ザール編入 – 世界史用語集

「ザール編入」とは、第一次世界大戦後に国際連盟の管理下に置かれた石炭産地ザール地方(ザールラント)が、1935年の住民投票を経てドイツへ復帰(編入)した出来事、また第二次世界大戦後にフランスの影響下に置かれた同地域が1955年の住民投票を経て1957年に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)へ編入された過程を指す語として用いられます。つまりザールの「編入」は20世紀に二度起こっており、1回目はナチス政権下のドイツへの復帰、2回目は戦後ヨーロッパ統合の流れの中での西ドイツへの復帰です。どちらも住民投票(国際監視下の plebiscite)を介しており、主権問題と資源・安全保障、そして国際秩序(国際連盟→欧州統合)の節目が重なった出来事として理解されます。以下では、(1)ヴェルサイユ体制下のザール問題の背景、(2)1935年の住民投票とドイツ編入、(3)戦後のザール問題と1957年の西ドイツ編入、(4)歴史的意義と論点、の順に分かりやすく解説します。

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ヴェルサイユ体制とザール――石炭・鉄鋼・国境の間に置かれた地域

ザール地方はドイツ西端、フランス国境に接する工業地帯で、豊富な石炭資源と鉄鋼業で知られてきました。第一次世界大戦でドイツが敗れると、ヴェルサイユ条約(1919年)はフランスの戦争被害と復興を補償する目的で、ザール炭田の採掘権を暫定的にフランスへ与え、地域の統治は国際連盟の委任(連盟管理委員会)に付すことを決めました。統治期間は15年間とされ、その満了時に住民投票で将来の帰属(ドイツ復帰・フランス編入・連盟統治継続)を選ぶと規定されました。

この措置には複数の意図が重なっていました。第一に、石炭を押さえることでドイツの再軍備能力を抑制し、同時にフランスの復興を助けること。第二に、国境線そのものはアルザス=ロレーヌの返還で一応確定させつつ、ザールを「緩衝地帯」として国際管理に置くことで、両国の直接衝突を緩和すること。第三に、民族自己決定の理念と戦後賠償の現実を妥協的に接続し、時間をおいて民意で最終決着を図ることです。ザール住民はドイツ語圏で、文化・言語の面ではドイツとの結びつきが強かった一方、経済はフランス市場や資本と密接に結ばれていきました。

国際連盟の管理下では、警察や行政は国際職員と地元官僚が担い、政治的自由は一定程度認められましたが、主権国家としての完全な自治ではありませんでした。炭鉱で働く労働者、鉄鋼業の企業家、フランスと取引する商人、国境を越える通勤者など、さまざまな利害が交錯し、地域社会は複雑な思惑の中に置かれました。

1935年の住民投票とドイツ編入――宣伝戦と国際監視の下で

1933年にナチ党がドイツで政権を掌握すると、1935年のザール住民投票は国際政治の注目を集めました。投票の選択肢は(1)ドイツへの復帰、(2)フランスへの編入、(3)連盟統治の継続の三つでした。国際連盟は平和維持軍(主に英・伊・蘭・スウェーデンなど)を派遣し、投票の自由と治安の確保に努めましたが、各陣営の宣伝活動は激しく、亡命者や反ナチ勢力への圧力も問題となりました。

結果は、過半数どころか圧倒的多数(九割近く)がドイツへの復帰を支持しました。背景には、言語・文化的な同一性、失業と不況の中でナチ政権の「雇用回復」宣伝が効いたこと、連盟統治の暫定性への倦怠、フランスへの直接編入への抵抗感などが挙げられます。とりわけ国境地帯としての不安定さや、組合・教会・地域の保守的世論が「秩序」への期待を強めた側面は小さくありません。投票は国際監視の下で実施され、手続は概ね公正とされましたが、結果解釈をめぐる議論は残りました。

この住民投票は、ナチ・ドイツにとって大きな宣伝勝利となりました。軍事衝突を伴わない「国土回復」を国際的に承認させ、再軍備・ラインラント進駐(1936)へと続く既成事実化の一歩になったからです。編入後、ザールはドイツの行政区に組み込まれ、炭鉱・製鉄は国家総力戦体制の資源基盤の一部に組み入れられていきます。他方、反ナチ勢力に対する監視と弾圧が強まり、亡命者の一部はフランスや他国へ再び逃れました。

