「最大多数の最大幸福」 – 世界史用語集

「最大多数の最大幸福」は、18〜19世紀イギリスの思想家ジェレミー・ベンサムが掲げ、のちにJ・S・ミルらが洗練させた功利主義の中核命題です。社会や政策、行為の善悪を、もたらされる「幸福(快)—不幸(苦)」の総量で評価し、可能な選択肢のうち「人々の幸福の総和(もしくは平均)を最大にするもの」を最善とみなす立場を簡潔に表現した標語です。ベンサムは幸福を快楽と苦痛の差として捉え、法や政治の基準を宗教や慣習ではなく可算的な「幸福の算術」によって定めるべきだと主張しました。以降、功利主義は刑罰や貧困救済、議会改革から、現代の費用便益分析、医療・環境政策、AI倫理まで広く影響を与え続けています。

もっとも、この原理はシンプルで強力だからこそ、少数者の権利を踏みにじるのではないか、幸福は測れるのか、質の異なる価値を総和に還元できるのか、といった批判にも晒されてきました。J・S・ミルは「質の高い快楽」と「人格の尊重」を強調して粗さを補い、20世紀以降は規則功利主義や福祉経済学、社会選択理論が形式化と修正を進めています。以下では、由来、方法、発展、主要な論点をわかりやすく整理します。

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定義と起源:ベンサムの命題と近代イギリスの文脈

ベンサムにとって善悪の基準は「快楽と苦痛」です。行為・政策・制度が生む快楽と苦痛を足し合わせ、差し引きが最大になる選択を善とみなす点が特徴です。彼は倫理の土台を、神学や伝統ではなく人間の感受性に置き直し、合理的・世俗的な公共基準を与えようとしました。これは、宗教的分裂や身分的特権の正当化に対し、普遍的で検証可能な尺度を提示する試みでもありました。

標語の「最大多数」は、単なる頭数主義ではありません。ベンサムは当時の「少数特権」政治を批判し、広い人々の利害を可視化するためにこの語を用いました。幸福の範囲は身分・性・人種にかかわらず包摂的であるべきだとされ、功利主義は近代的平等観と親和的に理解されてきました。他方で、「多数」の幸福を理由に少数者の犠牲を正当化しうるように見えるため、後述のような権利・正義の論点が生じます。

歴史的背景として、18世紀後半のイギリス社会は都市化・商業化・刑罰制度の苛烈さ・議会腐敗など多くの課題を抱えていました。ベンサムは刑罰は抑止効果と社会的損失のバランスで最小化すべきだと論じ、貧民救済は自立を促す制度設計で効果を測るべきだと主張しました。彼の「最大幸福原理」は、道徳理論にとどまらず、行政・法・議会の改革理念として機能したのです。

方法と応用:快楽計算・制度設計・費用便益

ベンサムは幸福を数量化するために「快楽計算(felicific calculus)」の視角を用意しました。快楽・苦痛には強度・持続・確実性・接近性(近接性)・多産性(さらなる快を生むか)・純粋性(苦を伴わないか)・広がり(影響人数)といった属性があり、政策代替案をこれらの観点で比較評価します。もちろん、実務で厳密な加算は困難ですが、判断の手順を透明化し、感情や先入観だけで決めない姿勢が重視されました。

この枠組みは、刑罰・救貧・教育・医療・インフラなど公共政策の設計に応用されました。たとえば刑罰は、犯罪による社会的損失を上回るほど重くしてはならず、抑止に必要な最小限の苦痛で足りるのが望ましいとされます。救貧制度では、短期の施しが長期の自立(雇用可能性や健康)を損なわない設計が評価されます。利害が複雑に絡む現代でも、費用便益分析(CBA)や医療のQALY(生活の質調整生存年)など、功利主義的な評価法が広く使われています。環境政策における社会的割引率、交通安全での統計的生命価値(VSL)なども、幸福の総量という観点から議論されます。

