「産業別組織会議(CIO)」は、1930年代のアメリカ合衆国で誕生した労働運動の全国連合で、職種別に組織する従来のAFL(アメリカ労働総同盟)に対して、同一産業に働く人びとを職種横断でひとつに束ねる「産業別組織(industrial unionism)」を掲げたことが最大の特徴です。世界恐慌の大量失業とニューディール期の労働立法の追い風のなかで、CIOは自動車・ゴム・電機・鉄鋼・港湾・電気通信などの巨大産業で、移民・黒人・女性・非熟練労働者を含めた大規模組織化に成功しました。フリントの坐り込み(1936–37年)に象徴される現場闘争、Wagner法(全国労働関係法)の活用、政治行動委員会(CIO-PAC)による選挙関与、第二次世界大戦下の生産動員と人種差別撤廃の取り組みなどを通じて、合衆国の労使関係と民主政治に大きな痕跡を残しました。戦後はタフト=ハートレー法による規制、冷戦下の反共追放、南部組織化の難航(オペレーション・ディクシー)を経て、1955年にAFLと統合しAFL-CIOとなります。本稿では、CIOの成立背景と理念、主要産業での組織化と闘争、政治・戦時体制との関わり、戦後の転機と統合、評価と遺産を、できるだけ分かりやすく解説します。
成立背景と理念――職種別から産業別へ、門戸を開く発想
1930年代初頭のアメリカは、世界恐慌で失業率が20%を超える危機に直面していました。これまでのAFLは熟練工の職種別組合を中心に据え、工場内の職群ごとに別々の組合を持つのが原則でした。大量生産工業では、非熟練・半熟練の労働者が多数を占め、移民・地方出身者・黒人・女性が混在します。こうした現場で職種別の細分化は組織化の障害となり、経営側の分断統治にも利用されました。
ニューディール期に制定されたWagner法(1935年全国労働関係法)は、団結権・団体交渉権・不当労働行為の禁止を法的に保障し、NLRB(全国労働関係委員会)が選挙と救済を執行する仕組みを整えました。この新制度のもとで、炭鉱労組UMWの指導者ジョン・L・ルイスは、産業別に一斉に組織化を進める構想を提起します。彼はAFL内部に「産業別組織会議(Committee for Industrial Organization)」を設けて推進し、のちにAFLとの対立激化を受けて「Congress of Industrial Organizations(産業別組織会議)」として独立させました(1938年)。
産業別の理念は単に効率の問題ではありませんでした。CIOは、肌の色・性別・技能にかかわらず同じ工場の労働者を同じ組合に迎え入れる方針を打ち出し、賃金・労働時間・安全・差別撤廃・発言権の拡大を、一体の要求として掲げました。会費の低廉化、職場委員制度、職能教育、共済、文化活動など、組合を生活の拠点にする工夫も重視されました。
主要産業での組織化と闘争――坐り込み、鋼鉄、電機、自動車
CIOの飛躍を決定づけたのは、自動車とゴム、電機、鉄鋼における連戦連勝でした。象徴的事件は、ゼネラル・モーターズ(GM)の工場で1936年末から37年初頭にかけて展開された「フリント坐り込み(sit-down strike)」です。UAW(全米自動車労組)に結集した労働者は、工場占拠で生産ラインを止め、警察・私設警備の排除に成功し、最終的にGMは組合承認と団体交渉に合意しました。この成功は全米の工場に波及し、フォードやクライスラーにも組織化の圧力を与えました。
鉄鋼では、SWOC(鋼鉄労組組織委員会、のちUSWA=全米鉄鋼労組)が「ビッグ・スチール」(USスチール)との交渉に成功し、最低賃金と労働時間の規制、安全基準、苦情処理の手続きを確立しました。一方で、独立資本の「リトル・スチール」では1937年に激しい衝突(メモリアル・デイ虐殺など)が起き、組織化は難航しました。電機・ゴムでもUE(全米電機無線労組)やURW(全米ゴム労組)が、工場選挙とスト、NLRBの救済を組み合わせて拡大しました。
これらの闘争は、従来のピケットや時限ストに加え、坐り込み・スロー・ダウン・苦情処理制度の活用・安全問題の可視化など、多様な戦術で現場権力を築いた点が特徴です。交渉では「閉鎖店(union shop)」「代理チェックオフ(組合費の給与天引き)」「苦情の三段階手続」「仲裁」の制度化が追求され、労使のルールが整備されていきました。
政治行動と戦時体制――CIO-PAC、差別撤廃、ノー・ストライク・プレッジ
CIOは早くから政治の重要性を認識しました。1943年にアメリカ初の全国規模の政治行動委員会CIO-PACを設立し、登録・動員・献金・広報を通じてニューディール派・民主党左派を支援しました。最低賃金・最長労働時間を定める公正労働基準法(FLSA, 1938)や社会保障の拡充、公的雇用、住宅、教育投資などの政策アジェンダと、選挙の現場を直結させたのです。
