クーリッジ(Calvin Coolidge, 1872–1933)は、アメリカ合衆国第30代大統領で、1920年代の繁栄(いわゆる“Roaring Twenties”)を象徴する「小さな政府」「均衡財政」「減税」「企業と消費の拡大」の組み合わせを体現した政治家です。言葉少なで慎ましい人格から“Silent Cal”と呼ばれましたが、無作為ではなく「やらないことを選ぶ統治」を徹底した人物でした。連邦支出の抑制と債務返済、メロン財務長官と進めた累進税率の大幅引き下げ、規制の最小化、対外的には戦争放棄条約(ケロッグ=ブリアン条約)や賠償問題(ドーズ案)による協調的孤立主義が骨格です。他方で、1924年移民法の人種主義、農業不況への対応の弱さ、1927年ミシシッピ大洪水への慎重すぎる姿勢、株式市場の過熱を抑制しきれなかったことなどの限界もはっきり残りました。クーリッジを知ることは、1920年代アメリカの制度と空気—機械化・大量生産・電化・消費社会・人種秩序・地方と都市の断層—を立体的に捉える近道になります。
出自と台頭:ニューイングランドの朴訥、ボストン警察ストから副大統領へ
クーリッジはバーモント州の農村に生まれ、父は郵便局長・店主・治安判事を兼ねる地域名士でした。マサチューセッツ州のアマースト大学を卒業後、弁護士・地方政治家として着実に階段を上り、州議会、ノーサンプトン市長、副知事を経て1919年に州知事となりました。全国的な名声を得た契機は、1919年のボストン警察ストライキです。治安の空白が生じたとき、クーリッジは州兵を投入し、職務放棄した警官を一括罷免、「公共に対する権利はストライキを許さない」との短い声明で秩序と公務倫理を訴えました。この“クーリッジ語録”は、労使関係における彼の原則—契約と秩序の優先—を端的に示します。
1920年大統領選では、ハーディング—クーリッジの共和党ペアが「常態への回帰」を掲げて圧勝します。1923年、在任中のハーディングが急逝すると、副大統領だったクーリッジが自宅で父の執行のもと宣誓し大統領に就任しました。前政権を覆った汚職(ティーポット・ドーム事件など)に対しては、関係者の訴追・法廷での追及を妨げず、ホワイトハウスの「沈黙」と距離感で政権の清潔さを演出しました。1924年の本選では、経済の回復、均衡財政、清廉なイメージを追い風に当選します。
国内政策:減税・債務返済・小さな政府—繁栄の設計図と陰影
クーリッジの国内政治は、(1)歳出抑制と国債償還、(2)税制の単純化と累進税率の引き下げ、(3)規制の最小化と民間投資の喚起、(4)社会政策は州・地方・民間に委ねる、という四本柱で整理できます。財務長官アンドリュー・メロンと歩調を合わせ、最高所得税率を第一次大戦期の高水準から段階的に引き下げ、法人税も軽減しました。歳出は「予算局」を通じて細密に監督し、戦時債務の返済を急いだ結果、連邦の財政は黒字を維持します。この枠組みのもとで、電化・自動車・ラジオ・化学・映画などの新産業が躍進し、大量生産・大量消費の循環が回り出しました。
規制に関しては、反トラストの再活性化には慎重で、産業合理化と価格安定のための紳士協定を容認する姿勢が見られます。労働争議への連邦介入は限定的で、雇用関係は主として私的自治の問題としました。郵便・通信・航空といった分野では制度整備を進め、民間航空の黎明期を支える法と基盤(航空郵便契約の整備など)には前向きでした。
移民政策では、1924年移民法(ジョンソン=リード法)が制定され、出生地による移民割当(ナショナル・オリジンズ・クオータ)が厳格化されました。これは南東欧やアジアからの新移民を強く制限し、人種主義と排外主義を制度化した点で今日に至るまで批判が続きます。クーリッジ自身は署名に際して「アメリカはアメリカ人であるべきだ」と述べ、当時の多数派世論と歩調を合わせました。
