カルタゴ – 世界史用語集

カルタゴ(Carthago/カルタゴ、プニ語では「新しい町」<カルタ・ハダシュト>)は、古代地中海世界でフェニキア系植民者によって築かれ、前6~前3世紀にかけて西地中海の交易と海軍力を握った都市国家です。現在のチュニジア沿岸、チュニス湖と地中海を望む半島部に位置し、天然の良港と内陸への通路を押さえる地政が、その繁栄の核心でした。銀・錫・穀物・ワイン・オリーブ油・染料・奴隷・象・木材を結ぶ広域商業ネットワークを背景に、都市は工芸と金融で栄え、植民都市群(西地中海のプーニック都市)を束ねて「海の帝国」を形成しました。他方で、ギリシア諸都市やローマとの競合と衝突が避けがたく、最終的には三次にわたるポエニ戦争の果てに前146年、ローマによって破壊されます。カルタゴは単にローマの宿敵ではなく、航海術・商業・都市行政・宗教文化において独自の伝統を開いた文明の中心でした。以下では、起源と拡大、政治・社会・経済の仕組み、ローマとの抗争と滅亡、そして後世のカルタゴと遺産について、分かりやすく整理します。

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起源と拡大—フェニキア系植民都市から西地中海の結節点へ

カルタゴの起源は、前9世紀末〜前8世紀初頭にかけて、東地中海のフェニキア都市ティルス(ツィル)を中心とする商人・船乗りの集団が、北アフリカ岸の潟湖と岬に囲まれた好地形に築いた植民市に遡るとされます。伝説的には女王ディドー(エリッサ)の建設譚が知られますが、考古学的にはフェニキア系の物質文化(文字、土器、葬制)がベースとなり、現地ベルベル人(リビュア人)との交流と通婚を通じて独自のプーニック文化が形成されました。

立地の優位は二重でした。外洋に面した湾は大型船の碇泊に適し、背後のチュニス湖と低地平野は穀物・家畜・工芸の生産基盤となりました。さらに、サルディニア・コルシカ・バレアレス諸島・シチリア西部・イベリア南岸(ガディル=カディスやカルタゴ・ノヴァ=カルトハダスト)などの同系統の都市群と、中継拠点を点在させる「島伝い」の航路が組織され、西地中海を東西に結ぶ物流が整えられました。

前6〜5世紀、カルタゴはシチリア島をめぐるギリシア人植民市(特にシラクサ)との覇権競争に深く関与し、シチリア西部に強固な勢力圏を築きます。イベリアでは銀と銅の鉱山、上質な木材と家畜、そして熟練労働力が手に入り、カルタゴの軍資金と商業力の源となりました。海軍は高機動のガレー船(五段櫂など)と熟練の舵手・操船技術で知られ、戦時には傭兵や同盟民を広域から動員できる柔軟性を持っていました。

この拡大は、軍事的征服というより、貿易・条約・婚姻と要塞化された商業拠点の組み合わせによって進み、外洋航海の知識(潮流・風系・沿岸標識)と測量術、灯火と標識の設置など、航路の「制度化」が伴いました。カルタゴはまた、リュビア砂漠縁辺からサハラ交易への入口を押さえ、金・象牙・奴隷・動物などの長距離交易とも接続しました。

政治・社会・経済—スフェトと元老会、商業都市の作法、宗教と文字

カルタゴの政治は、王権ではなく市民的機関の均衡で特徴づけられます。最高行政官は二名の「スフェト(判事)」で、任期制・複数制による相互統制が働きました。彼らを監督する元老会(評議会)と、市民集会が重要政策を審議し、軍事指揮権は将軍(ストラテゴス)に委ねられます。さらに、百四人審査官(百人法廷)と呼ばれる監察機関が軍司令官や高官を厳しく監督し、戦争の失敗者に対する処分が厳罰に及ぶこともありました。アリストテレス『政治学』が高く評価した「混合政体」の典型例として、王政・貴族政・民主政の均衡がある程度実現していたと考えられます。

社会構成は、プーニック系の市民と、周辺のベルベル系住民(従属共同体)や移住者・解放奴隷、そして多くの居留外国人から成りました。海軍漕手や歩兵・騎兵の多くは市民以外からも募集され、シチリア・サルディニア・バレアレス出身の投石兵、ヌミディアの騎兵、イベリアの重歩兵など、兵種の多様性が軍事的強みになりました。他方で、傭兵依存は統制の難しさを伴い、前240年代の「雇い兵戦争」に見られるように、戦後処遇の失敗が内乱を招く危険もありました。

経済は商業・金融・工業の三位一体でした。港湾施設は二重構造で、外港(商船用)と内港(軍港)が分かれ、内港は円形の船渠と中央島の造船・指揮施設からなり、迅速な修理・出撃が可能でした。市場には計量と価格のルールが整えられ、遠隔地取引には信用と担保の慣行が育ちました。工業では布・染料(貝紫)・金属加工・陶器・ガラス・皮革などが発達し、農業ではオリーブ・ブドウ・穀物の大規模栽培に加え、灌漑と畜産の技術が磨かれました。ローマ時代に伝わる「マゴンの農書」は、カルタゴ農学の成果を物語ります。

