ガルダン – 世界史用語集

ガルダン(Galdan, 1644?–1697)は、中央ユーラシアの西モンゴル(オイラト)連合のなかで台頭したジュンガル部の指導者で、17世紀後半にジュンガル汗国の基盤を築き、清(康熙帝)との大規模な戦争を引き起こした人物です。彼は遊牧世界の連合政治、チベット仏教(特にゲルク派)をめぐる宗教と権力の結びつき、交易路の支配と隊商課税、そして火器・騎射を組み合わせた草原軍事の最終局面を体現しました。ガルダンの進出はモンゴル高原東西の勢力均衡を揺らし、清朝は外モンゴル諸部と同盟して北方政策を再編、康熙帝自らが遠征を指揮する事態となります。最終的にガルダンは敗走の末に没しますが、その後もジュンガルは継承者によって復興し、18世紀半ばまで清と拮抗しました。ガルダン個人の栄枯盛衰をたどることは、ユーラシア内陸の国際秩序・宗教・交易の三つ巴の関係を理解する近道です。

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出自と台頭—オイラト世界、宗教ネットワーク、連合政治

ガルダンは西モンゴルのオイラト諸部の一つ、ジュンガル(準噶爾)に生まれました。幼少期にラマ僧として学び、チベットの僧院で修学したと伝えられることから、彼の政治には常に宗教的正統性の要素が伴います。父輩の時代、オイラト連合は土畜産・毛皮・塩・茶・絹などの交易に依拠し、カザフやブハラ、シベリアのロシア勢力、チベット、そして明末・清初の華北を結ぶ回廊を押さえていました。関係は固定的ではなく、婚姻・盟約・人質交換でゆるやかに結合し、主導権はカリスマと軍成功績に左右されます。

17世紀中葉、オイラト内部で指導権を争うなか、ガルダンは兄サンジャクの死後に部族の主導権を握り、周辺の部族(ホシュート・トルグート・チョロースなど)との同盟・対立を乗り継ぎました。彼は火器と騎射の融合を得意とし、鉄砲・大砲を運用する歩砲部隊を騎兵と組ませることで、草原の野戦に柔軟さを持ち込みます。同時に、キャラバン税・駅站の整備、牧地と越年地の調整、手工業(武具・皮革・金属)の保護など、遊牧経済を支える政策にも目配りをしました。宗教面では、ゲルク派高位ラマとの関係を重んじ、ダライ・ラマやパンチェン・ラマの承認を政治資源として活用します。

ガルダンの台頭期、東モンゴル側ではアルタン・ハーン系の諸部やハルハ(喀爾喀)諸部が清とゆるやかに関係を結び、北方の勢力図は細かく割れていました。ガルダンはこの隙を突く形で外モンゴルへ影響力を伸ばし、ハルハ内部の紛争に介入して自らの裁定権を主張します。これは、草原世界に「西の覇者」が現れることを意味し、清朝の北方政策に直接の脅威となりました。

清との衝突—ウランブトンから昭莫多へ、康熙帝の親征と決着

ガルダンの対外政策は、ハルハへの介入を梃子にしてモンゴル高原の再編を図るものでした。1680年代後半、ハルハのツェツェン・ハンやトスエト・ハンの家系で内部争いが激化すると、ガルダンは軍を進めてハルハ諸部を圧迫し、清の宗主権と衝突します。清朝は、三藩の乱(1673–81)の鎮圧を経てようやく対外余力を回復した時期で、康熙帝は北方の安定を最優先課題と見なしました。1688年、ガルダン軍の進出により外モンゴルの王公・民は狼狽して清領内へ逃れ、清はハルハを保護する大義名分を得ます。

第一次の大きな会戦は、1690年のウランブトン(烏蘭布通)周辺で起こりました。康熙帝自らが前線へ赴きますが、補給の困難やガルダン軍の機動で決定打を欠き、両軍は大勝敗なく退きます。ガルダンは冬営地と補給線を巧みに選び、季節と地形を利用して清軍の追撃をかわしました。もっとも、この頃からジュンガルはロシア・カザフ方面との摩擦を抱え、東西で均衡を取る難しさが増します。