農業への対応は、クーリッジの弱点の一つでした。戦後の世界市場縮小と機械化の進展で農産物価格が低迷するなか、議会は価格安定・輸出補助を狙うマクナリー=ハウゲン法案を繰り返し提出しましたが、クーリッジは「市場への過度の介入」として拒否権を発動しました。結果として、都市の繁栄の陰で「長い1920年代の農業不況」が進行し、地方と都市の分断が深まりました。
公民権では、1924年インディアン市民権法に署名し、先住民に米国市民権を包括的に付与しました。一方で、南部の人種暴力や投票抑圧に対して連邦として抜本策を取るには至らず、連邦法によるリンチ防止(Dyer法案など)の成立にも失敗します。禁酒法(ボルステッド法)については、法の執行を尊重しつつも、取り締まりは主に州・地方に委ね、連邦の「禁酒警察国家」化を避けました。
災害対応では、1927年ミシシッピ大洪水が試金石になりました。全米最大級の被災にもかかわらず、クーリッジは連邦の常設的救済機構の創設に慎重で、赤十字と州政府・地方の自助に重心を置きました。規模とスピードの面で限界が露呈し、のちのニューディール期に連邦救済機構が拡充される遠因となります。
外交と安全保障:協調的孤立主義—軍縮・賠償・中米政策
クーリッジの外交は、「参戦同盟は結ばないが、平和と安定のルールづくりには関与する」という協調的孤立主義でした。1928年、国務長官ケロッグが主導した多国間の戦争放棄条約(ケロッグ=ブリアン条約)に署名し、国家の武力行使を原則として違法化する理念を明文化しました。法的強制力は弱かったものの、後世の国際法(侵略の定義、戦争犯罪)に影響を与える言説的効果は大きいものでした。
欧州の賠償・戦債問題では、1924年のドーズ案に支持を与え、ドイツの賠償支払いスケジュールを緩め、米国の資本市場からの融資で欧州復興を下支えする枠組みが進みます。これは短期には為替と貿易の安定に寄与しましたが、後年の世界恐慌で逆回転する脆さを抱えていました。海軍軍縮では、ワシントン海軍軍縮条約の維持を支持し、艦艇建造競争を抑える国際枠組みを尊重しました。
中米・カリブでは、前政権から続く海兵隊の派遣(ニカラグア・ハイチなど)を段階的に見直し、選挙監視や撤兵スケジュールを提示するなど、ガンボート外交のトーンを和らげる方向へ動きます。ただし、モンロー主義の防衛線は堅持し、経済圏の安定は米国の責任と捉え続けました。対ソ関係の国交樹立には消極的で、国内の反共世論と整合的でした。
評価:繁栄の司祭か、構造的失敗の予兆か—クーリッジ像の揺れ
クーリッジは在任中、清廉・倹約・安定の象徴として広く人気を得ました。ホワイトハウスの儀礼を簡素にし、記者会見には頻繁に応じる一方、余計な言葉を慎む姿勢は「節度の政治」を体現しました。1928年に三選の機会がありながら「出馬しない」と短い書簡で告げて退き、私邸の静かな生活に戻る選択も、彼の美学を象徴しています。
しかし、大恐慌を経た後世の目からは、1920年代の繁栄の上に積み重なった脆弱性—信用拡張、株式投機、所得格差、農業不況、移民制限と人種秩序の固定化—が厳しく問われます。クーリッジが金融監督や独占規制をより強めていれば、1929年の崩壊を和らげられたのではないか、という反実仮想は尽きません。一方で、当時の制度と知識で取り得た現実的選択としては、彼の「小さな政府」は一貫性があり、戦後インフレと債務の重圧から経済を解放する役割を果たしたという擁護も根強いです。
人物像としてのクーリッジは、朴訥で沈黙がち、しかしタイミングと一貫性に優れた政治家でした。短い言葉で原則を示し、周囲に仕事を任せ、国家は必要以上に拡張しないという信念を崩さない。メディア時代の派手さには欠けるものの、統治の「摩擦を減らす」スタイルは、功罪を含めて1920年代という時代の気分に合致していました。評価は二分されますが、クーリッジを通して見えるのは、成長と節度、繁栄と不安、開放と排除が同時進行したアメリカの姿です。そこに、彼の政治の射程と限界が凝縮されています。

