サレルノ大学(より正確にはサレルノ医学校 Schola Medica Salernitana)は、中世ヨーロッパで最も早くから医学教育と医療実践を体系化した学問拠点として知られます。地中海交易の玄関口サレルノに、ギリシア・ラテン・アラビア語圏、さらにユダヤ知識人の知が交差し、翻訳と臨床の現場が結びついた「実学の学校」でした。修道院内の書物研究に閉じた知ではなく、薬舗・施療院・港町の人流が作る現実の病と向き合い、外科・内科・薬学・衛生の諸領域をひとつの教育課程に編み上げた点が画期的でした。トロトゥラに代表される女性医術家の伝承、アフリカのコンスタンティヌスの翻訳活動、『サレルノの箴言(Regimen sanitatis Salernitanum)』などが名高く、フリードリヒ2世による免許制度の整備はヨーロッパ医師資格の原型のひとつを示しました。以下では、成立背景、教科と方法、制度と免許、ネットワークと影響、衰退と遺産を、できるだけ噛み砕いて説明します。
成立背景――港町の交差点に生まれた「混成の知」
サレルノはカンパニア海岸の港町で、アマルフィやナポリと並ぶ交易の要衝でした。8~10世紀頃には修道院と聖堂学校を中心に学問の核が生まれ、やがて医術の教授で名を上げるようになります。地中海の航路が運ぶ香辛料・薬草・染料・鉱物は、同時に医療素材でもありました。サレルノの書記や医師はこれらを観察し、ギリシア語文献(ヒポクラテス、ガレノス)、アラビア語圏の医学(ラーゼス、イブン・スィーナー)をラテン語へ取り込み、臨床と薬方に応用しました。ユダヤ人医師・通訳者の関与も重要で、異文化の知の橋渡し役を担いました。
この都市のもう一つの強みは、修道院的静謐と世俗都市の活気が併存したことです。近隣のモンテ・カッシーノ修道院は書写と翻訳の拠点であり、アフリカのコンスタンティヌスはここやサレルノでアラビア語文献のラテン訳に取り組みました。港には巡礼者、商人、船乗り、兵士が往来し、切創、熱病、皮膚病、性病、栄養不良など多様な症例がもたらされました。つまりサレルノ医学校は、図書室・市井・港湾・修道院・施療院が重なる「開かれた臨床の場」だったのです。
教科・方法――内科・外科・薬学・衛生を束ねるカリキュラム
サレルノ医学校の学びは、理論に偏らず実地を重んじました。基盤は四体液説(血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁)の体質論ですが、そこから食餌・気候・運動・睡眠・入浴・排泄を調整する総合的な生活管理へと広がります。『サレルノの箴言』は韻文化された健康手引きで、季節の食材、飲酒、入浴、睡眠のタイミング、旅行や老いの心得まで、今日の健康冊子に通じる実用精神が貫かれています。
薬学では、地中海植物(アロエ、乳香、没薬、ミント、ルー、フェンネルなど)と鉱物・動物起源素材を組み合わせ、製剤の分量・調合・保存を明記しました。薬舗(アポテカリ)との連携は密接で、処方箋の標準化は偽薬の防止と価格の透明化に資しました。解剖学は教義上の制約が強く限定的でしたが、動物解剖や戦場外科の経験を通じて、骨折・出血・縫合・膿瘍切開などの手技が洗練されました。歯科・眼科・皮膚科に相当する手引きも伝わり、白内障の圧出術や瘻孔治療などの記述が見られます。
教育方法は、権威ある書の講解(レクチオ)と質疑(クエスティオ)、臨床の見学・同道、症例の記録という三層で構成されました。臨床は個別の症状の観察と経過の追跡に重きを置き、患者の食習慣・住環境・職業を問診する姿勢が一貫します。衛生面では、水の管理、下水とごみ処理、浴場の利用、疫病時の隔離など、都市生活に適した実務が説かれました。
制度と免許――フリードリヒ2世と医師資格の誕生
サレルノの名をヨーロッパ医制の歴史に刻んだのは、シチリア王・神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世による医療統制でした。13世紀前半、彼はシチリア王国の立法(一般にメルフィ法令と総称される体系)で、無資格の医療行為を禁じ、医師は大学相当の学校(実質的にサレルノ)で一定年限(おおむね5年の理論学習+1年の実地)を修め、王権の代理人による試験・免許を経ることを義務づけました。薬舗に対しても価格・品質・監査の規定を設け、医師と薬剤師の分業と相互監視を制度化しました。外科医は解剖学・実地訓練を必須とされ、理論医と外科医の位階関係を緩やかに接合する道が開かれます。