宗教は、最高神バアル・ハンモンと女神タニトの崇拝を中心に、祖先・守護神・海神などが祀られました。動物供犠や奉納碑(ステラ)に刻まれたプーニック文字は、信仰と社会の関係を伝えます。幼児犠牲(トペト)をめぐる議論は長く続いており、考古学は奉献墓地に埋葬された幼児骨の解釈で見解が分かれます。確実なのは、カルタゴの宗教が、誓約・契約・航海と密接に結びついた「都市の宗教」であったことです。言語面ではフェニキア語系のプーニック語が行政と日常に用いられ、アルファベットの一系統として、商業文書と碑文に広く残されました。

ローマとの抗争と滅亡—三次ポエニ戦争の軌跡

前3世紀、イタリア半島を統合したローマと、シチリア・サルディニア・コルシカ・イベリアに権益を持つカルタゴの対立は不可避となり、三度の大戦(ポエニ戦争)へと発展します。第一回戦(前264–241)は主としてシチリアを巡る海上戦で、ローマはカラス船の工夫と陸戦術を海戦に持ち込む戦略で対抗し、最終的にカルタゴはシチリアを失います。その直後、雇い兵戦争(前240–237)がカルタゴを疲弊させ、サルディニアとコルシカもローマに奪われました。

第二回戦(前218–201)は、ハミルカル・バルカの子ハンニバルがイベリアの拠点を基盤に、アルプス越えでイタリア本土へ雪崩れ込む大胆な戦略で幕を開けます。ティキヌス・トレビア、トラシメヌス湖、そして前216年カンナエでの包囲殲滅は、古代戦術史上の白眉です。ヌミディア騎兵やイベリア歩兵の機動、地形の利用と士気の掌握で、ハンニバルはローマ軍を翻弄しました。しかし、ローマは連戦の敗北にも国家総力で耐え、「ファビウス戦術」による持久と同盟都市の維持、補給線の寸断と反攻の準備に徹します。転機はスキピオがイベリアを平定し、同盟者マシニッサを得てアフリカ本土へ侵入したことでした。前202年ザマの戦いでカルタゴ軍は敗れ、厳しい講和(艦隊の返還、莫大な賠償金、対外戦争禁止、ヌミディアへの隷属的関係)を受け入れます。

第三回戦(前149–146)は、条約遵守をめぐるヌミディアとの小競り合いとローマの干渉が重なり、強硬派のカトーらの主張(「カルタゴは滅ぼされねばならない」)が政治を動かして再戦に至りました。カルタゴは当初、武装解除要求に従いますが、最後通牒として市の移転・破壊を迫られたため、絶望的な抵抗を選びます。包囲は苛烈を極め、街路戦・火災・飢餓の末、前146年スキピオ・アエミリアヌスによって陥落しました。都市は焼かれ、多くの住民が殺されるか奴隷化され、自治は消滅します(「塩を撒いた」は後世の誇張とみられますが、象徴として語られます)。

カルタゴの滅亡は、ローマにとって西地中海覇権の確立と、帝国への扉を開いた出来事でした。他方で、カルタゴ側の視点からは、商業都市が軍事的国家との長期総力戦に耐える困難、傭兵依存の政治的脆弱性、同盟網の構築と維持の難しさが浮かび上がります。ハンニバルの戦術的天才は輝き続けますが、戦略と制度の整合が問われる歴史的教訓も残しました。

後世のカルタゴと遺産—ローマ植民市からイスラーム期、考古学と記憶

前146年の破壊後、ローマはしばらくカルタゴ跡地を放置しましたが、前1世紀にガイウス・ユリウス・カエサルやアウグストゥスの時代に入植計画が進み、アフリカ・プロコンスラリス属州の中心として「ユリウス・カルタゴ」が再建されます。帝政下のカルタゴは、北アフリカ穀倉地帯の中枢都市として再び繁栄し、円形闘技場、劇場、浴場、水道などローマ都市の施設が整えられました。キリスト教の拠点としても重要で、テルトゥリアヌスやヒッポのアウグスティヌスといった教父の活動圏と重なります。5世紀にはヴァンダル王国の首都となり、6世紀には東ローマ(ビザンツ)によって奪回され、行政の中核として存続しました。

イスラームの拡大(7世紀後半)により都市の重心はチュニスへ移り、古いカルタゴ遺構は石材の採掘場と化すこともありましたが、港湾の痕跡や神殿・住宅・墓地の遺跡は地中に長く眠り続けました。近代考古学は19世紀以降、フランス統治期を通じて組織的発掘を行い、円形の軍港・商港の構造、プーニック住宅の平面、ステラが林立するトペト、ローマ期の都市施設などを明らかにしました。出土したプーニック文字碑やコイン、土器は、交易路と宗教儀礼、政治の実際、日常生活を具体化します。

今日、カルタゴ遺跡群はチュニス近郊の観光と研究の拠点であり、プーニック博物館やローマ期建築群とともに、重層的な都市史を体感できる場所です。「カルタゴ的」という形容が指すのは、しばしばローマとの対比の中でのしたたかな商業精神や海洋性ですが、同時に、契約と信義、都市運営の規律、宗教と経済の結びつきといった普遍的テーマを内蔵しています。海の道と市場、評議会と港、神殿と工房が一体となった都市の原型として、カルタゴは今も歴史の想像力を刺激し続けています。