インド政庁とは、英領期における「英領インド政府(Government of India)」を指し、東インド会社統治から王冠統治(1858年)への転換以後、デリー(当初はカルカッタ)に置かれた副王政府を中心とする統治機構の総称です。ロンドンのインド省と結びついた二重の中枢(本国—現地)を持ち、中央の副王・執務評議会、立法評議会、各省(内務・財政・公共事業・教育など)と、ベンガル・ボンベイ・マドラス等の管区政府、州・県・郡の官僚機構が階層的に構成されていました。司法・財政・治安・公共事業・教育・人口統計・測量・遺跡保護など多岐にわたる業務を担い、同時に選挙や自治の拡大に伴う政治改革(1909年・1919年・1935年)を段階的に実施しました。インド政庁は、鉄道・灌漑・港湾の建設や法典編纂を進めつつ、徴税と軍事動員、検閲・警察権を通じて支配を維持した組織でもありました。本稿では、成り立ちと中枢構造、地方統治の仕組み、司法・財政・公共事業と制度改革、首都移転と官庁都市、戦時体制と終焉という観点から、全体像を分かりやすく整理します。
成り立ちと中枢構造:副王政府・評議会・立法機関
1857年の大反乱を受け、1858年に会社統治が廃されて王冠統治へ移行すると、インド政庁の長は名目上「女王(王)」、現地ではその代理たるインド総督(副王)となりました。副王の下には、各省を所管する執務評議会(Executive Council)が置かれ、内務・財政・軍事・公共事業・教育・通商などのポートフォリオを分担しました。評議員は当初ほぼ全員がイギリス人高等官僚で、のちに少数のインド人が登用されます。中央の政策決定は、ロンドンのインド省の指示・同意を前提とし、海底電信の発達とともに週単位の往復で意思決定が行われるようになりました。
立法面では、総督(副王)立法評議会が法令の制定・改正を担い、19世紀末から20世紀にかけて構成員と権限が拡張されました。1909年モーレー=ミントー改革では、議席拡大と宗派別選挙区が導入され、1919年モンタギュー=チェルムスフォード改革では中央・州の両レベルで選挙に基づく代表制が広がります。1935年インド統治法では、中央に二院制を整えつつ、州の責任内閣制が大幅に前進しました。もっとも、外交・防衛・治安の中枢は副王と本国が握り続け、非常権限(緊急令・条例制定権)による介入が常に発動可能でした。
官庁組織としては、内務省(治安・検閲・刑事法制)、財務省(歳入・関税・通貨)、公共事業省(鉄道・港湾・道路・灌漑)、教育省(学校教育・大学・言語政策)、保健・衛生、通信(郵便・電信)などが整備され、統計局・国勢調査局、地理測量局(サーベイ・オブ・インディア)、考古局(AS I)が専門機関として機能しました。これらは帝国の「見える化」を支える技術官僚組織であり、地図・人口・耕地・水利・遺跡情報の収集・管理が政策の基盤となりました。
地方統治の仕組み:管区政府・県政とICS・警察
インド政庁の統治は、中央—管区(プレジデンシー/州)—県(ディストリクト)—郡・タルクの階層で運営されました。ベンガル・ボンベイ・マドラスの三大管区に加え、パンジャーブ、ユナイテッド・プロヴィンシズ、ビハール&オリッサ、中央州、アッサム、ビルマ(1937年に分離)などが独自の知事(総督)府を持ち、州評議会が行政を担いました。最末端の要は県政で、区長(ディストリクト・コレクター/マジストレート)が徴税・治安・司法補助・公共事業・飢饉救済を統括し、彼らを支えたのがインド文官(ICS)と警察(IP)でした。
ICSは公開競争試験で採用されるエリート官僚で、土地収税と司法行政を兼掌する「コレクター制」の中核を担いました。彼らは地方言語と慣習法を学ぶ一方、近代的な台帳・地籍・測量・統計を基に徴税と紛争処理を行います。土地制度では、ベンガルの恒久地代制(ザミーンダール制)、北西インドのライヤットワーリー制(小農直課)、マハールワーリー制(村落共同体課税)など地域差が大きく、これが社会の階層秩序と農村政治の構図を規定しました。警察は治安維持と情報収集、政治監視(特別支部)を担い、政治犯の取扱いや集会・出版の規制に大きな権限を持ちました。
藩王国(プリンシー・ステート)は、英領直轄州とは別の枠で扱われ、政庁はレジデント(駐在官)と条約を通じて宗主権(パラマウンシー)を行使しました。藩王は内政の一定の自律を保ちつつ、外交・防衛・通信・鉄道に関して政庁の監督を受け、必要に応じて藩王会議(チェンバー・オブ・プリンシズ)で合議が行われます。これにより、インドの版図は直轄と藩王領のモザイクとして維持され、政庁はその結節点として機能しました。
