ゴア(Goa)は、インド西岸コンカン地方に位置する地域で、16世紀初頭から20世紀半ばまでポルトガル帝国のアジア経営(エスタード・ダ・インディア)の中核を担った港市です。香辛料貿易の結節点、アジア域内交易の再編拠点、カトリック布教の基地、そしてインドが欧米勢力と出会う最前線として、ゴアは約450年にわたり海域アジアのダイナミズムを体現しました。1510年のアフォンソ・デ・アルブケルケによる占領以降、ゴアは副王・総督の居住地として行政・軍事の中心に発展し、商人・宣教師・軍人・職人・奴隷が行き交う多層社会を形成します。17世紀以降はオランダ・イギリスの台頭や港湾環境の変化で相対的に衰退しますが、ポルトガル支配は1961年のインドによる編入まで継続しました。現在はインドのゴア州として知られ、旧市街の教会・修道院群は世界遺産となっています。以下では、ポルトガル進出と都市形成、交易と帝国経営、宗教・社会・文化の交錯、近代以降の衰退とインド編入という観点で整理します。
ポルトガル進出と都市形成:1510年の占領から「エスタードの首都」へ
15世紀末、ポルトガルは喜望峰回航に成功し、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインド洋交易圏へ到達しました。彼らの狙いは、紅海・ペルシャ湾を経由するイスラーム商人の香辛料流通を回避し、直接に胡椒・丁子・肉桂を欧州へ運ぶことでした。最初期の拠点はカリカットやコーチンなどマラバール沿岸に置かれましたが、より広域の統轄・軍事展開・造船補給に適した深い入江と背後地を求め、デカン・スルタン国のひとつビージャープルが支配していたゴアへ目が向きます。
1510年、アフォンソ・デ・アルブケルケは現地勢力の内紛と季節風の好機を捉え、マンドヴィ川河口の島嶼部に築かれていた要地ゴアを攻略・占領しました。以後、ゴアは東方経営の中心「エスタード・ダ・インディア(Estado da Índia)」の副王府所在地となり、アジアにおけるポルトガル帝国の事実上の首都に位置づけられます。行政・造船・兵站・裁判・関税の諸機構が集中し、官僚・兵士・職人・宣教師・商人が定住することで都市の階層と職能が整いました。
都市構造は二重でした。古い都心「オールド・ゴア(Velha Goa)」は壮大な聖堂・修道院・官庁・商館が立ち並ぶ宗教・行政の核で、城壁・河川・湿地が防衛線を形成しました。他方、河口から外洋へ出る港湾周辺には倉庫区画・造船所・市場が展開し、帆船(カラック、ナウ)とガレー船が季節風を捉えて往来しました。気候風土や疫病、水利・土砂堆積の条件は都市の寿命に影響し、後世には行政中心が海側のパンジム(ノヴァ・ゴア、現パナジ)へ移る素地をつくります。
帝国経営と交易ネットワーク:香辛料・綿布・馬・銀が結ぶ海域アジア
ゴアは単に香辛料の積出港ではありませんでした。まず、ポルトガルは〈カルタース(cartaz)〉と呼ばれる航海許可証制度を導入し、インド洋の主要航路でポルトガルの保護と関税に船団を組み込みました。これにより、紅海・ペルシャ湾・インド西岸・グジャラート・デカン・マラバール・セイロン・マラッカ・マカオ・長崎へ至る多方向の交易が、ゴアの行政・軍事的枠組みの下で再編されました。
交易品は多様でした。西アジアからは良馬が大量に輸入され、デカン高原の諸政権(アフマドナガル・ビージャープル・ゴールコンダ)への馬販売はゴア経済の重要な柱でした。インド西岸・グジャラートからは高品質の綿布・藍、南海域からは胡椒・シナモン、東南アジアからは丁子・ナツメグ、東アジアからは生糸・中国陶磁が入ります。対価としては銀が決定的で、16世紀スペイン帝国のメキシコ・ペルー銀、17世紀には日本銀も東アジア経由で流れ、ゴア—マラッカ—マカオ—広東というラインや、マラッカ—アンボイナ—モルッカの香料産地と結びつきました。
金融・保険・公的関税の制度も整いました。関税収入は副王府の軍事・行政支出を支え、商人層は王室請負や教会への寄進を通じて社会的地位を獲得しました。港湾では奴隷市場も存在し、戦争捕虜・債務奴隷・アフリカ人・南アジア各地の人々が売買される現実がありました。これは当時の海域アジアに広がる多様な身分労働の一断面で、帝国経営の影の側面でもあります。
軍事面では、ゴアは砲台・要塞・造船所を備えた海軍拠点で、季節風の転換に合わせた「カレーラ(年次艦隊)」の発着が管理されました。ポルトガルは砲艦戦術と舷側砲撃を柱に、紅海入口のスエズ航路やホルムズ、インド西岸の主要港、セイロン沿岸などを要衝として押さえ、ゴアからの命令・補給で維持しました。とはいえ、現地のムスリム商人・グジャラート勢力・オスマン帝国・後にはオランダ東インド会社(VOC)との抗争は激しく、17世紀には香料の主戦場を相次いで失うことで、ゴアの経済的優位は相対化していきます。
