三国時代の「呉（ご）」は、江南（長江下流域）を中心に222年から280年まで存続した王朝で、孫権（そんけん）を中核とする孫氏政権が建てました。赤壁の戦いで曹操を退けたのち、長江という巨大な自然の防壁と水上交通の優位を活かして地域国家としての独自性を確立し、魏・蜀と鼎立しました。呉は水軍の機動力、江南開発の推進、豪族との協調と抑制のバランスに特徴があり、華北とは異なる社会経済の地平を切り開いた点に大きな意義があります。以下では、成立の経緯、統治と制度、軍事・外交、社会経済と文化、滅亡と歴史的評価の観点から、初学者にもわかりやすく整理します。
成立と基盤：江東の孫氏と長江の地政
呉の起点は、孫堅・孫策・孫権の三代にわたる「江東経営」です。後漢末の混乱のなかで、孫堅が長沙・九江方面で名を上げ、のちに若くして倒れると、その基盤を継いだ孫策が会稽・呉郡・丹陽など江東の要地を平定しました。孫策の急逝後、弟の孫権が若年ながらも周瑜・張昭・魯粛らの補佐を得て勢力をまとめ、曹操の南下に対しては劉備と手を組んで赤壁の戦い（208）に勝利しました。赤壁は単一の大勝というより、長江・洞庭湖・湖沼の水系と、疫病・補給をめぐる条件が重なった「地理と季節の勝利」でもありました。
赤壁後、魯粛・関羽らとの調整を経て、荊州南部の割譲や合肥方面の攻防を重ねながら、呉は徐々に独自の国家としての枠組みを整えます。220年に曹丕が魏を建てると、孫権は当初「呉王」として魏に臣従する形式を選び、内政に集中しました。やがて222年に自立を鮮明にし、229年には建業（現在の南京）で皇帝に即位して「呉」を正式に建国します。長江下流のデルタ地帯は穀物流域としての潜在力が高く、また海運と塩の流通を押さえる地の利がありました。この地理条件が、呉の国家形成の背骨になりました。
地政学的に、呉は北方の魏と広い河を隔て、南には交州（ベトナム北部）・南中（雲南方面）と接します。長江は単なる防波堤ではなく、内陸輸送路として兵站・徴税・統治を可能にする「動く街道」でした。水上戦闘に適した船団・港湾・河口の拠点（牛渚・石頭・芜湖など）と、支流に沿った山城・屯田が組み合わされ、呉の軍事・経済を同時に支えました。
統治と制度：豪族連合の調整、科挙以前の官僚運用
呉の政治構造は、江東在地の豪族（周氏・顧氏・陸氏・朱氏など）と孫氏の軍事政権が結びついた「豪族連合政体」の性格が濃いです。孫権は外戚と功臣の均衡を図りつつ、張昭・張紘・顧雍・陸遜・朱然・呂範らを適材適所に起用しました。とりわけ顧雍の清廉な行政と、陸遜の軍政両面の手腕は、孫権の長期統治を下支えしました。
官制は後漢を継承しつつも、江南の事情に合わせて柔軟に運用されました。州郡県の三層で支配がおこなわれ、要地には都督・刺史を置いて軍政と文治を兼ねました。中央では尚書・中書・門下の合議、選挙（九品中正制的な才録）と推挙で人材が登用され、郷里の名望と実務能力が重視されます。科挙以前の社会では、家柄と学養が人事の大きな要素でしたが、呉は水軍・辺境経略の経験者を重用し、実戦に裏打ちされた官僚層を育てました。
孫権の治世後半には、太子の更迭（孫和・孫覇の争い）や外戚・皇族間の対立が噴出し、政治は硬直化します。名臣陸遜の憤死に象徴されるように、皇族と重臣の緊張は政務の効率を下げ、後継者の孫亮・孫休・孫皓と続く過程で朝政の私化と苛政が目立つようになります。とくに末期の孫皓は奢侈・猜疑と伝えられ、財政と民心の消耗を加速させました。とはいえ、呉が半世紀以上にわたって自立を保てた背景には、長江運河の徴税と塩・鉄の管理、屯田と兵農の組織化、民政の継続性が一定程度確保されていた事実も押さえる必要があります。
軍事・外交：水軍の国家、荊州をめぐる攻防と辺境経略
呉の最も鮮明な特色は、水軍を核とする軍事力です。周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜・朱然・丁奉らは、船団戦・火攻・連環船・河岸の堡塁戦を駆使し、合肥・濡須口・夷陵などの戦場で魏・蜀と互いに抑え合いました。呂蒙の「白衣渡江」に象徴される奇襲は、荊州攻略で劉備陣営に決定的打撃を与え、三国均衡を長江本流に引き戻しました。夷陵の戦い（222）では、陸遜が地形と季節風を読み切って蜀を撃退し、南中・巴蜀と江東の境界を再定義しました。
外交では、蜀との提携と対立を状況に応じて切り替える柔軟さがありました。劉備・諸葛亮との連携は赤壁の成功要因でしたが、荊州をめぐる利害対立が顕在化すると、呉は独自路線に転じます。魏に対しては、合肥方面での牽制と長江下流の堅守で拮抗し、魏の内政・北方戦線の状況を見て攻守を切り替えました。交州・南海方面では、士燮（ししょう）ら地方勢力を懐柔し、ベトナム北部—広東—広西の海上・陸上交易を呉の秩序に組み込もうとします。ここでの塩・香料・真珠・鉄といった品目は、呉の財政にとって重要な収入源でした。