政治制度への含意も大きいです。選挙制度・課税・再分配・公共財供給などを、社会的厚生の最大化という観点から設計しようとする態度は、福祉経済学や社会選択理論へと継承されました。パレート効率、厚生関数、カルドア=ヒックス基準(潜在的厚生改善)などは、最大幸福原理の数理的翻案とみなせます。

修正と展開:ミルの質的快楽、規則功利主義、福祉経済学

ベンサムの「快=量」モデルに対し、J・S・ミルは『功利主義論』で質の差を導入しました。彼は「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい」とし、高次の知的・道徳的・美的快楽は、低次の感覚的快楽に優越する価値を持つと主張しました。これは、功利主義が享楽主義の誤解に陥るのを避け、人格の尊厳や教養を評価の中心に据える試みでした。ミルはまた、少数者の権利を守るための自由原理(他者危害原則)を提唱し、単純な多数決の圧制に歯止めをかけようとしました。

20世紀には「行為功利主義(各行為が最大幸福かで評価)」と「規則功利主義(最大幸福に資する一般規則に従うことを評価)」の区別が整えられます。臓器移植のために無辜を犠牲にする、冤罪で一人をスケープゴートにする、といった反直観的な帰結を避けるには、長期的な信頼と予見可能性をもたらす規則の側から評価するほうが、総量でも優れる、という応答が代表的です。さらに、平均・合計・最小幸福の最大化(マキシミン)など、集計方法の選択も精緻に議論されます。

福祉経済学は、功利主義を数理化しつつ、アロウの不可能性定理が示すように、合理的で公平な集計ルールを同時に満たすことの困難も可視化しました。センの潜在能力アプローチは、主観的効用だけでなく「何ができ、何になれるか」という実質的自由を福祉の基準に加える修正路線を提案します。ローズの正義論は、基本的自由の不可侵と最小者の利益最大化(格差原理)を掲げ、功利主義に対抗軸を与えました。とはいえ、公共政策の実務では、厚生関数やCBAが依然として中核的役割を果たし、功利主義の思考様式が制度の言語を形成しています。

主要な批判と論点:権利・少数者・測定・時間・人口倫理

第一に、権利・正義の問題です。功利主義は総量を最大化するために、無実の個人の権利を踏みにじる結果を許容するのではないか、という批判があります。前述の規則功利主義や、長期的信頼の損失まで含めた全体評価で反論は可能ですが、「権利の不可侵」を根拠にする立場とは緊張が残ります。

第二に、測定の問題です。幸福は主観的で、比較人称的(Aの1の幸福とBの1は同じか)に測れないのではないかという疑問です。近年は主観的ウェルビーイング調査、経験サンプリング、健康指標(QALY)などで近似が試みられますが、文化差・適応(慣れ)・選好の形成過程など、数値化の限界は意識する必要があります。

第三に、分配と時間の問題です。総量最大化は、分配の不平等を容認しがちで、富裕者の小さな満足が貧者の大きな利益より重視される危険があると指摘されます。これに対しては限界効用逓減を厚生関数に組み込み、再分配が総効用を高めると理論づける方法があります。時間については、将来の幸福に割引をかけることの正当化(世代間正義)が課題です。割引率の選び方は、気候変動政策の評価などで大きな影響を持ちます。

第四に、人口倫理(どれだけの人が存在すべきか)です。合計功利主義は「もっと多くの人がわずかに幸福なら総量は増える」という直観に反する結論(レパグナント・コンクラージョン)を招くとされます。平均効用主義や閾値ルール、優先主義など様々な修正が提案され、なお議論が続いています。負の功利主義(苦痛の最小化を優先)や動物福祉の取り込みも、射程を広げる論点です。

最後に、文化と価値の多元性です。宗教的義務、尊厳、忠誠、美、権利など、総和に還元しにくい価値をどう扱うかは、功利主義の永続的課題です。実務的には、(1)権利や手続の憲法的制約を設定して功利計算の外縁を決める、(2)複数目的の政策評価(多基準分析)で単一指標を補う、(3)参加型プロセスで価値の重み付けを公開討論に委ねる、といった折衷が模索されています。