ジッグラト(聖塔) – 世界史用語集

ジッグラト(聖塔)は、古代メソポタミアの都市にそびえた段丘状の神殿塔で、日干し煉瓦を積み上げた巨大な基壇の上に、都市の守護神を祀る小神殿(祠堂)を置いた構造をとります。地上の神殿区(神域)と天空の神域を階段や斜路でつなぐ象徴的な建築であり、宗教祭祀だけでなく、都市の威信・王権の正統性・共同体の記憶を可視化する装置として機能しました。ウル、ウルク、バビロン、シッパル、ニップル、アッシュール、そしてエラムのチョガ・ザンビールなど、多様な都市で建てられ、時代ごとに改修・増築を重ねています。聖書の「バベルの塔」の連想を呼ぶエテメンアンキ(バビロンのジッグラト)など、後世の想像と結びついた事例も少なくありません。外形は単純に見えて、排水・防水・基礎補強・煉瓦規格など高度な技術の結晶であり、メソポタミア的な「都市と神の契約」を建築化したものと言えるのです。

ジッグラトはピラミッドのような墳墓ではなく、祭儀・奉納・王の即位儀礼や暦祭に関連する宗教施設です。塔上部まで一般市民が上る場ではなく、神官や王が特定の儀礼で上る専用動線が設けられました。都市計画の中心に位置し、周囲には主神殿(地上神殿)、倉庫、作業場、官庁、庭園、聖門などを備えた神域(テメノス)が広がり、行政・経済と祭祀が結節するハブを形成しました。以下では、起源と形態、建設技術と運用、代表的事例、宗教・思想史上の意味と後世の受容を整理します。

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起源と形態――段状基壇・階段・祠堂の三点セット

ジッグラトの原型は、ウルク期(前4千年紀後半)から見られる高壇化した神殿基壇にさかのぼると考えられます。沖積平野で石材に乏しいメソポタミアでは、日干し煉瓦を積み上げて基壇を高くすることで、洪水・地下水位・湿気から聖域を守り、遠望性を確保しました。この「高く掲げる」発想が、段丘状に重ねた大基壇と、その上に祠堂を載せる構成へと発展します。シュメールの都市国家時代には、守護神ごとに固有の神殿と塔が整えられ、ウル第三王朝(前21世紀頃)で本格的な巨大化・規格化が進みました。

外形は、(1)基壇を水平に切り詰めた段(テラス)が2層から7層ほど重なること、(2)正面に長い直線階段やZ字状の階段、両翼に対称階段、あるいは幅広の斜路(ランプ)を備えること、(3)最上部に神像を祀る小神殿(祠堂)を置くこと、が共通します。側面は、垂直のピラスターやニッチ(凹み)を繰り返して陰影を強調し、水平の煉瓦帯や彩色釉瓦でアクセントを付けました。塔の名称には神名や宇宙観を反映するものが多く、バビロンのエテメンアンキ(「天と地の基礎の家」)、ウルのエ・テメン・ニグル(「恐れをもたらす基礎の家」)などがよく知られます。

機能面では、塔自体の内部に大広間が広がるわけではなく、実際の大規模な供宴・倉庫・書記の事務などは、塔の麓に設けた主神殿区画や付属建物で行われました。塔は「神の居所」を天に近づける象徴であり、最上部の小神殿で行われる限られた儀礼と、地上の神域で営まれる日常の祭祀・経済機能がセットで運用された点に特徴があります。したがって、都市における視覚的中心、宗教的焦点、政治的権威の舞台という三重の役割を担ったのです。

建設技術と運用――煉瓦、アスファルト、排水、そして改修の循環

材料の基本は日干し煉瓦(アドベ)で、芯部は大判の生煉瓦を敷き詰め、外装は焼成煉瓦で被覆し、目地や防水にアスファルト(天然瀝青)を用いました。河川の氾濫や地下水の上昇にさらされる地盤に対し、基礎に礫層を敷き、夯(つち)で突き固め、側面には排水溝を設けるなど、耐水・排水の設計が重視されました。段の法面(斜面)は、煉瓦の目地を斜めに通すことで雨水の伝い流れを制御し、表層の風化を抑える工夫が見られます。規格化された煉瓦寸法と刻印は、王朝の統一規格を示す資料でもあります。

施工は、王の号令の下に動員された労働者、神殿に属する職人、川舟で運ばれる葦束・木材・煉瓦用粘土、そして瀝青の供給によって進められました。石材が乏しい代わりに、瀝青と葦・木組みの複合で剛性を高める技術が発達し、また階段・斜路は祭儀の動線としてだけでなく、建設・修理の資材搬入路としても機能しました。上部の祠堂は、祭礼時に神像が「御出座」する場であり、香の煙や供物の匂いが風に流れることで、都市全体に神臨の気配を可視化・可嗅化したと想像されます。

ジッグラトは完成したら終わりではなく、洪水や日射、風化で劣化が早く、王たちはしばしば「先王の塔を再建した」と碑文に記しました。改修は単なる修繕だけでなく、段を一層増やす、外装を彩釉レンガで飾る、階段の正面性を強調するといった「視覚的更新」を伴うことが多く、王権の徳と建設能力の誇示の場でもありました。新王朝は、先代の神殿塔を一から築くよりも、古い聖地を継承・改修することで宗教的連続性を確保し、自らの正統性を高めたのです。

