サンフランシスコ会議 – 世界史用語集

サンフランシスコ会議は、1945年4月25日から6月26日までアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコで開かれた「国際連合憲章制定会議(United Nations Conference on International Organization)」の通称です。第二次世界大戦の最末期に、連合国側の50か国代表が集まり、恒久的な国際機構の基本条約である国際連合憲章(以下、憲章)を議論・起草・採択しました。会議は4つの委員会(一般委員会・委員会I(目的と原則など)・委員会II(総会・理事会など)・委員会III(信託統治など)・委員会IV(条約技術・前文など))に分かれて進められ、ヤルタ会談での大枠合意を出発点に、加盟国の主権、集団安全保障、地域的取極、植民地・委任統治の移行、人権の位置づけなど、多岐にわたる論点が交錯しました。6月26日に憲章が署名され、同年10月24日、必要な批准が整って発効し、新たな国際秩序の枠組みが稼働を開始しました。サンフランシスコ会議は、戦時連合から平時の国際機構へ移る「継ぎ目」に立つ場であり、戦後の外交・安全保障・法秩序の運転方法を具体的条文に落とし込んだ交渉の現場でした。

スポンサーリンク

背景と開催までの道筋――大西洋憲章からダンバートン・オークスへ

サンフランシスコ会議に至る道筋は、戦争中の段階的な合意形成に遡ります。1941年の大西洋憲章は、米英が戦後秩序の原則(領土不拡大、民族自決、貿易の自由、集団安全保障の確立など)を掲げ、のちに「連合国宣言」(1942年)で対枢軸共同戦線の政治的土台が固められました。1944年のダンバートン・オークス会談では、米英ソ中が新国際機構の骨格案(総会、理事会、安全保障理事会、経済社会理事会、国際司法裁判所、事務局)をまとめ、加盟、投票、制裁の仕組みなどが粗く設計されました。さらに1945年2月のヤルタ会談で、安全保障理事会の常任理事国に与える「拒否権(大国一致)」の扱いが内々に整理され、サンフランシスコ会議は、これらの骨組みに法技術と言葉を与える仕上げの場として設定されました。

会議の参加国は50か国で、ポーランドはソ連の影響下で代表権が遅れたため、締結文書には空席のまま署名欄が用意され、後日署名という扱いになりました。会場はサンフランシスコのオペラハウスや退役軍人記念館が用いられ、各国代表団、専門家、通訳、記者がひしめき合いました。議長は米国務長官ステティニアスが務め、四カ国(米英ソ中)が共同提案国として会議運営の主導権を握りました。

運営手続き面では、草案の基礎にダンバートン・オークス提案が置かれ、各国からの修正提案を委員会で審査し、最終文言を条約起草委員会が調整するという流れが採られました。通訳・翻訳は英・仏・中・露・西の多言語体制で進められ、条文のニュアンスに関する綿密な突き合わせが行われました。会議は形式的には公開性を重んじつつも、核心部分では非公開協議や大国間の折衝が多く、公開討議とバックステージの政治が併走しました。

交渉の焦点――拒否権、人権、信託統治、地域的取極

最も大きな焦点は、安全保障理事会の投票手続き、とりわけ常任理事国(米英仏ソ中)に付与される拒否権の範囲でした。大国は、武力制裁など強制措置では全会一致(実質的拒否権)を必要とすると主張し、小国・中堅国は、紛争の審議や手続事項まで拒否権が及ぶなら機構が麻痺すると懸念しました。結果として、「手続事項は9票(当時)の賛成で可決、実質事項は常任理事国を含む賛成が必要」という折衷が条文化され、拒否権は実質事項に限定されるが、何が実質かの判断自体をめぐる政治は残されました。

