高句麗遠征とは、中国大陸を再統一した隋および唐が、7世紀に東北アジアの強国・高句麗を軍事的に屈服させようとして行った一連の大規模作戦を指します。隋は598年と612〜614年にかけて四度の遠征を敢行しましたが、遼東城攻囲や鴨緑江渡河、薩水(臨津江)会戦などで大損害を受けて挫折し、これが内政の破綻と王朝崩壊を早める要因となりました。唐は当初は抑制的でしたが、642年の淵蓋蘇文のクーデター以後は対高句麗強硬策に転じ、645年の太宗親征(安市城攻囲)を皮切りに恒常的な圧力をかけました。唐はまず660年に羅唐同盟で百済を滅ぼし、最終的に668年、李勣(徐懐仁)らの総攻撃で平壌を落として高句麗を滅亡させました。遠征の勝敗は、単なる兵力差ではなく、補給と地形、季節運用、山城・水城の連携、防衛側の政治統合の成否など複合要因で左右されました。以下では、隋の遠征、唐の遠征、戦場地理と軍制、東アジア秩序への影響という観点から整理します。
隋の高句麗遠征:巨大動員と兵站破綻の連鎖
598年、隋文帝は高句麗の境上挑発や靺鞨勢力との関係を問題視し、遼東方面へ初の懲罰遠征を行いました。ところが行軍は長雨と疫病に阻まれ、海路の艦隊も暴風で打撃を受けて退却しました。この失敗は隋の北方・東北戦略に残る課題—すなわち遠隔地作戦の補給管理—を露呈したにすぎませんでした。
大規模作戦は煬帝の代に本格化します。612年、煬帝は数十万規模の動員(史書は百余万と誇張します)で遼東半島から高句麗を攻めました。主目標は遼東城・白巌城などの要衝制圧と、鴨緑江を渡って平壌に至る戦略路の開通でした。隋軍は陸海の二正面で圧力をかけ、遼東城包囲や水陸連携を試みますが、城郭の抵抗と補給線の伸張に苦しみ、ついに臨津江域の薩水で高句麗軍の誘導・包囲に遭い、大損害を出しました。河川の増水、橋梁の未整備、退路の混乱が惨敗を決定づけました。
613年には再度の親征が行われ、遼東での攻囲と鴨緑江渡河の再試行がなされますが、国内では楊玄感の反乱が勃発し、主力の撤収を余儀なくされました。614年の第四次遠征は講和に傾き、高句麗は俘虜返還と朝貢再開を約したものの、隋側は既に消耗しており、国家財政・土木動員・徴発の過負担が全国的な反乱を誘発して、隋はまもなく崩壊します。総じて、隋の遠征は巨大な動員力を硬直した兵站が支えきれず、季節・地形・河川・海象に翻弄された作戦でした。
唐の高句麗遠征:戦略段階の分解と同盟の活用
唐は成立直後、突厥や西域の安定化に注力しつつ、高句麗とは使節を通じて相対的均衡を保ちました。しかし642年、国内で淵蓋蘇文がクーデターを起こして政権を掌握すると、唐は半島秩序の編成し直しに乗り出します。まずは南側の足場固めとして、新羅との同盟を強化し、660年に蘇定方の指揮で百済を攻めて滅ぼしました。これにより、高句麗は南から新羅、北西から唐という二正面圧力に晒されます。
645年の太宗(李世民)親征は、高句麗の防衛線を北西から突破する先制的試みでした。唐軍は遼河を渡り、蓋牟城・卑沙城などを攻略しながら前進しましたが、安市城の攻囲で頑強な抵抗に遭遇します。高句麗の将楊萬春(伝承上の名)らが守る安市城は、土木防御と奇襲を重ねて持久戦に持ち込み、唐軍は秋雨・疫病・補給難のため撤退しました。この時点で唐は、一撃での屈服は困難と判断し、長期の圧迫戦略に切り替えます。
高宗期には、遼東・遼西に安東都護府などの軍政拠点を置き、遼東城群の切り崩しと海上機動を併用して高句麗の側背を脅かしました。百済滅亡後は熊津都督府の設置、新羅への増援派遣により半島南部からの圧力を維持します。667年には李勣(徐懐仁)・契苾何力・劉仁軌らが北西正面から前進し、翌668年、連続する要城陥落を経て平壌を包囲・陥落させました。王族・貴族層は俘虜として長安に送られ、唐は安東都護府を通じて現地統治を試みますが、新羅の自立化と高句麗系遺民の抵抗により、唐の直接支配は長期化しませんでした。
戦場地理・軍制・後方:勝敗を分けた条件を読む
