インド独立 – 世界史用語集

インド独立とは、イギリスの植民地支配下にあった英領インドが、1947年8月にインド連邦(のちインド共和国)とパキスタンとして主権を回復した出来事を指します。独立は単なる「支配からの離脱」ではなく、国家分割(パーティション)と大量の住民移動、暴力の拡大、新国家の制度設計や藩王国の編入、国境紛争の勃発など、多面的で連鎖的な過程でした。背景には、第一次世界大戦後の自治拡大の約束とその遅延、1919年・1935年の統治改革、ガンディーの非暴力・不服従運動、全インド・ムスリム連盟の動向、第二次世界大戦による英本国の疲弊と国際環境の変化がありました。1947年の独立は、長期の大衆運動と国際政治の力学、行政と交渉の積み重ねの帰結として到来したのです。

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背景と道筋:自治拡大の連鎖、戦時の揺らぎ、最終交渉

インド独立への道筋は、段階的な政治改革と大衆運動の往還として理解できます。第一次世界大戦期、英政府は「インド自治の約束」を掲げ、1919年統治法で中央・州の代表制を拡大し、州に二元統治を導入しました。しかし治安・財政など中枢領域は依然として王冠側が握り、アムリトサルの惨劇(1919年)は改革と弾圧が同時進行する矛盾を露わにしました。1920年代には非協力・不服従運動が各地に広がり、塩の行進(1930年)など象徴的行動が国際世論を喚起します。1935年統治法は州レベルの責任政府化を大幅に進め、1937年選挙でインド人内閣が誕生しましたが、第二次世界大戦の勃発で状況は一変しました。

1939年、英印政府がインドの同意を得ず参戦を宣言すると、国民会議派の州内閣は抗議辞職し、以後は知事統治の局面が続きます。英政府は戦時協力を得るためにクリップス使節(1942年)を派遣し、戦後の自治領地位を提案しますが、条件をめぐって合意には至りませんでした。同年、ガンディーは「インド退去(クィット・インディア)」を呼びかけ、指導部の一斉逮捕の下でも各地で抵抗が続きました。他方、全インド・ムスリム連盟はムハンマド・アリー・ジンナーの下で「ムスリム国家」構想を鮮明化させ、宗派間の政治的距離が拡大していきます。

戦後、英本国は財政・軍事の疲弊と帝国世論の変化に直面し、インドの将来をめぐる本格交渉に踏み切ります。1946年のキャビネット・ミッションは、強い中央をもつ連邦構想と制憲議会の設置を提案し、暫定内閣の樹立で一定の前進を見せましたが、州のグルーピングや宗派代表をめぐる対立で制度設計は膠着しました。1946年後半にはカルカッタやパンジャーブで宗派暴動が激化し、治安の悪化は政治的妥協の余地を狭めます。こうした中、英政府はインドへの権限移譲を早期に完了させる方針へ舵を切り、最後のインド副王としてルイス・マウントバッテン卿が派遣されました。

分割と独立:マウントバッテン案、インド独立法、ラドクリフ線

マウントバッテンは、複雑化した利害を整理するため、中央の連邦構想を断念し、英領インドを宗派多数を基準に二つの自治領へ分割する計画に収斂させました。1947年6月、主要政党間の合意により分割の骨子が発表され、英議会は「インド独立法(Indian Independence Act, 1947)」を可決します。これにより、1947年8月15日をもってインド連邦、8月14日をもってパキスタンが自治領(ドミニオン)として独立し、イギリス君主を元首とする英連邦王国の枠内から主権を回復することが定められました。中央はそれぞれに暫定政府と制憲議会を持ち、植民地期の法秩序は暫定的に継承されます。

領域の画定は、ベンガルとパンジャーブの分割を軸に「ラドクリフ委員会」が短期間で線引きを行うという性急な手続きで進みました。いわゆる「ラドクリフ線」は、宗派多数・行政区画・交通や灌漑網などの要素を加味しつつも、実地調査と住民合意を十分に経ないまま確定され、公布は独立直後にずれ込みました。この遅延と曖昧さは、国境付近の治安を著しく不安定化させ、列車・隊商・村落単位での襲撃と報復を誘発します。独立の瞬間は、歓喜と祝祭と同時に、統制の利かない暴力が噴出する局面でもあったのです。

分割独立は、英領インド内部のもう一つの構成要素—藩王国—の去就にも直結しました。藩王国は王冠と個別条約で結ばれた存在でしたが、独立に際しては〈インドまたはパキスタンへの帰属〉を選ぶ「帰属文書」への署名が基本原則とされました。多くの藩王国は地理・住民構成・経済の合理性からインドへの編入を選択しましたが、ジュナーガドやハイダラーバードのように紛糾する事例も生まれ、中央政府は住民投票や治安出動(「ポロ作戦」など)で事態の収拾を図りました。

