殷墟(いんきょ)は、中国古代の商(殷)王朝後期の王都跡で、現在の河南省安陽市北郊、洹水(えんすい)流域に広がる大規模な遺跡群の総称です。ここでは王宮・宗廟・王陵・作坊(工房)・車馬坑・居住区など、多様な遺構が同一の地帯に集まり、青銅器文化と甲骨文字による記録、祖先祭祀と占卜に支えられた政治の実像が立体的に確かめられます。殷墟は「遺跡が語る商王朝」の核心であり、考古学と文献史をつなぐ橋として世界史的な重要性を持ちます。
時期はおおむね紀元前13世紀ごろから前11世紀前半にかけてで、商王朝が首都をこの地に定めてから滅亡に至るまでの数世代にわたる王権の営みが重層的に残っています。発見のきっかけは、清末に薬材として流通していた「竜骨」に刻まれた文字(甲骨文)で、その出土地をたどる調査から安陽の小屯(しょうとん)一帯が注目されました。1928年以降の科学的発掘によって遺跡の広がりと構成が明らかになり、王名・祭祀・軍事・農耕・天文などに関わる具体的な記録が、甲骨・青銅器・土器・遺構の組み合わせで次々に裏づけられました。
殷墟の特筆点は三つあります。第一に、甲骨文字という一次史料が膨大に出土し、日付・人名・地名・儀礼・戦争・自然現象などが当時の言葉で残されていることです。第二に、王都の都市計画と生産基盤が王宮区・作坊区・居住区・王陵区といった機能別の空間に分節され、分業と統制の仕組みが考古学的に観察できることです。第三に、王権と宗教儀礼の結節点として祖先祭祀・占卜・生贄・車馬の埋葬が明確な形で確認され、政治・軍事・宗教が一体化した統治の実相が見えることです。
殷墟は2006年にユネスコの世界文化遺産に登録され、保存と公開の体制が整備されました。王宮宗廟遺跡、王陵の集中する西北岡(せいほくこう)一帯、婦好墓の発見地、小屯の甲骨文字出土区、鋳造作坊跡などは、見学や研究の拠点として整備が進んでいます。以下では、位置と構成、発掘と甲骨文字、都市と生産の仕組み、宗教と王権の四つの切り口で、殷墟の全体像を分かりやすく解説します。
位置・年代・空間構成――王宮から王陵、作坊まで
殷墟は、黄河の支流・洹水の北岸を中心に、起伏に富む台地と河谷にまたがって分布します。中心となるのが小屯(安陽市殷都区)周辺で、ここに王宮と宗廟の基壇群が延び、夯土(たんど:突き固め土)による建物基礎、柱穴列、排水溝、道路痕がまとまって確認されています。王宮と宗廟は、王権の政務と祖先祭祀の場であり、殷王朝の政治が宗教儀礼と不可分であったことを物理的に示します。
王陵区は中心域の北西、通称「西北岡」と呼ばれる高まりに集中します。ここでは巨大な墓坑と副葬施設、墓道、車馬坑が計画的に配置され、王家の埋葬儀礼が一大景観として造形されました。多くの墓は盗掘を受けていますが、墓坑の規模・構造、残された器物、殉牲・殉人の痕跡から、葬儀の序列と祭祀の手続きが推し量れます。小屯の南側では、1976年に未盗掘の王妃墓(婦好墓)が発見され、後述するように王権と軍事・祭祀の結びつきを具体的に示す資料を提供しました。
生産の中枢である作坊区は、王宮宗廟区の周辺帯や河畔の段丘に広がります。青銅器鋳造の遺構では、鋳型(陶范)片、るつぼ、吹子口、溶銅の凝結した鋳塊、燃料の痕跡がまとまって出土し、分割鋳型法による量産体制が確立していたことがわかります。骨角器や玉器、陶器の作坊も併存し、専門化した職人集団が王権の管理下で働いていました。こうした生産ゾーンと居住区、貯蔵施設(穴倉や地表建物の倉庫)が道路で結ばれ、資源の流入と製品の分配が統制されていました。
