ジョホール – 世界史用語集

「ジョホール」とは、マレー半島南端部とその周辺の島々を支配した歴史的なイスラーム王国ジョホール王国(ジョホール・スルタン国)と、その後イギリス保護領を経て、現在のマレーシアを構成する州ジョホール州を指す言葉です。世界史の文脈ではとくに、16世紀以降のジョホール王国を中心に、マラッカ海峡の交易をめぐってポルトガルやオランダ、イギリス、周辺のマレー諸王国と激しく争いながら生き残ったイスラーム海洋王国として重要な位置を占めています。

ジョホール王国は、1511年にポルトガルによってマラッカ王国が陥落したのち、その王族が南へ逃れて建てた王国でした。そのため、ジョホールは「マラッカの後継国家」としてマレー世界の正統性を主張し、ポルトガル支配下のマラッカとたびたび対立しました。一方で、周辺のアチェ王国やジャワ島のマタラム王国、さらにはオランダ東インド会社(VOC)とも同盟や抗争を繰り返しながら、マラッカ海峡の交易ルートをめぐる主導権争いに巻き込まれていきます。

19世紀に入ると、ヨーロッパ列強の東南アジア進出が本格化し、イギリスとオランダがマレー半島とインドネシア諸島を勢力圏として分け合うようになります。この中でジョホールは、伝統的なスルタン家と有力家臣テメンゴン家の権力争い、イギリスとの条約締結、シンガポール建設との関係などを通じて、次第にイギリスの保護下に置かれていきました。やがてジョホールはマラヤ連邦を経て、現在のマレーシアの一州となっています。

以下では、まず地理と名称の整理を行ったうえで、(1) マラッカ滅亡後のジョホール王国の成立とマレー世界での位置、(2) オランダや周辺勢力との角逐とジョホール=リアウ王国としての全盛期、(3) 19世紀のイギリス進出とシンガポール・マレーシアへの組み込み、という流れで、ジョホールの歴史的役割を見ていきます。

スポンサーリンク

ジョホールの地理と名称―マレー半島南端の要衝

ジョホールは、マレー半島の南端部を中心とした地域の名称です。北は現在のマレーシア国内の他州(マラッカ州、パハン州など)と接し、南側は細いジョホール海峡をはさんでシンガポール島と向かい合っています。また、東西は南シナ海とマラッカ海峡という二つの重要な海域に開かれており、古来より東西交易の要衝でした。

「ジョホール」という名称は、アラビア語で「宝石」を意味する「ジャウハル(jawhar)」に由来するとされます。イスラーム商人との交流が深いマレー世界では、アラビア語やペルシア語に由来する地名や人名が多く、ジョホールもその一例です。イスラーム化したマラッカ王国の後継として、ジョホール王国もまたイスラームを国教とするマレー王国として発展しました。

マラッカ海峡は、インド洋と南シナ海をつなぐ最重要の海上航路であり、スパイス貿易や中国との交易にとって欠かせない海路でした。マラッカ王国が滅亡したのち、その南側のジョホール一帯に本拠を移したマレー王族にとって、この地域を押さえることは「海峡交易の主導権を握る」ことと直結していました。そのため、ジョホールは単なる地方王国ではなく、広範な交易ネットワークを背景にした海洋王国として歴史に登場します。

現在、ジョホールという言葉は、マレーシアを構成する一州(ジョホール州)とその州都ジョホール・バル(Johor Bahru)を指すことが多いですが、世界史の授業や用語集では、とくに16~19世紀の「ジョホール王国」や「ジョホール=リアウ王国」を念頭に置いて語られることが多いです。したがって、歴史用語としてのジョホールを理解する際には、「地名としてのジョホール」と「王国としてのジョホール」が重なり合っていることを意識しておくとよいです。