運用面では、年中行事(新年祭・収穫祭)や王の即位・戦勝奉告で、塔への登攀と奉献が行われ、神像の「夜の宿り」を演出する儀礼や、女神と王の「聖婚」を象徴的に表す儀礼が言及されることもあります。もっとも、塔頂を日常的な天体観測所とみなす説は慎重であるべきで、占星術・天文学の記録は主として神殿付属の観測台・屋上や書記室で行われたと考えられます。塔の上から星を観たことはありえますが、ジッグラト=天文台という単純な等式は、遺構と文献の照合を要します。

代表的事例――ウル、ウルク、バビロン、チョガ・ザンビールほか

ウルのジッグラト(現在のイラク南部テル・エル=ムカイヤル)は、月の神ナンナ(シン)に捧げられた塔で、ウル第三王朝のウル・ナンムと子シュルギが前21世紀頃に築き、後代の新バビロニア王ナボニドゥス(前6世紀)が改修した記録があります。基壇は長方形で、三方向の階段が中央の踊り場で合流し、さらに上段へと続く見事な正面性を示します。20世紀に部分修復され、現在も段と階段の力強いプロポーションを望むことができます。

ウルクでは、アヌ丘の「白神殿」を載せた高壇が知られ、ウルク期の神殿建築の到達点を示します。また、エアンナ地区の建築群は、後代に重層的な改築を受け、都市と神殿の関係史を読み解く鍵です。ウルクの高壇は、壁面のニッチと彩色、白い漆喰で遠望性を高め、「都市の顔」として機能しました。

バビロンのエテメンアンキは、主神マルドゥクに捧げられた巨大なジッグラトで、古代の文書には高さ約90メートル級の記述が見られます(実測推定は議論があります)。七層の段と彩釉レンガで飾られたと伝わり、新年祭(アキトゥ祭)では王が神像を伴う行列を率いて神域を巡り、天と地の結合を象徴しました。旧約聖書の「バベルの塔」の物語と重ねられることが多いのは、この塔の圧倒的規模と「天に届く」という表現の力ゆえでしょう。実際には、祭儀の象徴性と政治的プロパガンダが重なった都市記念碑でした。

チョガ・ザンビール(現イラン・フーゼスターン)は、前13世紀にエラム王ウンタシュ・ナプイリシャが築いた宗教都市ドゥール・ウンタシュの中心塔で、エラム版ジッグラトの代表です。エラムの主神インシュシナクらに捧げられ、三重の城壁と神殿群が塔を取り巻く壮大な構成をとります。乾燥地域に適応した排水・通風と、粘土錠や刻印煉瓦の文書資料が豊富で、メソポタミア多民族世界におけるジッグラト受容の広がりを示す遺構です。保存状態が良く、世界遺産にも登録されています。

このほか、アッシリアの諸都(アッシュール、カルフ=ニムルド、ニネヴェ)にもジッグラト型の高壇があり、王宮(城塞)と神域が都市景観を二分して配置されました。ドゥル・クリガルズ(カズィミーヤ付近)にはカッシート期のジッグラト基壇が残り、王朝交替ごとに塔の形式が更新される実例として重要です。各地の塔は、共通の「段状基壇+祠堂」という型を共有しながら、階段配置や彩色、碑文、神域のプランに独自性を示し、地域差・時代差の比較研究に適したコーパスを提供しています。

意味と受容――「天と地の結合」の建築化、記憶の舞台として

ジッグラトは、メソポタミアの宇宙観を建築に翻訳した装置といえます。沖積平野という水平世界に、垂直方向の「軸(axis)」を穿ち、地上世界(人・都市)と天上世界(神々)を可視的に結びます。塔の名称に「天と地の基礎」「恐れをもたらす基礎」といった語が並ぶのは、基礎(temen)に宇宙秩序を定着させる意志の表現です。王は塔の建設・改修を通じて、神への奉仕者であると同時に秩序の守護者であることを示し、都市住民は年中行事と視覚体験を通じて、共同体の一体感と時間の循環を体感しました。

後世における受容では、ヘロドトスの記述や聖書の物語が、ジッグラトへの想像をかき立てました。とりわけ「バベルの塔」は、人間の傲慢と多言語化の寓話として語られ、実在のエテメンアンキと結びつけられてきました。中世・近世の版画や絵画は、ヨーロッパ的塔の意匠でジッグラトを描き直し、近代考古学の発掘以前には、神話と実物の距離が混淆したイメージが流通しました。19世紀以降の発掘と楔形文字解読は、塔が墳墓ではないこと、神殿区と行政・経済が密接に結びついていたこと、王の統治理念が建築的に表現されていたことを、具体的証拠で裏付けました。

現代の都市文化でも、段状テラスや空中庭園風の設え、ランドマークとしての「可視化された権威」は、しばしばジッグラトを想起させます。もっとも、メソポタミアの塔をそのまま模倣したのではなく、「高く掲げることによって意味を与える」という構図が普遍的であるがゆえに、世界各地の記念建築に相同形が見出されるのです。遺跡保護の観点からは、日干し煉瓦の風化対策、排水・植生管理、過度な復元の是非、観光と保護の両立が課題であり、近隣コミュニティの生活・記憶とどう調和させるかが問われています。