決定的な転機は、1696年の康熙帝三度目の親征です。清は三路からの包囲作戦を立て、補給基地と駄載動員を入念に準備しました。要の会戦はフフホト以西を越えた昭莫多(ジョモド、張家口の北西方に位置する高原)で行われ、フュゼ(火縄銃)・大砲・弓騎兵を組み合わせた清軍が、ガルダンの主力を捕捉して打撃を与えます。ガルダンの妻アナヒト(アンチ)や重臣の戦死・離反も相次ぎ、彼の連合は急速に瓦解しました。1697年、逃走の途上でガルダンは没し(病死・自決など諸説)、第一次の大衝突は清側の勝利で終わります。

この戦争は、単なる勝敗を超える意味を持ちました。清は外モンゴルのハルハ諸王と盟約を結び、護持と統治の枠組み(旗・盟制度、札薩克王公の序列、喇嘛教保護)を整備します。草原の政治空間は、清の宗主権のもとで再編され、チベット仏教の高位宗教者の承認と北京の権威が接続される新秩序が形成されました。他方、ジュンガル側はガルダンの後継者(ツェワン・ラブタンら)によって復興し、新疆・タリム盆地(回部)をめぐる経営やチベット内政への介入を通じて18世紀半ばまで強国として残ります。つまり、ガルダンの敗北はジュンガル国家の終焉ではなく、清—ジュンガルの長期的な拮抗の序章でした。

宗教・交易・軍事の交差—ガルダンの統治の特徴と歴史的意義

ガルダンの統治は、宗教の権威と草原国家の実務を結びつける点で特徴的でした。彼はチベットの僧院と連携し、寺院保護と貢納の体系を整える一方、遊牧民の移動と牧地利用、越冬地の割り当て、軍用馬の管理を制度化しようとしました。隊商(キャラバン)には通行証を与え、茶・絹・塩・金属・武具の流通を保護し、通過税と商税を国家財政の柱に据えます。これは、農耕地の税収に乏しい草原国家が、交易路の握りと宗教的正統性を財政と統治の二本柱にせざるを得ないことを示しています。

軍事面では、ガルダンは騎馬戦術に加えて火器を重視しました。シベリアや中央アジアの市場から鉄砲・火薬・大砲を調達し、手工鍛冶による修理・自製を進め、山地・峡谷・河川の地形を利用する待ち伏せ・機動を得意としました。これに対し、清軍は満洲旗人の弓騎兵・歩軍、漢人士兵の砲兵・歩兵、モンゴル同盟軍を組み合わせ、補給線の維持と包囲作戦で対抗します。昭莫多の勝敗は、単に兵力差ではなく、補給・測量・動員速度といったシステムの差が決定打になったことを示しました。

宗教政治の側面では、ガルダンがチベット仏教の保護者として振る舞ったことが、ダライ・ラマ政権内の派閥や周辺諸勢力との関係に影響しました。ジュンガルはのちにチベット内政に深く入り込み、清との対立を激化させる一因となります。つまり、宗教空間を制することは政治空間を制することと同義であり、ガルダンの時代にその回路が明確になりました。

歴史的意義として、第一にガルダンはオイラト連合の再編者であり、ジュンガル汗国の成立を準備した指導者でした。第二に、清朝に北方政策の再構築—外モンゴル王公との同盟と編制、皇帝親征と補給体系の革新—を促し、18世紀の新疆・蒙古統治の雛形を作るきっかけとなりました。第三に、ロシア・カザフ・ブハラとの三角関係に清—ジュンガルの軸を持ち込み、シベリア交易・イルティシュ川流域の勢力配置に長期の影響を与えました。彼の敗北後も、ジュンガル国家は18世紀半ばの滅亡まで中央ユーラシアに強いプレゼンスを示し、その過程でオアシス都市(カシュガル、ヤルカンド)やチベット、モンゴルの宗教・社会構造は大きな変化を経験します。

総じて、ガルダンは「草原の王」の古い原理—騎射と連合—に、宗教的権威と交易路の管理という新しい要素を組み合わせた政治家でした。彼の名は清の康熙帝の遠征と対で語られますが、その背後には、ユーラシアの広い網の目に張り巡らされた人・物・思想の流れがありました。ガルダンを通じて見ると、中央ユーラシアは単なる周辺ではなく、帝国と帝国をつなぐ動脈そのものであったことが、はっきりと見えてきます。