マラッカ王国の後継としてのジョホール王国の成立

ジョホール王国の出発点は、1511年のマラッカ王国滅亡にあります。15世紀のマラッカ王国は、マラッカ海峡に面した港市国家として栄え、イスラームを受け入れてマレー世界の中心的な交易・文化の拠点となっていました。しかし、香辛料貿易を掌握しようとするポルトガルの攻撃を受け、1511年にマラッカは陥落し、ポルトガル領マラッカとして占領されてしまいます。

マラッカ王家の一族は敗走し、その一派がマレー半島南端のジョホール一帯で勢力を立て直していきました。16世紀半ばまでの過程は複雑ですが、一般に1520年代から1530年代にかけて、「マラッカ王家の後継者」を自認するジョホール王国が成立したと考えられます。ジョホール王国のスルタン(国王)は、自らを「マラッカの正統な後継者」と位置づけ、マラッカ海峡の交易支配とイスラーム王国としての威信を取り戻そうとしました。

しかし、旧マラッカの中心地はポルトガルに押さえられたままであり、ジョホール王国はポルトガル勢力と度重なる戦いを繰り広げなければなりませんでした。ジョホールは一時、ポルトガルとの妥協や協定を結ぶこともありましたが、基本的には周辺のイスラーム王国や反ポルトガル勢力と連携し、ポルトガルの海峡支配に抵抗する立場に立ちました。

この時期のジョホールは、単独でポルトガルに対抗したわけではなく、スマトラ島北部のアチェ王国や、ジャワ島のマタラム王国などと複雑な関係を結びながら生き残りを図りました。とくにアチェ王国は、ポルトガル=マラッカと海峡の覇権を争う強力なイスラーム王国であり、ときにはジョホールと同盟し、ときにはジョホールの港を攻撃するライバルでもありました。ジョホールはこうした大国の狭間で、ときに従属、 ときに独自の勢力として立ち回りながら、自国の海上ネットワークを維持していったのです。

16~17世紀のジョホール王国は、マレー半島の港市や周辺の島々に勢力を広げ、香辛料や胡椒、錫、中国との交易、奴隷貿易など、さまざまな商品を扱う中継貿易で栄えました。王国の中心は必ずしも一つの都市に固定されておらず、情勢に応じて河川河口や島嶼部に首都を移すこともありました。これは、海賊行為や敵対勢力の攻撃が常に存在する海洋世界に適応した柔軟な政治・都市構造だったと考えられます。

ジョホール=リアウ王国とオランダ・周辺勢力との角逐

17世紀に入ると、東南アジアの海域には新たなヨーロッパ勢力としてオランダ東インド会社(VOC)が進出してきます。オランダは香辛料貿易の独占を目指し、ポルトガルと各地で戦いながら拠点を築いていきます。マラッカ海峡周辺でも、オランダはアチェ王国やジョホール王国と関係を結び、状況に応じていずれかの勢力と協力しつつポルトガルを圧迫しました。

ジョホール王国は、このオランダの進出を利用してポルトガル勢力を弱体化させる一方、アチェとの対立も調整しながら、自らの地位を維持しようとしました。最終的に1641年、オランダ東インド会社とジョホール王国は協力してポルトガル領マラッカを攻撃し、これを陥落させることに成功します。これにより、約130年続いたポルトガルのマラッカ支配は終わり、マラッカはオランダ領となりました。

この結果、ジョホールは「ポルトガル打倒に協力したマレー王国」として一定の威信を高めることができましたが、一方で海峡交易の要所マラッカ自体はオランダが確保し、ジョホールはオランダとの関係に注意を払わねばならなくなります。ジョホールはリアウ諸島(現在のインドネシア・リアウ諸州)を含む広い海域を勢力圏とし、「ジョホール=リアウ王国」として発展していきました。この王国は、マレーシア側のジョホールと、インドネシア側のリアウ諸島を結ぶ「海の王国」として、マレー世界の文化・交易の中心の一つとなりました。