高句麗戦線の最大の特徴は、城郭網と自然地形の相互補完にあります。遼東半島は細長く、峻嶺と河川が多い上に要城が階段状に配置され、外敵は一城ごとに兵・糧・工兵を消耗させられました。山城は急峻な尾根筋に築かれ、平地城と連絡路で結ばれて、退却・増援・伏撃が自在でした。河川は季節によって水位と流速が大きく変動し、渡河点の確保・橋梁建設・舟橋の維持は攻勢側の死活問題でした。隋の薩水敗北や唐の安市撤退は、こうした自然条件と補給の相互作用の典型例です。
補給は、穀物・飼料・矢弾・工材・冬装備の確保と輸送に尽きます。遠征軍は大運河や内陸河川・海運を駆使して前線へ物資を押し上げましたが、遼東以東では地上補給が細くなり、現地徴発は敵対化を招いて逆効果になりがちでした。高句麗側は穀倉・塩・鉄・馬の確保と避難路の管理に優れ、籠城と野戦を織り交ぜて攻勢側の時間と季節を奪いました。冬季は凍結が移動を助ける一方、寒さが兵站と士気を削り、夏季は疫病と湿潤で攻囲戦が長引きます。遠征の成否は、開戦季節の選定と、数シーズンにわたるローテーション設計に強く依存しました。
軍制面では、攻勢側の隋・唐は歩騎混成軍に重装歩兵・攻城工兵・弩兵・火器(投石機・火矢)を配し、海上では楼船・戦艦を投入しました。唐は特に諸蕃騎(契苾氏など突厥系)や遼東在地勢力を編入して柔軟な戦力構成をとり、局地戦では機動と火力の集中で突破口を開きました。防御側の高句麗は、騎射と山城の守備戦に優れ、土木・水利を駆使した城郭防御、夜襲・伏兵・偽退却など心理戦も駆使しました。政治面の統合度—たとえば淵蓋蘇文体制下の専制的統率—は短期的には防衛力を高めましたが、長期戦では貴族層の離反や民心の疲弊を招き、最終局面での崩壊性を高めたとも評価されます。
情報・外交も勝敗の鍵でした。唐は新羅との同盟で南正面の圧力を代理化し、まず百済を除去して補給線の安全性を確保しました。さらに遼西・遼東の城主や豪族を切り崩し、投降者・俘虜から地理・兵力の情報を収集して攻囲の効率を上げました。高句麗側も百済・靺鞨・契丹との連絡を模索しましたが、百済滅亡後は背後の不安が増し、消耗戦で劣勢が固定化します。
遠征の帰結と東アジア秩序:隋の崩壊、羅唐の再編、渤海の登場
隋の遠征失敗は、過度な動員・土木(大運河・長城修築など)・賦役がもたらした社会的疲弊を顕在化させ、各地の反乱と軍事クーデターの連鎖に火をつけました。対外戦争の挫折が内政崩壊の触媒となった代表例です。唐は一転して遠征を制度的に分解し、同盟・段階攻略・恒常拠点化で再編を進めて成功を収めましたが、勝利後の統治は容易ではありませんでした。
半島では、新羅が唐と協力して百済・高句麗を倒したのち、唐と対立して「統一新羅」体制を築きます。唐は安東都護府などで直接支配を試みるも、新羅・高句麗遺民の反発と遠隔統治のコストから持続できず、やがて撤収して影響力の間接化へ舵を切りました。北方では、高句麗遺民と靺鞨が合流して渤海(698年)が成立し、唐・新羅・日本と外交・交易を展開して東北アジアの多極秩序に新たな極を加えました。
軍事史・制度史の視点からは、高句麗遠征は、古代帝国が遠距離作戦を遂行する際のロジスティクス、季節運用、城郭攻囲技術、海陸統合作戦、同盟戦略の「教科書」として読むことができます。さらに、勝利が直ちに安定を意味しないこと—すなわち征服後の行政・租税・軍政の設計が同じくらい重要であること—を示す事例でもあります。
総じて、高句麗遠征は、東アジアの古代国家が地理・季節・社会動員の制約とどう向き合い、戦争と外交を組み合わせて秩序を組み替えたかを映し出す鏡でした。隋の失敗と唐の成功を単純に対比するのではなく、城郭網と補給線、同盟と内政の相互作用として理解することで、当時の戦争がいかに複雑な「総力の政治」だったのかが見えてきます。遠征の跡をたどることは、個別の戦いの勝敗だけでなく、地域秩序の再編とその後の持続可能性を考える手がかりになるのです。