第二の焦点は、人権・基本的自由の位置づけでした。ダンバートン案では一般原則にとどまっていた人権は、ラテンアメリカ諸国や英連邦内の一部、さらに非政府組織の働きかけにより、前文と第1条・第55条などに明確に刻まれ、経済社会理事会の下に国際労働機関(ILO)や教育科学文化機関(のちのUNESCO)と連携する国際協力の枠が設けられました。もっとも、人権の具体化は別途の宣言や条約(世界人権宣言・二つの人権規約など)に委ねられ、会議時点では原理的コミットメントの段階にとどまりました。

第三の焦点は、旧委任統治領や植民地の扱いに関わる「信託統治制度」でした。かつて国際連盟のもとに置かれた委任統治は、戦後に「信託統治」として再編され、国際連合の監督のもとに住民の福利・自立・独立への準備を進めるとされました。信託統治理事会が設置され、戦略的価値の高い地域では安全保障理事会の権限が絡むなど、安保と植民地問題の交差点に制度的な配線が引かれました。植民地宗主国は主権と権益の維持を模索し、アジア・ラテンの代表は自決の原則を強めようとするなど、議場では立場の差が鮮明になりました。

第四に、地域的取極(regional arrangements)の扱いが論点となりました。米州機構の先行枠組み(モンロー主義の伝統、汎米安全保障)や、のちの欧州集団防衛の可能性を念頭に、憲章第8章(現行は第VIII章)において、地域機構の自衛・紛争解決を認めつつ、強制措置は国連の権限のもとでとする原則が置かれました。これにより、世界機構と地域機構の二層構造が制度的に承認され、冷戦初期の集団防衛条約(NATO、リオ条約など)を包摂しうる余地が生まれました。

このほか、加盟資格と手続、経済社会理事会の構成、国際司法裁判所規程の附属、事務総長の任命手続など、多数の条項で文言調整が進みました。第2条第7項(国内管轄事項不干渉)と人権条項の関係、武力の不行使と自衛権(第51条)の書きぶり、旧枢軸国に関する「敵国条項」の残置など、妥協の跡が色濃く、政治的・法技術的配慮が入り組んだ条約文が出来上がりました。

会議の構造と現場――委員会運営、言語、ロビー活動

サンフランシスコ会議は、形式としては多国間会議ですが、実際には層の異なる三つの交渉回路が同時進行しました。第一は四大国(米英ソ中)間の基本合意のすり合わせ、第二は中堅国(カナダ、オーストラリア、南アフリカ、ラテン諸国、アラブ諸国など)による修正提案の束ね、第三は小国・新興国と非政府組織(宗教団体、人権団体、労働団体など)によるロビー活動です。とくに人権と経済社会協力の条文では、NGOや専門家のメモが文言に影響を与え、会議が「国家だけの場」ではないことを示しました。

言語面では、英語・フランス語が主言語でありつつ、ロシア語・中国語・スペイン語が公用語として扱われ、将来の普遍性を支える多言語運用の設計が意識されました。条文の各言語版はいずれも正文とされ、解釈の差が生じないよう、語順や法技術語の照応が丹念に調整されました。起草委員会は、各委員会で可決された修正の整合を取り、前文のレトリック(「われら諸国民」)から実体条文の用語統一に至るまで、文体と法的効果のバランスを測りました。

会議日程はタイトで、戦局の動揺(欧州戦線の終結、日本との戦争継続)を背景に、速やかな条約採択が求められました。代表団は本国政府との電報連絡で承認を取りつつ、現場での妥協案をひねり出す必要があり、ホテルのロビーや非公式昼食会が実質協議の舞台となることもしばしばでした。報道機関は連日記事を配信し、国内世論を意識した代表の発言が、交渉の硬軟に影響を与えました。

日本との関係と注意点――「講和会議」との混同を避ける

日本史学習では、しばしば「サンフランシスコ講和会議(1951年)」と混同されがちですが、ここで扱うサンフランシスコ会議は1945年の国際連合憲章制定会議であり、性格・参加国・目的がまったく異なります。1945年当時、日本はなお連合国と交戦中であり、この会議の当事者ではありませんでした。1951年の講和会議は対日平和条約(サンフランシスコ平和条約)を締結するための場で、参加国・議題も別物です。年代、正式名称、採択文書を整理して区別することが大切です。