この改革の狙いは、迷信や呪術的療法の排除だけではありません。軍事と財政の観点から、兵士と労働力の健康を守る実務国家の要請に応えるものでした。王権が医の資格を統制する枠組みは、後世の都市大学(ボローニャ、ナポリ、モンペリエ)に引き継がれ、地域ごとの免許制度の原型となりました。サレルノ医学校は、知の中心であると同時に、国家が医療の質と市場を管理する「ハブ」でもあったのです。
人物・テクスト・ネットワーク――トロトゥラ、コンスタンティヌス、『箴言』
サレルノを語る上で外せないのが、女性医術家トロトゥラ(Trotula)です。彼女の名で伝わる婦人科テクスト群(『女性の病について』『装身術について』など)は、月経・妊娠・出産・産後ケア、不妊、皮膚・美容まで扱い、女性の身体を一貫した視点で記述しています。中世的権威づけのために後世に編集・再配列された部分もありますが、女性が教育と実地に関与しうる社会的環境がサレルノにあったことを物語ります。
翻訳者アフリカのコンスタンティヌス(Constantinus Africanus)は、北アフリカ出身で東方言語に通じ、11世紀後半にアラビア語医学のラテン化を推進しました。彼が移し替えた『完備医典』や薬方集は、サレルノの講壇で読み継がれ、西欧の医学生が東方の臨床知と薬物学に触れる窓となりました。翻訳は単なる言い換えではなく、度量衡の置き換え、素材の代替、用法の注釈といった「地域化」の作業を伴い、学知を土地に根づかせる技術でした。
『サレルノの箴言』は、韻文化された短句で健康法を説くベストセラーでした。「食べ過ぎるな、飲み過ぎるな、急ぐな、遅すぎるな」といった節制の倫理に、季節暦と食餌療法が結びつきます。王侯から市民までが携行できるポケットサイズの知であり、大学の講義録と市場の実務を架橋しました。こうしたテクストがラテン語から各地の俗語へ翻訳され、医の知は広い読者に開かれていきます。
衰退と遺産――大学の時代へ、そして記憶の継承
13世紀以降、ボローニャ、パリ、モンペリエ、ナポリなど学位授与機能を備えた大学が発展すると、サレルノ医学校の相対的地位は低下しました。黒死病をはじめとする疫病の衝撃、政治勢力の移ろい、都市財政の限界、海上交易の重心の移動も逆風となりました。とはいえ、サレルノで確立した免許・課程・分業・監査の枠組みは、都市大学の制度に取り込まれ、医学教育の標準装備となります。外科の技法、薬舗の監査、健康手引きの普及は、後のルネサンスの解剖学革命や近世衛生政策の基礎を成しました。
近代に入ると、ナポレオン体制下の再編で古い機構は解体され、19世紀には医学校としての独立性を失います。1811年頃、ナポレオンの支配下で多くの学校が統廃合され、サレルノの伝統は散逸しました。しかし20世紀以降、史料学・医史学・考古学の研究が進み、サレルノ医学校の評価は再浮上します。今日のサレルノ大学(Università degli Studi di Salerno)は別組織として都市近郊に展開しますが、博物館・展示や史料館では中世医学校の遺産が広く紹介されています。
遺産は三つに要約できます。第一に、学問と実務の接続です。薬方、施療、衛生、翻訳、問診、観察――これらを一体として教えるカリキュラムは、専門分化が進む現代においても統合知の理想を示します。第二に、国際性です。異文化の知を翻訳・標準化し、地域に適合させる営みは、今日のエビデンス移植(国際ガイドラインのローカライズ)に重なります。第三に、資格制度と倫理です。免許・監査・利益相反の抑制、患者の安全の優先といった枠組みは、国家と市場のはざまで医療の公共性を守る道具立てでした。
女性の関与も忘れてはならない視点です。トロトゥラ伝承は史料批判の対象でありつつ、婦人科・周産期の知が女性の参与とともに蓄積されてきた事実を示します。看護・産婆術・薬草採集は、家と市場の境界で担われ、大学の外にある知の厚みを支えました。サレルノは、そうした不可視の実務と学の壇上が結びつく稀有な場でもあったのです。
総じて、サレルノ大学(医学校)は「港の大学」でした。船、人、書物、薬草、噂、祈り――あらゆるものが流れ込み、その渦の中心で健康という実践テーマが鍛えられました。知を翻訳し、生活に適用し、制度に組み込む。この三歩をいち早く踏み出したことが、サレルノの真価です。現代の医療者・研究者にとっても、専門の壁を越えて共同し、地域の生活に根差す知へと編み直すという課題は変わっていません。サレルノの名は、その挑戦の原点を思い起こさせてくれるのです。

