アラゴン王国は、ピレネー山脈南麓の小領域から出発し、やがてカタルーニャ伯領との結合を通じて「アラゴン連合王国(コロナ・ダラゴー、Crown of Aragon)」へと発展した中世・近世の複合君主国です。イベリア半島内部の山地王国としての起点と、地中海に広がる商業・海軍のネットワークという二つの顔を持ち、13~15世紀にはマヨルカ、バレンシア、シチリア、サルデーニャ、ナポリ、さらにはアテネ公国などにまで勢力を伸ばしました。各地域は「フエロ(固有法)」と「コルテス(身分制議会)」を保持し、王権と諸身分が合意を積み重ねる「パクティスモ(合意主義)」が政治運営の基本となりました。
同王国の歴史は、国土回復運動(レコンキスタ)の文脈に置かれるだけでなく、地中海の交易・法・都市文化の形成史としても理解されます。商人や船主、ギルド、市参事会が活力を生み、海事法典『リブレ・デル・コンソラット・デ・マル』や商館(ロッジャ)、海事裁判所(コンスラート・デ・マル)が整備されました。15世紀末にカスティーリャ王国の女王イサベルとアラゴン王国の王子フェルナンド(のちのフェルナンド2世)が結婚して以降は、イベリア統合の枠組みが進みますが、旧来のフエロと機関は長く存続し、18世紀初頭の「新国家基本令(ヌエバ・プランタ)」によってようやく大きく改編されました。以下では、成立、拡大、制度・社会、統合の行方と遺産を順にたどります。
成立と地理・民族的背景:山地王国の出発と伯領との結合
アラゴン王国の源流は、ナバラ王国の勢力圏にあったアラゴン辺境伯領に遡るとされます。11世紀半ば、カスティーリャ=ナバラの王族から派生したラミロ1世のもとで独立王権が確立し、エブロ川上流域の山地・峡谷に拠点を置きました。この段階の王国は、農牧と小規模な市が並ぶ素朴な構造でしたが、修道院や新開地の開発、キリスト教勢力の防衛線としての役割を通じて徐々に政治的厚みを増しました。
12世紀には、アルモラビード朝・ムワッヒド朝などのイスラーム勢力と対峙しながら、ウエスカやサラゴサといった戦略都市の獲得が進みました。転機は1137年、アラゴンの女王ペトロニラと、バルセロナ伯ラモン・ベレンゲー4世の婚姻によって生じます。以後、アラゴン王権は「王国アラゴン」と「カタルーニャ諸伯領」を同君連合のもとに統治することになり、いわゆる「アラゴン連合王国」という多元的な政治体の枠組みが出来上がりました。ここで重要なのは、アラゴンとカタルーニャが法制度も言語も異なる共同体として併存し、王はそれぞれのフエロを尊重しながら支配したという点です。
この連合は、イベリア半島の内陸防衛力(アラゴン)と、地中海交易に強い都市経済(カタルーニャ)を結びつけ、外征と商業展開の両輪を備えました。王は山地の騎士団や地方貴族の軍事力、カタルーニャ諸港湾都市の造船・金融・航海技術を動員できるようになり、12~13世紀の拡大に弾みがつきました。
拡大と地中海進出:征服王ハイメ1世から「壮大王」アルフォンソ5世へ
13世紀、アラゴン連合王国はハイメ1世(征服王)の時代に大きく版図を広げました。彼は1229年以降にマヨルカ島を攻略し、地中海の要衝にキリスト教勢力の橋頭堡を築きました。続いて1238年、バレンシアの攻略に成功し、豊かな灌漑農業地帯と海港を組み込んで「バレンシア王国」を創設しました。これにより、アラゴン連合はイベリア東岸の長い沿岸域を確保し、オレンジや米、絹などの生産・交易が活性化しました。
外洋への跳躍は、1282年の「シチリアの晩鐘(ヴェスプロ)」に端を発する紛争で一気に進みました。ペドロ3世はシチリア島の王権獲得に成功し、アンジュー家(フランス系)との対立を深めながらも、地中海中央部に恒常的な拠点を築きました。14世紀にはさらにサルデーニャ島の獲得が進み、アラゴン連合は西地中海の諸海峡・諸島を押さえて航路の安全保障と関税収入を得る体制を整えました。
この過程で、カタルーニャ商人はマルセイユやジェノヴァと競合しつつ、シチリア、ナポリ、アレクサンドリア、そして一時はエーゲ海のアテネ・ネオパトラス公国にも進出しました。海事法と信用取引の発達は、地中海商圏におけるアラゴン連合の存在感を強め、バルセロナのロッジャや海事裁判所が商取引の標準を供給する役割を担いました。
15世紀前半には、トラスタマラ家のアルフォンソ5世(壮大王)がナポリを征服(1442)し、連合王国はついにイタリア南部に君主として定着します。アルフォンソはナポリに宮廷を移すほどイタリア政策に注力し、人文主義の庇護者としても知られました。もっとも、ナポリは王家の分枝へ継承され、シチリアやサルデーニャとともに複雑な同君連合の一角を成し続けました。地中海の覇権をめぐるジェノヴァ・ヴェネツィア・フランス・アラゴン間の競合は、この時期の国際政治の主要テーマの一つでした。
制度・社会・文化:フエロ、コルテス、フスタシアと都市経済
アラゴン王国(および連合各領邦)の政治文化の核心は、「フエロ」と呼ばれる固有法の尊重にありました。アラゴン本国では『アラゴン法(フエロス・デ・アラゴン)』とその注釈群が整備され、王と被支配層の相互義務が明文化されました。王権は恣意的であってはならず、臣民の自由と所有権は慣習に基づく法で守られるとされたのです。これを担保する機関が「フスタシア・デ・アラゴン(アラゴンの司法官)」で、王と臣民の間の紛争でフエロに照らした仲裁・裁断を行い、王権の越権に歯止めをかける役割を果たしました。