戦後のザール問題と1957年の西ドイツ編入――欧州統合の通過点として

第二次世界大戦後、フランスは安全保障と復興の観点から、ライン川西岸の要衝であるザールを再び自国の経済圏に結び付けようとしました。1947年、ザールは政治的には自治的な「ザール保護領」とされ、経済・通貨はフランスと結び付けられました(フランス・フランの導入、関税同盟、フランス資本による炭鉱管理など)。言語・文化はドイツ語を基盤としつつ、フランス語教育の強化などが進められ、独仏双方の影響が重なり合う状況が続きました。

しかし、戦後の大きな潮流は、独仏対立の再燃ではなく、欧州統合へ傾いていきます。1950年のシューマン宣言、1951年の欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)の設立は、石炭・鉄鋼という「戦争の素材」を共同管理下に置く試みでした。ザール問題も、この文脈で再処理されます。1954年、独仏・ベネルクス・伊が参加したパリ協定で「ザール欧州化(ザール規約)」が合意され、ザールは欧州的地位を持つ準独立地域として扱う計画が立てられました。

ところが、ザール住民は1955年の住民投票でこの「欧州化」案を否決します。地元では、曖昧な中間地位よりもはっきりした国家帰属を望む声が強く、また西ドイツ経済の急成長(経済奇跡)への期待が膨らんでいました。結果を受けて独仏はザール条約(1956)で妥協し、1957年1月1日、ザールは西ドイツの州(ザールラント)として正式に編入されます。通貨は一定の移行期間を経てドイツ・マルクへ移行し、炭鉱の帰属や賠償・供給契約も段階的に調整されました。

この経緯は、独仏が武力や一方的占領ではなく、交渉・条約・住民投票で国境問題を処理し得ることを示しました。ザール編入(1957)は、欧州統合の進展(のちのEEC、EU)と連動し、対立の資源を共同管理と法的手続で克服するモデルケースとしても意味を持ちました。

意義と論点――国民投票の意味、資源と主権、記憶のゆらぎ

第一に、ザールの二度の編入はいずれも住民投票を経ていますが、その意味は同じではありません。1935年はナチ支配の拡大という国際政治の緊張の中で、民族・言語・雇用不安が絡み合った選択でした。1955年は欧州統合と西独復興のなかで、生活とアイデンティティの再編をめぐる選択でした。どちらも「民意」の表明である一方、選挙キャンペーンの環境、国際監視のあり方、周辺国の影響力、情報の流れなど、条件は大きく異なります。住民投票は万能の正当化装置ではなく、その手続と文脈を吟味して理解する必要があります。

第二に、資源と主権の結びつきです。ザールの石炭は、戦間期・戦後ともに国家安全保障と産業の中核でした。フランスは対独安全保障の観点から、ドイツは復興と軍需の観点から、それぞれザールに強い関心を持ちました。ECSCによる共同管理は、資源をめぐる主権の排他性を緩め、対立を制度化で回避する発想の先駆けでした。ザールの帰属は、単なる地図の線引きではなく、資源・労働・市場をどう配分・連結するかという経済統合の問題系に直結していました。

第三に、地域社会の記憶とアイデンティティです。ザールは独仏の「はざま」にありながら、独自の文化・方言・労働運動・サッカー(ザール代表が一時期FIFAに単独加盟した事実など)を育てました。学校、教会、組合、地域メディアは、編入の前後で言語政策や教科書、祝祭日のあり方を変えざるを得ませんでした。住民の生活史を追うと、国家の決定だけでは見えない、越境通勤、混合家庭、移民、企業ネットワークなどの微視的連続性が浮かび上がります。

最後に、歴史教育の観点では、ザール編入は「ナチの膨張」「欧州統合の進展」という二つの大きな物語の節目としてしばしば登場しますが、同時に国際監視の下の投票、治安維持部隊の駐留、宣伝戦、住民の移動、企業と労働の利害調整といった具体の運用を見ていくことが大切です。大国政治と地域社会の相互作用を具体的に捉えることで、抽象的な国際政治史が生活の歴史として立体化します。

総じて、ザール編入は、戦争と平和、資源と主権、民族と生活、国家と統合という20世紀ヨーロッパの主要テーマが凝縮した事件でした。1935年の編入はファシズムの拡大の一里塚、1957年の編入は欧州統合の実験場という対照的な意味を持ちます。二つを並べて学ぶことで、住民投票という制度の力と限界、資源をめぐる政治の現実、そして紛争の解決における法と交渉の重要性を、多面的に理解できるはずです。