居住区は規模や建築法の違いによって層をなし、王族・貴族層の屋敷と、工人・従属民の住居が機能的に分かれていました。焼土や灰層、動物骨、穀物の炭化粒、貝貨の集中などは、食生活と交易の痕跡を物語ります。洹水沿いの地勢は、輸送と水利に利点を与え、遠方からの銅・錫・玉・貝などが集積し、王都の経済を潤しました。
発見と発掘の歴史――甲骨文字が拓いた古代の窓
殷墟研究の扉を開いたのは、甲骨文字です。清末、民間で薬材として流通していた「竜骨」に刻まれた細かな刻線に注目した学者が、そこに未知の文字を見出しました。出土地を探索する中で安陽の小屯一帯が特定され、収集と模写、拓本の作成が進むと、文字が一定の体系と語彙を備え、同一の王名・地名・祭祀語彙が反復することが判明します。甲骨文の読解は、訓詁と比較言語学、後世の漢字との照合によって徐々に進展し、占卜の手続きと表記の規則が明らかになりました。
1928年、学術機関による継続的な考古発掘が始まり、王宮・宗廟・作坊・墓域の位置関係、層位と年代、出土遺物の編年が整理されます。発掘は、遺構の平面と断面を丁寧に記録し、出土文字資料(甲骨・銅器銘文)と器種変化(鼎・鬲・爵・卣など)の時系列を照応させる方法で進められました。これにより、王の在位順、祭祀の暦、戦役の記録、農耕・狩猟・天候・疾病の占いといった多様な情報が、具体の遺構と結びついて再構成されます。
甲骨文の基本構成は、占いの日付、占う人物(貞人)と王の関与、問い(貞問)、亀裂(兆)の解釈、事後に判明した結果(験)から成り立ちます。たとえば「○月○日に、雨を乞う祭を行えば来十日に雨があるか」といった問いが刻まれ、のちに実際の天候が追記される例もあります。軍事遠征や狩猟、人員動員、祖先名の列記なども頻出し、社会の運用が占卜と記録の連鎖で支えられていたことが分かります。ここに見られる表記は、表意・表音の両面を持ち、後世の漢字構造に直結する偏旁・形声の萌芽を示します。
発掘史上の大きな転機として、1970年代の新発見が挙げられます。なかでも婦好墓の発見は、王妃であり軍事行動の指揮者としても甲骨に登場する人物の実在と社会的役割を、遺物と墓制という別系統の証拠で裏づけました。未盗掘であったため、青銅器・玉器・骨角器・象牙・貝貨・武器・車馬具などが本来の配置のまま見つかり、王権・祭祀・軍事・交易の交点を具体的に可視化しました。
近年は、地球物理学的探査や微痕分析、同位体分析、動植物考古学の手法が導入され、居住活動の季節性、家畜や人骨の移動履歴、金属の原料供給地など、従来見えにくかった側面が明らかになりつつあります。甲骨の材質(亀甲・牛肩甲骨)や加工痕の研究も進み、占卜の実務と工房組織がより具体的に描けるようになりました。
都市と生産の実像――作坊ネットワーク、青銅技術、車馬と道路
殷墟の都市は、政治・宗教・生産・居住の機能が、互いに連動しながら配置されています。王宮宗廟区で決定された方針は、作坊区の生産と人員動員へと直結し、完成した礼器や武器、楽器は宗廟と軍事の場で使用されました。王都は、儀礼のステージであると同時に巨大な工房都市であり、資源・技術・労働を統合する「装置」でもありました。
青銅器の鋳造は、分割鋳型(陶范)を用いた高度な技術に支えられます。粘土で作った内外型に文様を陰刻し、組み合わせた型の隙間に溶銅を流し込む方式は、厚手で複雑な形状と精緻な饕餮(とうてつ)文様を同時に成立させました。鋳型片の大量出土は、型を作る工人、溶解と注湯を担う工人、仕上げと研磨の工人といった分業体制の存在を示します。銅・錫・鉛の配合比や、熱変色・鋳巣の痕跡の分析から、器種ごとに異なる冶金レシピが運用されていたことも分かります。
