景教(けいきょう)は、中国の史料で「大秦景教」と呼ばれたキリスト教の一派で、シリア東方教会(いわゆるネストリウス派、現代の呼称では「東方教会」)の信徒がシルクロードを通じて唐代の中国に伝えた宗教を指します。634〜635年ごろ、宣教師の阿羅本(あらほん、Alopen)が長安に到着し、太宗(在位626〜649)の勅許を得て布教を開始しました。781年には有名な「大秦景教流行中国碑(景教碑)」が建てられ、唐の都で一定の受容を得たことが記録されています。教理はキリスト教の三位一体と救済思想に基づきますが、中国社会では道教・仏教に通じる語彙や世界観を借りて説明され、祈祷・断食・洗礼・十字架崇敬などの実践が、中国語訳の経典・儀礼書とともに行われました。9世紀半ば、会昌の廃仏(845)で外来宗教の弾圧に巻き込まれていったん衰退し、その後は元代にモンゴル帝国の下で再興するも、明初までに再び姿を消します。近世以降、1625年に景教碑が再発見されてから学術的関心が高まり、敦煌・トルファン・泉州など各地の出土史料と合わせて、シルクロード宗教交流史の重要な一章として再評価が進みました。要するに、景教とは「西アジア起源のキリスト教が、唐の都で中国語・中国文化に“翻訳”されて生きた」現象だと押さえると、全体像がつかみやすいです。
起源と伝来:東方教会から長安へ
景教の母体は、古代末〜中世西アジアで発展したシリア系キリスト教共同体です。コンスタンティノープル総主教ネストリオスの名にちなみ「ネストリウス派」と俗称されますが、実態はペルシア帝国の首都セレウキア=クテシフォンに総主教座(カトリコス=パトリアルク)を置く「東方教会」で、神学的にはキリストの二性(神性と人性)の区別を強調する伝統を持ちました。東方教会はササン朝のもとでギリシア語・シリア語の学術と医療・翻訳文化を蓄え、サマルカンドやメルブ、さらには中央アジアのソグド商人ネットワークを伴って東伝します。
唐代、中国は国際都市長安・洛陽を中心にゾロアスター教(祆教)・マニ教(明教)・イスラーム(回教)など外来宗教の受け入れに比較的寛容でした。634〜635年、宣教師阿羅本がシリア語原典と訳書を携えて長安に入ると、太宗は経書の翻訳を命じ、宮中での講読を許しました。唐朝は国際交易と知の受容を重視し、異域宗教を「蕃教」として登録・監督しながら、都に寺院(伽藍)を建立させ、僧侶の任免・衣食住・往来の規制を制度化しました。景教もこの枠組みに組み込まれ、長安に「大秦寺(大秦景教寺)」が立てられ、のちに地方にも堂塔が設けられます。
景教碑(781)は、この150年ほどの歩みを自叙伝的に刻んだ石碑で、阿羅本の入唐、太宗・高宗の保護、翻訳経典の書名、教理の概略、唐官僚・僧侶・信徒の氏名が彫られています。文字は漢文で、碑陰にシリア文字(シリア語)銘が添えられ、二重言語環境を示唆します。景教は唐の宗教多元環境の中で、国家の監督下に生きる「公認外来宗教」として存在基盤を得ました。
教理・典礼・翻訳:仏教・道教語彙との接ぎ木
景教の基本教理は、唯一神への信仰、キリストの受肉と贖い、聖霊、洗礼と聖餐、祈祷・断食・慈善、終末と復活です。しかし、これをそのままシリア語の神学用語で語っても当時の中国社会には通じないため、景教徒は翻訳と概念の工夫に努めました。神は「真主・至真・無上の主」など、道教や玄学に見られる超越者の語彙で表現され、三位一体は「三一」「妙身」などの言い回しで示されます。キリスト(メシア)や洗礼・福音のような固有名詞や儀礼語は、音写と意訳を併用し、読者に意味の見当がつくよう配慮されました。
翻訳のスタイルは仏典翻訳に学ぶところが大きく、序文・跋文・偈頌を備え、漢文の定型で教理を解説します。他宗教の宇宙観・倫理観を参照しつつも、偶像崇拝を戒め、十字架をシンボルとして尊ぶ点に景教の独自性がありました。礼拝は禁欲的で、断食・清浄・慈善を重んじ、僧侶(僧正・僧首などの訳語が史料に見える)が共同体を指導しました。使用言語は儀礼でシリア語(東シリア語系)が保たれつつ、説教や教化には漢語が併用され、二言語の宗教実践が行われたと考えられます。
遺品・遺文としては、景教碑のほか、敦煌から発見された景教文書(漢文で記された教理書・賛歌)や、トルファン・高昌地域の十字架意匠、内モンゴル・寧夏の石十字、泉州(福建)の墓碑群などがあり、地域ごとの受容の姿を具体的に伝えます。これらは、景教が都のサロン宗教にとどまらず、交易都市や辺境でもコミュニティを築いた証拠です。
唐での展開と挫折:保護・共存・会昌の弾圧
唐の初期〜盛唐にかけて、景教は国家の保護と共存のもとで広がりました。太宗・高宗は国際秩序の維持に資する限り、外来宗教の存在を容認し、寺院の建立や僧侶の度牒(許可証)発給を認めました。玄宗の時代には、都と地方に景教堂が十数ヶ所存在したと推定され、唐官僚・商人・帰化人の支持を受けました。景教は、マニ教・ゾロアスター教・イスラームと同じく、国際商業・医療・翻訳・暦学の担い手として一定の実用価値も発揮しました。