第二次世界大戦期、CIOは「ノー・ストライク・プレッジ(戦時中のスト回避)」を掲げ、生産性向上と兵站の安定に協力しました。代わりに戦時労働委員会による賃金調整と仲裁、労組承認の促進が図られ、組合は組織率を伸ばします。人種問題では、CIO内に反差別委員会を設置し、工場内の昇進差別や職務区分の見直し、FEPC(公正雇用実施委員会)への働きかけを強めました。黒人労働者や女性の参入が進む中で、CIOは教育・文化活動を通じて職場の連帯を育て、戦後の公民権運動に人材と経験を供給しました。
戦後の転機――大争議、タフト=ハートレー法、反共と南部組織化の壁
戦後直後(1945–46年)、抑制されていた賃金要求が一気に噴出し、自動車・鉄鋼・電機などで大規模争議が相次ぎました。これに対して経営団体と保守政治は労働規制を強化し、1947年にタフト=ハートレー法が成立します。同法は二次的ボイコットの制限、クローズド・ショップの禁止、経営側の広報自由化、組合幹部の反共宣誓義務などを定め、CIOの戦術と政治的地平を狭めました。
冷戦の始まりとともに、CIO内部でも反共路線が強まり、1949–50年には左派指導部の諸組合(UE=電機、ILWU=港湾、Mine-Mill=鉱山冶金など)が追放・脱退の対象となりました。これにより一部の産業で組織分裂が起き、企業側の巻き返しも容易になりました。他方、南部の低賃金地域を組織化する「オペレーション・ディクシー」(1946~)は、人種差別と反労組文化、州法の制約(ライト・トゥ・ワーク法)に阻まれ、期待した成果を挙げられませんでした。CIOは成長の上限と政治的孤立に直面します。
AFLとの統合とその後――1955年AFL-CIOへ
1950年代に入ると、産業構造の変化(自動化・郊外化・サービス化)、保守的政治環境、内部の路線対立を背景に、CIOとAFLの間で協議が進み、1955年に両者は統合してAFL-CIOを結成しました。統合は、重複組織の整理、対企業・対政府交渉の一本化、腐敗排除と内部民主主義の強化を意図し、以後のアメリカ労働運動はこの統合組織を軸に展開します。CIOの産業別理念は、統合後も自動車・鋼鉄・通信・公共部門などの大型組合に受け継がれ、賃金パターン交渉、福利厚生の企業内制度(医療保険・年金)といった戦後的枠組みの形成に大きく寄与しました。
評価と遺産――包摂の拡大、交渉の制度化、そして限界
CIOの歴史的意義は、第一に、労働運動の包摂性を拡大したことにあります。非熟練・移民・黒人・女性の大規模組織化は、産業社会の民主化に直接的な影響を与え、都市の生活水準を押し上げました。第二に、企業別・産業別の交渉制度を確立し、賃金・時間・安全・苦情処理・仲裁を「ルール」に乗せたことです。これにより、労使の力関係は「手続の場」に持ち込まれ、予見可能性と安定が高まりました。第三に、政治と労働の連関を制度化し、社会保障・最低賃金・公共投資・人種差別撤廃などの政策に継続的な影響力を行使したことが挙げられます。
同時に、限界も明白でした。冷戦下の反共追放は、草の根の組織力や国際連帯、急進的な人種平等運動に冷水を浴びせ、特に港湾・電機などで組織の分断を招きました。南部の組織化の失敗は、地域格差と人種分断を固定化し、のちの米労働運動の弱点となります。さらに、雇用と社会保障を企業別の交渉に過度に委ねた結果、医療・年金の「企業依存型福祉」が形成され、景気変動や産業空洞化の時代には脆弱性が露呈しました。
国際比較の視点から見ると、CIOの産業別主義は欧州の産業別・一般労組に近い発想を合衆国に根付かせた点で画期的でしたが、国家レベルの協約や法定の産業評議会が弱い制度環境では、個別企業交渉に回帰する傾向が強まりました。それでも、CIOが作った包摂の文化、交渉の作法、政治参加のツールは、公民権運動、フェミニズム、移民の権利運動、公共部門の組織化など、多くの領域へ波及しています。
まとめ――工場の現場から民主政治へ橋をかけた運動
産業別組織会議(CIO)は、工場現場の労働者が職種や肌の色、性別の壁を越えて一つに結び、企業と国家の両方に向けて交渉のルールを作り替えた運動体でした。坐り込みと選挙、NLRBと法廷、職場委員と政治行動、教育と文化活動――CIOはこれらを組み合わせ、産業民主主義の手触りを具体化しました。戦後の統合によって看板は消えましたが、その理念と技法は、AFL-CIOや数多くの産業別・企業別組合を通じて息づき、今日の労働と民主政治の基盤の一部となっています。CIOを学ぶことは、経済と社会の巨大な歯車に、現場からどのように力を加え、どのように制度へと変換していくのかという、実践の知恵を学ぶことにほかなりません。