骨角器・玉器の作坊では、鏃や針、櫛、装飾品、祭祀用の玉が制作され、磨耗痕や加工痕が道具と製作順序を物語ります。陶器は日常用と儀礼用で器形・胎土が分かれ、窯跡の分布は生産のクラスターを描きます。これらの生産活動は、王権による原料の集中と配分、熟練工の養成、完成品の品質管理という統制の下で進み、礼器体系と軍事装備の標準化を支えました。
軍事と交通の痕跡として、車馬坑と道路・橋梁の遺構が重要です。二輪戦車は王や将軍の威信装備であると同時に、野戦での機動と突撃の手段で、車軸・車輪・轅(ながえ)など木製部材の痕跡と、馬具・青銅金具が出土します。車馬坑における馬と戦車の埋葬は、王権の権威と来世観を示し、軍事力が宗教儀礼と一体化していたことを裏づけます。王都内外の道路は、敷石や轍の痕跡、側溝の構造から維持管理の行程が推測され、資材と人員の動員が常態化していたことを示します。
経済基盤は、粟・黍など雑穀の農耕と家畜飼養、狩猟・漁撈の組み合わせです。炭化穀粒や動物骨の同定結果は、季節的な食料調達と儀礼用の供物の差異を教えます。倉庫跡や穴蔵には穀物の保存痕が残り、貝貨の集中は遠距離交易の手がかりとなります。王都は、青銅器や玉器の生産を通じて方国との贈与・再分配のネットワークを形成し、政治秩序を経済の流れで補強しました。
宗教と王権の結節――祖先祭祀・占卜・王陵と婦好墓
殷(商)の政治は、祖先と上帝への祭祀を核として動いていました。宗廟では歴代祖先が祀られ、王は定期・臨時の祭礼で祖霊に報告と請願を行います。甲骨文の問いは、戦役の吉凶、気象・農耕・疫病の見通し、王妃の出産や王族の健康、狩猟や交易の成果にまで及び、国家の意思決定が占卜と儀礼の手続きを経てなされていたことを示します。占いは迷信ではなく、記録と照合による反省のシステムでもあり、前例の参照が意思決定の一部を構成しました。
王陵に見られる埋葬儀礼は、王権の威信と宗教観の結晶です。大規模な墓坑は多層構造や側室を持ち、副葬品の配置は器種と数量に明確な序列を示します。車馬坑や殉牲・殉人の存在は、あの世の王権と軍事・祭祀の継続を前提とする世界観を反映します。当時の人びとにとって、死は共同体と血統の連続性の中に位置づけられ、祖先は生者の政治と倫理を拘束する現前の力でした。
婦好墓は、この構図に具体性を与える決定的資料です。墓は比較的小規模でありながら未盗掘で、青銅礼器・武器・玉器・貝貨・象牙・骨角器が豊富に副葬され、甲骨文に見える婦好の軍事遠征や祭祀主宰の役割が、物証を伴って確認されました。武器の集中は王妃が軍事指揮権を帯び得た柔軟な権力構造を示し、他方で礼器と玉の組み合わせは、祭祀の主宰者としての権威を視覚化します。墓内の動物骨や人骨の配置、供物の種類は、葬送儀礼の段取りと目的を細部にわたって教えます。
殷墟は同時に、記憶と権力の装置でもありました。宗廟で唱えられる祖先名の系譜と、甲骨に刻まれる文字の体系は、王権の正統性を言語と儀礼で再生産します。王都の空間構成(王宮・宗廟・王陵・作坊)の秩序は、日々の行政と年中行事、葬送と建設の周期を通じて、人びとの身体と時間感覚に浸透しました。遺跡に残る痕跡は、その総体を今に伝えます。
現代の殷墟は、世界遺産としての保存と学術研究の両立が課題です。遺構を露出させたまま保存するか、覆屋や埋め戻しで保護するか、地下水位や気候の変動にどう対処するかなど、現場は繊細な判断を迫られます。最新のデジタル記録や3D復元、資料のオープンデータ化は、破壊を伴わない研究と公共的理解を広げる手段として活用が進んでいます。殷墟は、遺物の輝きだけでなく、保存と解釈をめぐる現在進行形の実践を通じて、過去と現在を結ぶフィールドとして生き続けています。