宗教・社会・文化:布教拠点、法と統制、そして混淆の都市生活
ゴアはカトリック布教の最大の拠点でした。イエズス会・フランシスコ会・ドミニコ会・アウグスチノ会など複数の修道会が拠点を置き、学校・病院・印刷所・孤児院を運営しました。1542年に来印したフランシスコ・ザビエルは各地を巡って布教し、遺骸はオールド・ゴアのボム・ジェズ教会に安置されています。豪壮なセー大聖堂や聖アウグスチノ修道院跡など、石造教会群は都市景観の核となり、現在は世界遺産「ゴアの教会と修道院群」に登録されています。
他方で、宗教と統治は厳格に結びつきました。1560年には「ゴア宗教裁判(ゴア異端審問)」が設置され、改宗の真偽や信仰実践の監督、異端・ユダヤ教系新キリスト教徒(コンベルソ)、ヒンドゥー教の儀礼慣行の取り締まりが行われました。宗教裁判は1774年に一時停止、1778年に再開、19世紀初頭に廃止されますが、長期にわたり知的統制と恐怖の装置として機能したことは否めません。公共空間の祭礼・被服・婚姻・葬送に関する規制は、改宗者共同体のアイデンティティ形成と葛藤を同時に生みました。
社会構成は多層的でした。ポルトガル本国出身者(レイノン)とインド生まれのポルトガル人・混血(カザド)・改宗ヒンドゥー教徒・ムスリム商人・ユダヤ系、さらにはアフリカ人や東南アジア出身者が混住し、言語はポルトガル語・コンカニ語・マラーティー語・アラビア語などが交錯しました。法体系も重層で、ローマ=カノン法・王令・教会法・慣習法が併存し、身分・宗教ごとに婚姻・相続・居住の規定が異なる複雑な法秩序が成立しました。
文化面では、建築・音楽・服飾・食文化に「インド—ヨーロッパ—アフリカ—東南アジア」の混淆が生まれました。マンドヴィ川沿いの屋敷はアーチと陽射しを調和させ、ココナツ・唐辛子・酢・豚肉を使うゴア料理(ヴィンダルーなど)は海域交流の記憶を留めます。印刷術は地域に早く導入され、宗教文書や辞書・文法書の出版が進みました。聖職者・修道士に加えて、女性の修道院教育や孤児院教育がリテラシーの裾野を広げ、ポルトガル語—コンカニ語の二言語文学も育ちます。
衰退・再編・編入:17〜20世紀の変動と現代のゴア
17世紀、オランダ東インド会社(VOC)はマラッカ・セイロン・モルッカでポルトガル勢力を圧迫し、香料貿易の主導権を奪います。イギリス東インド会社は西インドの拠点ボンベイ(ムンバイ)を発展させ、英葡同盟下でもじわじわと商勢力を拡大しました。港湾環境の悪化(湿地・マラリア・土砂堆積)とオールド・ゴアの疫病流行は都市の居住性を損ない、19世紀には行政中心が河口部のパンジム(ノヴァ・ゴア、現パナジ)に移転します(1843年の州都指定)。鉄道・汽船の時代にはゴアの地理的優位は薄れ、経済は周辺地域との連動で細々と続きました。
19世紀末から20世紀初頭にかけ、ザミンダーリや土地所有の問題、移民労働、キリスト教徒共同体の社会的位置づけなどが新たな課題となりました。インド全域で民族運動が広がると、ゴアでもポルトガル支配に対する抗議が高まり、1954年には周辺飛地(ダードラー、ナガル・ハヴェリー)でポルトガル行政が排除されます。独立後のインド政府は平和的移譲を求め続けましたが、ポルトガル本国は領有維持を主張し、交渉は膠着しました。
1961年12月、インド政府は作戦名「ヴィジャイ(勝利)」を発動し、ゴア・ダマン・ディーウを軍事的に制圧・併合しました。翌1962年、これらはインド連邦直轄領(UT)となり、1974年にポルトガルは正式に編入を承認します。1987年、ゴアは州へ昇格し、州都はパナジに置かれました。公用語はコンカニ語を中心に、マラーティー語・英語・ポルトガル語の文化も共存します。宗教構成はヒンドゥー教徒が多数を占めつつ、カトリック共同体が社会・教育・医療で顕著な役割を担い続けています。
文化遺産としては、オールド・ゴアの教会と修道院群(ボム・ジェズ聖堂、セー大聖堂、聖カテリーナ教会、聖フランシス教会、聖アウグスチノ跡など)が1986年に世界遺産へ登録され、観光と保存の両立が課題となっています。インド洋海域史の視点からは、ゴアは帝国の軍港・行政首都・布教拠点・交易市場が重なり合う「ハブ」であり、16世紀以降のグローバル化の早期形態を物質的に示す場所です。現代の観光・IT・鉱業(ボーキサイトや鉄鉱石の輸出)といった産業構成の変化の一方で、音楽・祭礼・食文化に残るインド—ポルトガル的な折衷は、長期の接触ゾーンとしてのゴアの記憶を今に伝えています。
総じて、ゴアは「征服の前線」から「帝国の首都」、そして「遺産都市」へと相貌を変えながら、海域アジアとヨーロッパの交差点で歴史の厚みを蓄積してきました。香辛料・布・馬・銀がつなぐ交易、宣教と統制が絡む社会、港湾環境と疾病が規定する都市の盛衰、そして非植民地化の政治——これらの複合的要因が、ゴアという小領域の歴史を世界史的に意味あるものにしているのです。