しかし、宗教の多元性は常に政治と財政の都合に左右されます。9世紀半ば、武宗のもとで進められた会昌の廃仏(845)は、財政再建と道教偏重政策の下で、仏教だけでなく「蕃教」全般—マニ教、ゾロアスター教、景教—をも弾圧の対象としました。寺院の破却・僧侶の還俗・財産の没収・経典の焼却が行われ、景教は中国本土で存立の基礎を失います。以後、唐末〜五代の混乱も相まって、長安・洛陽の景教コミュニティは薄れ、史料上の痕跡は疎らになります。
元代の再興と終焉:モンゴル帝国下のキリスト教徒
13世紀、モンゴル帝国の拡張は、ユーラシアの宗教ネットワークを再活性化させました。モンゴル諸部には古くから東方教会系キリスト教徒(史料上は「也里可温」=イルクン、一般に「景教徒」と通称)が多数おり、宮廷・軍隊・交易の場で影響力を持ちました。大都(元の首都)や泉州・杭州・揚州などの港市・商業都市では、東方教会の司祭・主教が活躍し、墓碑・十字石・シリア語碑文が残されています。これらは唐代の景教の直接の継承というより、中央アジア経由で再流入した東方教会信徒の活動と見るべきです。
元朝は宗教に寛容で、イスラーム・仏教・道教・景教が並立しましたが、明朝の成立(14世紀末)後、国家の再編とともに外来宗教の公的活動は大幅に絞られ、景教コミュニティは急速に姿を消します。明代以降の中国におけるキリスト教は、16世紀末のイエズス会宣教(マテオ・リッチら)を端緒とする別系統の再導入が中心となり、東方教会系の伝統は断絶しました。
再発見と学術史:景教碑から広がる視野
長く忘れられていた景教が再び注目されるのは、1625年、西安郊外で景教碑が発見されてからです。イエズス会士や中国の知識人は碑文を精査し、唐代にキリスト教が存在した事実を確認しました。初期には真贋論争もありましたが、その後の考古学・文献学の進展—敦煌文書、トルファンの遺跡、泉州の墓碑群、内モンゴルの十字石—の発見が碑文の信頼性を裏づけ、景教の実在は動かぬものとなりました。20世紀以降、東西学者の共同研究により、景教文献の校訂・訳注、儀礼と教理の復元、翻訳語彙の分析が進み、比較宗教学・翻訳史・シルクロード史の交差点として学術的な厚みを増しています。
学術的関心は、単に「珍しいキリスト教の痕跡」にとどまらず、宗教が異文化圏で受容される際の翻訳可能性(translatability)と適応(アコモデーション)の問題系へ広がります。景教は、中国的語彙で教理を語ることで理解の窓を開いた一方、キリスト教固有の救済史・聖書的世界観の伝達に限界も抱えました。この成功と限界の両面は、のちのイエズス会の「儒化」戦略(中国礼儀問題)とも通底し、外来宗教がいかに「土着化」し、どこで譲れない一線を引くのかという普遍的課題を映し出します。
評価と意義:シルクロードの宗教多元と「中国語で語られたキリスト教」
景教の意義は三つに整理できます。第一に、ユーラシア規模の宗教ネットワークの東西接続点であったことです。シリア語・ソグド語・ペルシア語・漢語という多言語環境の中で、経典・人材・儀礼・図像が往来し、学問(天文学・医療・翻訳)の交流を促しました。第二に、中国語でキリスト教を語るための翻訳実験を行い、仏教・道教との語彙的折衷を通じて、比較宗教学の典型例を提供したことです。第三に、国家権力と宗教の距離感の歴史的バリエーション—寛容と弾圧、保護と監督—が、宗教共同体の興亡を左右することを具体的に示した点です。
一方、景教は長期的な制度化に成功したとは言いがたく、会昌の弾圧や政治構造の変動に脆弱でした。これは、根の深い在地宗教(仏教・道教)と異なり、教育・土地・施療・地域共同体と結びつく基盤の形成が十分でなかったこと、僧侶養成や経典供給の外部依存が大きかったことに一因があります。それでも、唐代の都市文化と国際商業の舞台で、十字架と漢文が出会い、東方教会の祈りが中国語に訳されたという事実は、ユーラシアの文化史に鮮やかな一線を引きました。
まとめ:光(景)の名をもつ外来の教え
「景教」の「景」は光明の意で、唐人がこの宗教を「明るい教え」と呼んだことを伝えます。西アジアの古いキリスト教が、長安の官僚や商人、辺境の交易民、港市の共同体の中で、中国語と中国文化の器に注ぎ込まれ、しばし存在した—その軌跡は、異文化接触の創造性と脆さの双方を物語っています。世界史用語として景教を学ぶときは、(1)東方教会の系譜、(2)唐代の宗教多元と国家の管理、(3)翻訳語彙と儀礼実践、(4)会昌の弾圧と元代の再興、(5)近代の再発見—という連関で整理すると、「中国語で語られたキリスト教」の全体が立体的に見えてきます。景教は、単に“珍しい”のではなく、宗教がことばを変え、かたちを変えて生きようとする普遍的なドラマの一場面なのです。

