階級(ブルジョワ)の政治参加が拡大しました。これは、産業資本家層の力を政治的にも反映させる改革であり、同時に旧来の貴族支配の揺らぎを意味していました。

その後も1867年の第2回選挙法改正、1884年の第3回選挙法改正などによって、選挙権は少しずつ拡大されていきます。特に第2回改正では、都市の労働者層の一部にも選挙権が与えられ、庶民院の構成に「労働者の声」が入り始めます。19世紀末には労働組合運動や社会主義思想の影響を受けて、労働党の前身となる政治組織も登場し、やがて20世紀初頭には労働党が庶民院の主要勢力として台頭するようになりました。

この過程を通じて、庶民院は「有産階級の代表機関」から「市民と労働者を含む国民代表の議会」へと徐々に変化していきます。女性参政権も第一次世界大戦後の1918年と1928年にかけて段階的に認められ、21世紀に至るまでに選挙権はほぼすべての成年市民に広がりました。こうして庶民院の議員は、「国民の一般意志を体現する代議士」としての性格を強めていきます。

議会改革は同時に、政党政治の発展とも結びついていました。選挙区ごとに複数の候補が争い、政党が政策を掲げて庶民院の多数派を目指すという構造が整ったことで、庶民院は内閣の構成や政策方向を決める「政治闘争の主戦場」となりました。とくに20世紀には、保守党と労働党を中心とする二大政党制が定着し、庶民院で多数を占めた政党が内閣を組織する、というルールがはっきりしてきます。

近代以降の庶民院の権限と制度

近代以降のイギリス政治では、庶民院は実質的に最も強力な国家機関の一つとなりました。形式上、法律は国王・貴族院・庶民院の三者の同意によって成立することになっていますが、20世紀に入ると貴族院の拒否権は大きく制限され、庶民院の意志が最終的に優先される仕組みが整えられました。1911年と1949年の議会法(Parliament Acts)は、貴族院が法案を拒否できる期間を短縮し、財政関連法案については貴族院が実質的に拒否できないことを定めました。

これにより、庶民院で可決された法案は、貴族院が反対しても一定期間ののちに成立させることが可能となり、貴族院の役割は「再考を促す諮問的機関」に近づいていきます。一方、庶民院は国民の直接選挙によって選ばれることから、民主的正統性の源泉とみなされ、多数派を握る政党・連立が内閣を組織し、行政を担う構造が強まりました。

庶民院の議員は、伝統的には小選挙区制(一選挙区から一名を選出)が基本です。イギリス本土と北アイルランドが選挙区に分けられ、それぞれの選挙区で最多得票を得た候補が当選する「単純小選挙区制」が採用されています。この制度は、二大政党制を生みやすい一方で、小政党に不利になりやすい特徴を持っています。議員の任期は形式上5年ですが、首相が議会を解散して総選挙を行う仕組みによって、政治情勢に応じて選挙のタイミングが調整されてきました(近年は一定のルールで解散時期を定めようとする動きもありますが、基本的な構造は変わっていません)。

庶民院の権限として重要なのは、立法権と財政権、そして内閣への信任・不信任権です。政府が提出する法案の大半はまず庶民院で審議され、修正や採決を経て成立へと進みます。予算案や税法も庶民院で先に審議され、ここで否決された場合、政府は重大な打撃を受けることになります。また、庶民院は「内閣不信任決議」を可決することができ、その場合、内閣は総辞職するか議会を解散して総選挙に打って出るかの選択を迫られます。逆に言えば、内閣は常に庶民院多数派の信任を維持し続けなければならないのです。

庶民院内部の運営もまた、長い伝統に支えられています。議長(スピーカー)は、討論の秩序を保ち、議事進行を司る役割を持ちます。議長は特定の政党から選出されますが、就任後は党派性を離れて中立的立場をとることが求められます。議場では与党と野党が向かい合って座り、首相と野党党首が激しく論戦を交わす「首相質問(PMQ)」などが公開され、民主政治の象徴的な場面となっています。

世界史の視点から見ると、庶民院は「身分制議会の一部」として出発し、王権と対立・妥協を繰り返しながら、近代的な議会主権・議院内閣制へと至る過程を体現した機関です。庶民院が王よりも実質的に上位の政治的権限を持つようになるまでには、中世以来の長い歴史と、貴族・市民・労働者などさまざまな社会集団の要求が折り重なっていました。「庶民院(下院)」という用語を見たときには、単に「イギリスの下院」という事実だけでなく、王権と議会、上院と下院、貴族と庶民の関係が変化していったダイナミックな歴史をあわせてイメージしておくと、理解がぐっと深まります。