軍制は、兵農分離が未成熟な時代の現実を映し、郡県の戸籍と連動した兵站・動員が基礎となりました。沿岸・河口・湖沼に置かれた屯田は、戦時の糧秣供給と平時の開発の両面に寄与し、将軍が軍権とともに一帯の経済を統括する体制が一般的でした。武器・艦船の生産では、建業・武昌・江陵などの工房が中心となり、木造船体の標準化、火矢・投石機・連弩の整備が進みました。
社会経済と文化：江南開発、都市と交易、学術・宗教の受容
呉の最重要の長期的成果は、江南の開発を軌道に乗せたことです。後漢末、江南はすでに先進的な水田農法を有していましたが、灌漑・堤防・運河の整備が進むのは呉代に本格化します。会稽・呉郡・丹陽・豫章などで稲作と桑麻が拡大し、絹織や製塩、漆・木材・竹の加工が産業として発展しました。長江・運河—太湖—海路の連結は、内陸と沿岸、北方と南方の物流を効率化し、都市の市場—建業・秣陵・会稽・姑蘇—が活況を呈します。
貨幣経済では、銅銭の流通とともに、塩・布・米などの現物徴収が併存し、国家の出納は地域差に応じて柔軟に運用されました。倉廩の整備と市易（物資の融通）政策は、飢饉時の価格安定に役立ち、海上交易の利益は船団・港湾インフラの維持費を賄いました。呉は海の近世に先駆けるように、内水面・沿岸・南海を繋ぐ物流制度を整え、これが東晋—南朝期の江南の繁栄の前提となります。
文化面では、三国志の叙事に描かれる武勇と智略のイメージが強い一方で、実際には学術と宗教の受容も進みました。張紘・薛綜・華覈らの文人官僚は、経学・律令・典章を整え、呉下阿蒙で知られる呂蒙の学問奨励など、実務人の学養尊重が見られます。医療では、華佗の系譜や地方医術が伝わり、疫病対策と軍陣衛生が重視されました。仏教は呉期に南方から徐々に流入し、建業や会稽で寺院建立の端緒が見られ、道教も在来信仰と結びついて都市・農村に広がりました。のちの東晋・南朝の玄学や貴族サロン文化は、呉の都市・学術基盤の上に花開くことになります。
社会構造は、在地豪族—移住士人—兵士—商人—職人—小農の多層から成り、移住と土着が交錯するダイナミックなものでした。戦乱を避けて華北から江南に移った士族・匠人は、新しい技術・作法・文物を持ち込み、地域社会の高度化に寄与しました。他方で、辺境の山越・南蛮との摩擦も絶えず、統合と抵抗のせめぎ合いが続きました。呉の統治は、懐柔・移住・軍事行動の三点セットで辺境を管理する現実主義的な性格を帯びています。
滅亡と歴史評価：統合の限界と長期の遺産
呉の滅亡は280年、晋（司馬炎）の水陸両用の大規模侵攻によって到来しました。末帝孫皓の苛政と内紛は国家の弾力を削ぎ、合肥新城・寿春などの要地での防衛線は連鎖的に崩れます。長江という防壁は、統率と士気を失えば機動輸送路として逆用され、晋の艦隊は連戦連勝で建業へ迫りました。孫皓は降伏し、ここに三国鼎立は終焉します。
評価の要点は二つあります。第一に、呉は「弱い南」の象徴ではなく、長江水系と海上ネットワークを活かした現実的な国家建設を行った点です。江南の開発、港湾・運河・堤防のインフラ、塩・鉄・繊維の産業基盤は、東晋—南朝—唐宋へと続く南方経済の礎になりました。第二に、政治構造の脆さです。皇族・外戚と功臣・豪族の調整が崩れると、合議と均衡が破れて個人の恣意が優越し、政策の一貫性が失われました。これは三国の他政権にも共通する課題ですが、呉は長江という地理的優位に甘えたときに一挙に破綻が顕在化したとも言えます。
文化記憶のレベルでは、『三国志』『三国志演義』が呉の人物—周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜・孫策・孫堅・孫権—に多彩な性格づけを与え、知略と気概の物語が世に広まりました。物語の脚色を割り引いても、呉の軍事・行政・経済の複合体は、地域国家の運営モデルとして十分に学ぶ価値があります。北方中心の叙述を離れ、河川国家・海洋志向という視角から呉を読み直すと、東アジア経済史・交通史の中での位置づけがいっそう鮮明になります。
総じて、呉は「長江の国家」でした。水が防ぎ、水が運び、水が富をもたらし、水が政治を映しました。その強みは江南社会の自立性を育み、弱みは権力調整の失敗に現れました。呉を学ぶことは、地理と制度、軍事と経済、在地と移住の力学が国家の寿命にどう関わるかを理解する近道です。赤壁から建業、会稽の市場、南海の港まで、長江と海を結ぶ視点で呉を捉えると、三国史の立体感が一段と増して見えてきます。