議会にあたる「コルテス」は聖職者・貴族・都市(第三身分)から構成され、課税や軍役、法改正といった重要事項は原則としてこの場での合意を要しました。アラゴン、カタルーニャ、バレンシアはいずれも固有のコルテスを持ち、国家財政の管理を担う常設委員会として「ディプタシオ(総会=ジェネラリタット)」が中世末に整えられます。これにより、歳入・歳出の監督、債務の返済、治安維持などが制度化され、王と諸身分の「交渉政治」が成熟しました。
社会経済面では、山地の小農と牧畜、エブロ川やバレンシア平野の灌漑農業、市場都市の商工業が層を成しました。とりわけバレンシアはイスラーム期から継承された水利と園芸作物で繁栄し、絹織物や陶磁器の生産が知られます。都市には商人ギルドや同職組合が存在し、自治参事会(コンセイユ)とともに公共事業や慈善、治安を担いました。港市の商人は為替手形や海上保険を駆使し、地中海の長距離交易で利益を上げました。
宗教・文化の面では、征服後にイスラーム教徒として残留を許されたムデハル(のちに改宗したモリスコ)共同体が各地に存在し、建築や装飾芸術にはムデハル様式が色濃く刻まれました。テルエルのムデハル建築群に見られるようなレンガ・彩釉タイルの塔は、文化の相互交渉の産物です。他方で、ユダヤ人共同体(フダリア)は金融・知識人層として活躍しましたが、14世紀末の社会不安や15世紀末の強制改宗・追放で大きな打撃を受けました。黒死病(1348年)とその後の経済停滞、貴族連合(ウニオン)運動の内乱など、14世紀は試練の時代でもありました。
王権と身分の関係をめぐっては、13~14世紀に貴族・都市勢力が結成した「ウニオン(連合)」が王の権限制限を迫る局面がありました。最終的にはペドロ4世(儀礼王)が1348年のエピラの戦いでウニオンを破り、王権の威信を回復しますが、それでもアラゴン的なパクティスモの伝統は持続し、王権とコルテスの均衡が政治文化の基調として残りました。
王朝交替とイベリア統合:カスティーリャとの連合、そして遺産
王朝史の大きな節目は1412年のカスペの妥協です。王位継承者を欠いたため、各領邦代表の合意によりカスティーリャのトラスタマラ家からフェルナンド1世が選出され、連合王国の屋台骨が保たれました。彼の子アルフォンソ5世がイタリア政策に邁進したのち、弟のフアン2世がアラゴンを継ぎ、その子フェルナンドが1469年にカスティーリャ女王イサベルと結婚します。1479年、フアン2世の死によりフェルナンド2世がアラゴン王位に就くと、両王国は同君連合として結びつき、いわゆる「カトリック両王」の統治が始まりました。
とはいえ、制度統合は即時には行われませんでした。アラゴン連合王国の諸領は依然として自前のフエロとコルテスを持ち、国庫・官職・司法・徴税も大枠では別体系でした。グラナダ征服(1492年)やイタリア戦争への関与は両王の共通事業でしたが、その財源配分と意思決定には各領邦の承認が必要で、パクティスモの論理が生き続けました。16世紀以降、ハプスブルク家のもとで帝国的拡張が進む中でも、アラゴン的制度は抵抗線として機能し、地方自治と王権の間の調整メカニズムを提供しました。
最終的に、旧来のフエロ体系に大きな変化が訪れたのは、スペイン継承戦争(1701–1714)ののちです。ブルボン朝のフェリペ5世は1707年以降のヌエバ・プランタ令によってアラゴンやバレンシアの制度を大幅に改編し、1716年にはカタルーニャにも同様の措置が及びました。これにより、アラゴン連合王国としての多元的な国家構造は実質的に解体へ向かいますが、都市法や私法の多くは漸進的に統合され、地域アイデンティティは近代に至るまで文化的基盤として生き残りました。
歴史的意義として、アラゴン王国は「山地王国から海洋連合へ」という転換を実現し、地中海世界の法・商業・航海技術の発展に寄与しました。王権と身分の合意に基づく政治文化は、近代立憲主義の前史としても評価され、コルテスやジェネラリタットの伝統は今日まで政治意識に影響を与えています。ムデハル建築や都市文化は、宗教・民族の交錯が生んだ創造的な遺産として、イベリアと地中海の歴史を語る上で欠かせない要素です。
用語上の注意として、日本語文献で「アラゴン王国」と「アラゴン連合王国(アラゴン王冠)」が混用されることがあります。狭義の「アラゴン王国」はピレネー南麓の王国それ自体を指し、広義の「アラゴン連合王国」はアラゴン・カタルーニャ・バレンシア・マヨルカ・シチリア・サルデーニャ・ナポリ等を抱えた同君連合を意味します。世界史の授業や試験では、文脈によってどちらのレベルで語っているかに注意し、領邦の自立性(フエロとコルテスの存在)と地中海覇権の文脈を併記すると理解が深まります。
総括すれば、アラゴン王国はイベリアの一隅から出発し、婚姻同盟と海上力、都市経済と法的制度を梃子に、西地中海に広がる多中心の帝国を作り上げました。カトリック両王の時代にイベリア統合の核となった後も、その政治文化は独自性を保ち、近代スペインの形成に重層的な影を落としています。アラゴンの歩みは、領域国家の成立が単線的な中央集権化ではなく、交渉・合意・多元制の試行錯誤によって進むことを教えてくれる好例です。