ジョホール=リアウ王国では、イスラーム文化とマレー語を共通基盤とする「マレー世界」の宮廷文化が発達しました。宮廷ではイスラーム法学や文学が発展し、詩や年代記などがマレー語で書かれました。イスラーム商人やアラブ系商人、中華系商人なども集まって繁栄し、交易ネットワークのハブとして機能しました。一方で、王位継承や貴族間の対立、オランダ東インド会社との駆け引きなど、政治的には不安定な要素も多く、内紛や分裂の危機をたびたび経験しました。

18世紀末から19世紀初頭にかけては、ヨーロッパ列強のバランスにも変化が生じます。オランダ東インド会社は財政難と本国の政治変動により弱体化し、その一方でイギリス東インド会社がインド支配を強化しつつ、マラッカ海峡の支配にも関心を強めました。この流れの中で、ジョホール=リアウ王国の内部対立や、イギリス・オランダ両国の思惑が絡み合い、やがてジョホールとリアウ諸島は別々の植民地支配に組み込まれていくことになります。

19世紀のイギリス進出とジョホールのマレーシアへの組み込み

19世紀初頭、イギリスはインドから中国への貿易ルートを確保するうえで、マラッカ海峡に自前の拠点が必要だと考えるようになりました。そこでシンガポールを新たな商業港として開発しようとしたのが、イギリス東インド会社のラッフルズです。1819年、ラッフルズはジョホール王家や有力家臣テメンゴン家との交渉を通じて、シンガポール島にイギリスの基地を置くことに成功しました。このとき、ジョホールの王位継承争いや、王権と家臣団の権力関係が巧みに利用されたとも言われます。

その後、イギリスとオランダは1824年の英蘭協約によって、マレー半島とインドネシア諸島を勢力圏として分け合うことに合意しました。マラッカ海峡を境界とし、半島側(マレー半島・シンガポール)はイギリス、スマトラ島以南やジャワ・リアウ諸島側はオランダが支配するという大枠が固まります。この結果、ジョホール=リアウ王国の支配領域は政治的に引き裂かれ、半島側のジョホールはイギリスの影響下に、リアウ諸島はオランダの影響下に置かれることとなりました。

ジョホール内部では、スルタン家と有力家臣であるテメンゴン家(テメンゴンとは高位官職の名)のあいだで権力が移行し、しだいにテメンゴン家が実権を握るようになります。19世紀後半には、テメンゴン家出身のアブー・バカルがジョホールの統治者として台頭し、イギリスとの関係を深めつつ、ジョホールを近代的な行政・経済制度を持つ国家へと改革していきました。彼はのちに正式にスルタンとして承認され、「ジョホール近代化の父」のように評価されることもあります。

アブー・バカル時代には、ゴムや胡椒などの輸出作物栽培が奨励され、中国系・インド系移民を含む労働力が導入されました。ジョホールはイギリスの植民地経済の一部として組み込まれつつも、名目上は「イギリスと条約で結ばれたマレー王国」として一定の自治的地位を保ちました。しかし、外交や防衛などの分野ではイギリスの強い影響を受けており、実質的には保護国に近い状態でした。

20世紀に入ると、マレー半島各地のマレー王国は、イギリスの主導で「マラヤ連邦」へと再編され、第二次世界大戦後には独立に向けた動きが加速します。ジョホールもこの枠組みの中で、イギリスの植民地支配からの脱却と、マレー人・華人・インド人など複数の民族からなる新しい国家づくりに参加しました。1957年のマラヤ連邦独立、1963年のマレーシア成立を経て、ジョホールはマレーシアの一州として現在に至っています。

現代のジョホール州は、首都ジョホール・バルを中心に工業・農業・観光が発展し、シンガポールとの往来も盛んな地域です。歴史的には、マラッカ海峡の海洋王国としての伝統、オランダ・イギリスとの駆け引き、イスラーム・マレー文化の中心地としての役割など、多くの層を持つ地域でもあります。「ジョホール」という用語を世界史で見かけたときには、単に地図上の一地点としてではなく、マラッカ王国の後継、ジョホール=リアウ王国、英蘭協約と植民地支配、そしてマレーシアへの統合という長い流れの中で位置づけておくと、その重要性がよりよく理解できるようになります。