もっとも、1945年の会議で成立した憲章は、のちの占領期と日本の再加入(1956年国連加盟)に直接の影響を与えました。国連中心主義が戦後日本の外交基本路線になり、経済社会理事会の枠組みや専門機関との連携は、技術援助・保健衛生・教育文化の分野で早期から重要な役割を果たしました。安全保障理事会の構造(常任理事国の拒否権)は、冷戦期の国連機能の限界とも結びつき、国連をめぐる国内議論の前提となりました。

また、憲章に含まれた「敵国条項」(第53条・第107条)の文言は、枢軸国に対する戦時措置の法的追認として挿入され、のちに各国の国内政治で象徴的に論じられることになります。実務上は効力を失ったと解される局面が多いものの、条文上の残存は、憲章形成時の政治状況を映す断片として理解されます。

採択と発効後の初動――制度が動き出すまで

1945年6月26日、サンフランシスコの退役軍人記念館で、参加50か国代表が国際連合憲章に署名しました。批准手続きが各国内で進められ、常任理事国を含む主要署名国の批准書が米国政府に寄託されると、同年10月24日に憲章は発効しました。国連本部は当初ロンドンに設けられ、その後ニューヨークに恒久本部が建てられます。最初期の総会では、加盟問題、パレスチナや朝鮮の扱い、原子力エネルギーの国際管理の是非、国際難民機関の設立など、戦争の後始末と新課題が相次いで議題となりました。

安全保障理事会は、ギリシア内戦やイラン・アゼルバイジャン問題などで初期から政治的試練に直面し、拒否権の頻用が冷戦の現実を浮かび上がらせました。経済社会理事会は、ILOやFAO、WHO、UNESCOなどの専門機関と連携し、統計・標準化・保健衛生・教育・文化財保護などの分野で具体的な協力を開始しました。信託統治理事会は、西太平洋の諸島(旧委任統治領)などを対象に監督を行い、最終的には信託統治制度自体が役目を終えて停止されます。

国際司法裁判所は、常設国際司法裁判所の後継としてハーグに設置され、国家間紛争の裁判と勧告的意見で法的争点の整理を担いました。事務総長は、総会の推薦を受けた安全保障理事会の決定で任命され、国連官僚機構の長として、政治と行政の橋渡し役を務めました。こうして、サンフランシスコ会議で条文化された制度は、戦後直後の具体的課題に直結しながら、現実政治と折り合いをつける形で運転を開始しました。

条文上のキーワード整理――学習時に紛れやすい論点

学習の便宜のため、サンフランシスコ会議で確定した憲章上の要点を条文に即して整理します。第一に、第1条と前文は、平和維持、友好関係、国際協力、人権尊重という4本柱を掲げます。第二に、第2条は、主権平等、国際紛争の平和的解決、武力による威嚇・行使の禁止、国内管轄事項不干渉を明記します。第三に、第7章は、安全保障理事会が平和に対する脅威・破壊・侵略の認定と措置(経済制裁・軍事措置)を取りうる根拠を定めます。第四に、第51条は、武力攻撃を受けた場合の個別的・集団的自衛権を再確認します。第五に、第55条・第56条は、経済・社会・文化・人道分野での国際協力の推進を定め、専門機関と連携する根拠になります。第73条以下の信託統治条項、国際司法裁判所規程の附属、加盟・脱退・改正の手続なども、各分野で参照されます。

これらの条文は、サンフランシスコ会議での政治妥協と法技術の折衷の産物であり、語句の選択には当時の力学が反映されています。たとえば「武力による威嚇または武力の行使」は、合法的な武力行使(自衛、安保理授権)の余地を残しつつ、一般原則としての禁止を打ち立てる表現です。「国内管轄事項」は、人権や経済政策の国際的関与が広がるにつれて解釈が揺れ動く概念であり、憲章の後年の運用に広い解釈余地を与えました。