司法・財政・公共事業と制度改革:法典化、鉄道・灌漑、選挙の拡大
司法では、1860年のインド刑法典(IPC)、刑事訴訟法、民事訴訟法、証拠法などの法典化が進み、各プレジデンシー高等法院を頂点に下級裁判所が整備されました。ロンドンの枢密院への上告も長らく認められ、英法の理念と在地慣習が交錯する複合的な法秩序が形成されます。陪審・治安判事制度、弁護士資格の整備は、都市の法曹界と公民権運動の舞台を育てました。
財政では、関税・塩税・土地収税が柱で、鉄道利子保証や年金、軍事費、ロンドンへの送金(ホーム・チャージズ)が重荷となりました。通貨は銀本位を基軸に変遷し、為替・物価は世界経済の動揺に敏感でした。飢饉救済は政庁の重要任務で、飢饉委員会の勧告に基づく公食・公共土木・輸送補助が制度化される一方、自由放任と財政均衡を優先して対応が遅れた例もありました。
公共事業では、鉄道網の建設と国有化、運河・井堰による灌漑、港湾と灯台、道路・橋梁、郵便・電信が整備され、産地と港を結ぶ「帝国の動脈」が形成されました。鉄道は兵力投射と市場統合を同時に実現し、地方都市の成長と移動の常態化、疫病・情報の拡散など社会構造を大きく変えました。教育では、大学法に基づくカルカッタ・ボンベイ・マドラス大学の設置、州ごとの教育審議会、言語政策(英語・各地語)の配分が進み、近代知識人と官吏層を育みます。考古・博物館・記録局は、遺跡保護と「帝国的知の体系化」を担いました。
政治改革は段階的に実施されました。1909年改革では立法評議会の拡充と宗派別選挙区が導入され、1919年改革は州に二元統治(ディアーキー)を敷き、教育・保健・農業などの「移譲科目」を選挙で選ばれた大臣が担当します。1935年統治法は州の責任内閣制を大幅に拡充し、1937年選挙では多くの州でインド人内閣が誕生しました。とはいえ、治安と財政の要は政庁が握り、非常令や知事権限が改革の上限となり続けました。
首都移転と官庁都市:カルカッタからデリーへ、ニューデリーの建設
インド政庁の首府は長らくカルカッタに置かれていましたが、1911年のデリー・ダーバールで首都移転が発表され、その後ニューデリーの建設が進みます。ルーテンスとベイカーの計画により、国会議事堂、セントラル・ビスタ、ノース/サウス・ブロック(省庁庁舎)、副王館(現ラシュトラパティ・バワン)などが配置され、広幅員道路と記念軸線が帝国の権威を可視化しました。1931年、官庁街は正式に開庁し、政庁の中枢と都市空間が一体化した「帝国の舞台装置」として機能します。官僚・軍人・商人・労働者の流入は都市社会を刷新し、住宅・衛生・交通の問題も拡大しました。
戦時体制と終焉:第一次・第二次大戦、非常権限、独立への移行
二度の世界大戦は、インド政庁の性格を戦時国家へと転換させました。第一次大戦では英印軍の海外派兵と物資動員が拡大し、戦後不況とともに政治改革要求が強まりました。第二次大戦では、インド総督は本国決定に従って参戦を宣言し、配給・物価統制・検閲・治安法の運用が徹底されます。ベンガル飢饉(1943年)は輸送・蓄米・軍需優先の失策が重なった惨事として、政庁の統治能力と倫理を厳しく問いました。1942年の「インド退去運動」への弾圧、労働争議・兵士反乱(1946年)への対応など、戦時と終戦の揺らぎの中で、政庁の正統性は急速に低下していきます。
戦後のキャビネット・ミッションは連邦構想と制憲への道筋を提示し、委任統治的な移行を経て、1947年にインドとパキスタンが分割独立しました。これにより英領インド政庁は解体・移管され、1950年にはインド憲法が施行されて共和国体制が始まります。行政機構の多く(官庁街・鉄道・測量・統計・司法システム)は、新国家のもとで改編されつつ継承されましたが、権力の源泉は「王冠—副王」から「人民—議会—憲法」へと置き換えられました。
総じて、インド政庁は近代インドの制度とインフラの枠組みを形づくった一方、植民地支配の装置としての性格を色濃く持ちました。法典と鉄道、測量と統計、大学と博物館、そして徴税と警察・軍事・検閲—これらが単一の行政体の下で連結され、帝国の秩序と市場統合を支えたのです。改革と抑圧、近代化と収奪、中央集権と地方自治の拮抗を見ていくことで、「インド政庁」という用語の具体的な実像に近づくことができます。