暴力と移動、カシミールと藩王国統合:独立の代償と国家の形成

パーティションの最大の社会的帰結は、大量の住民移動と宗派暴力でした。パンジャーブとベンガルを中心に、ヒンドゥー教徒・シク教徒・ムスリムが新国境に沿って移動し、その途上で襲撃・放火・略奪が多発しました。難民の収容・再定住・資産交換は、中央と州政府にとって緊急かつ長期の課題となり、都市と農村の労働市場、住宅、商工ネットワークに深い影響を与えます。医療・衛生・食糧供給、戸籍・財産認定、孤児・未亡人の救済など、行政の対応は「国家能力」の試練となりました。

領土と主権の未確定が、最初の国際紛争を引き起こします。ジャムー・カシミール藩王国は、ヒンドゥー教徒の藩王とムスリム多数の人口構成、地理的な要衝性から帰属が難航し、1947年秋に部族民の侵入と内乱が勃発しました。藩王はインドへの帰属文書に署名し、インド軍が展開する一方、パキスタンは関与を否定しつつも実効支配を強め、国連への付託と停戦ラインの確定へと至ります。こうして独立直後から、インドは主権と領土の防衛を国際政治の舞台で問われることになりました。

国内統合の面では、サルダール・パテール内相と官僚V・P・メーノンが中心となり、藩王国の帰属と統合を粘り強く進めました。多くの小藩は合併して連合州を形成し、行政・司法・財政の標準化が進みます。言語・宗教・地域の多様性を抱える新国家にとって、〈藩王国の編入〉は地図の完成だけでなく、〈主権の単一性〉を確立する実務的プロセスでした。その過程で、王族の年金(プリヴィ・パース)や特権の扱い、自治権と中央統制のバランスなど、繊細な政治交渉が積み重ねられました。

制憲と初期の国家運営:ドミニオンから共和国へ、外交と経済の出発

独立と並行して、新国家の憲法づくりが進みました。制憲議会は諮問・草案・委員会審議を経て、基本権・国家政策の指針・連邦制・司法の独立・選挙制度などを体系化し、1950年1月26日にインド憲法が施行されます。これにより統治形態は〈ドミニオン〉から〈共和国〉へと移行し、国家元首は総督に代わって大統領が務めることになりました。連邦—州の権限配分、言語政策、基本権の司法救済、公共サービスの中立など、植民地期に蓄積された制度と新たな民主主義の原理が接合されました。

外交面では、非同盟の萌芽と多角外交が早くから意識されました。独立直後の国際環境は冷戦の成立期であり、インドは植民地主義の清算と民族自決、平和共存の原則を掲げ、アジア・アフリカ諸国との連帯を重視します。他方で、国境紛争や難民問題、国内の再建を抱える現実は、国連・英連邦・周辺諸国との現実的な関係管理を求めました。英連邦への留まり方、対パキスタン関係、対中・対米・対ソの距離の取り方は、独立直後からの大きな課題でした。

経済運営では、戦時と分割の混乱で傷んだ産業・輸送・金融を立て直し、計画と公共部門主導の開発路線が模索されました。鉄道・港湾・電力の整備、工業基盤の再建、食糧自給と土地改革、難民の職業訓練と住宅建設、通貨・中央銀行の運用整備が優先課題となります。植民地期の税制・法制度・官僚制の枠組みは再編のうえで継承され、議会運営・委員会制度・予算審議など「手続の近代」が新国家のガバナンスを支えました。

社会面では、宗派間の緊張の沈静化、言語と州境をめぐる調整、女性・不可触民(指定カースト)の権利拡大、教育・保健の拡充が進められます。独立は、政治的主権の回復にとどまらず、生活世界の再建という長い取り組みの出発点でもありました。メディア、映画、文学、祭礼は「新しいインド」のイメージを形づくり、難民と移民の経験は都市とディアスポラの姿を変えていきます。

まとめ:独立の重層性と現在への連続

インド独立は、長い運動史の到達点であると同時に、分割・暴力・移動という痛み、国家建設という実務、国際政治という現実が折り重なった出来事でした。1947年8月の独立は終点ではなく、1950年の憲法施行による共和国化、藩王国の統合完了、国境紛争・難民問題への対処、経済復興と社会改革といった「長い独立」の入口でした。独立を学ぶ際には、英雄譚や祝祭の記憶だけでなく、法と行政、地図と人の移動、暴力と救済、地域と宗派の交錯を視野に入れることが重要です。そうして初めて、インド独立の重層的な意味が、現在のインドと南アジアの政治・社会の姿へと連続していることが見えてくるのです。