イラク王国独立 – 世界史用語集

「イラク王国の独立」とは、国際連盟の委任統治(イギリスの管理)の下にあったイラクが、1932年に国際的に主権国家として承認され、連盟加盟を果たした出来事を指します。第一次世界大戦後にオスマン帝国から切り離されたこの地域は、1920年の大規模蜂起を経て、1921年にハーシム家のファイサルが国王に擁立されました。その後、英・イラクの条約関係を調整し、行政や軍隊の整備、国境と資源をめぐる課題をひとつずつ処理していくことで、ようやく独立に到達します。ただし、1930年の英・イラク条約に基づく英軍基地と軍事・外交面の協議義務など、実質的な影響は独立後も残りました。独立直後には、モスル問題や少数派の扱い、石油利権、中央集権化の手順をめぐって難問が続き、1933年のアッシリア人事件や軍の台頭は王政の脆さを露呈します。それでもこの独立は、委任統治下のアラブ諸地域の中で最も早い主権回復の一つであり、近代イラク国家の枠組みが本格稼働し始めた節目でした。

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委任統治の出発点と国家づくりの基盤――1918〜1922年の経験

第一次世界大戦の終結により、オスマン帝国支配下のバスラ、バグダード、モースルの三州は連合国軍に占領され、戦後処理の中でロンドンの構想と現地社会の期待が激しくぶつかりました。1920年には南部のシーア派聖地と中部・西部の部族社会、北部の都市勢力が連動するかたちで「大蜂起(イラク大反乱)」が広がり、委任統治構想に対する不満が爆発します。この蜂起は武力で鎮圧されましたが、イギリス側に間接統治の必要性とコスト削減の圧力を痛感させ、現地に根差した王政樹立という路線への転換を促しました。

1921年、カイロ会議を経て、メッカのシャリーフ家に連なるファイサルが「イラク王」として擁立されます。彼はアラブ反乱の指導者フサインの子で、短期間ではあるもののダマスカスで王位経験がある人物でした。王政の正統性は、ハーシム家の血統、英の後ろ盾、そして何よりも、分散した部族・都市・宗教勢力を束ねる調停力に依拠しました。1921年から22年にかけて官僚機構と治安部隊の再建が進み、教育・財政・司法の「骨組み」が組み直されます。教育面ではサティー・アル=フスリらが近代的学校制度の整備に貢献し、アラブ語教育と歴史叙述を通じて国家意識の醸成を図りました。ただし、官僚と士官の中核はスンナ派都市エリートが担い、シーア派ウラマーやクルド社会との間には早くも距離が生じます。

同時期に締結された1922年の英・イラク条約は、王政の国際的承認の足場である一方、英の顧問配置や軍事・外交面の関与を固定化する側面も持ちました。王政は、英の支援と国内の自律性の間で綱渡りを続けます。さらに北部モスル地域の帰属(トルコ共和国との国境画定)や、治安・徴税・交通の整備など、国家としての最低限の「可視性」をどう確保するかが最初の課題でした。

独立への道筋――モスル問題、資源、1930年条約、そして1932年の連盟加盟

イラクの独立過程で大きな分岐点となったのが、モスル県の帰属をめぐる国際連盟での判断です。1925年、連盟は民族構成や経済・行政の実情、治安上の観点から、モスルをイラクに残す決定を下しました。これはイラクの領域と資源基盤を確定する意味を持ち、同時に英の委任統治を一定期間継続する根拠ともなります。北部の油田(キルクーク一帯)は、のちの国家財政と国際関係を左右する要素となり、1920年代後半にかけてトルコ石油会社(のちのイラク石油会社)と王政府の間で利権・収益配分が整理されました。

1920年代の後半、イラク政府は財政の均衡、司法と税制の整備、道路・鉄道・河川交通の拡充、部族地帯の行政的編入など、独立に必要な「国家の器づくり」を進めます。徴税と治安の安定は表裏一体であり、部族の武装解除や移動の管理、地方首長の役職・年金制度の整理が行われました。議会制度は憲法(1925年)に基づき二院制で整えられ、選挙・政党・内閣の枠組みが動き始めます。もっとも、政党は近代的マニフェストを掲げるというより、名望家と官僚・軍の人脈で結びつく色彩が強く、王と側近が均衡を取って内閣を組み替える政治運営が常態化しました。

独立の直接の起点となるのが、1930年に締結された新しい英・イラク条約です。これは、イラクの国際連盟加盟と委任統治の終了を前提に、英軍の基地使用(ハッバーニヤ、シャイバなど)と通過権、戦時・危機時の相互協議、通信・輸送路の確保を取り決めたものです。対価として英はイラクの独立を支持し、国際舞台での承認手続きを後押しすることになりました。この条約は、イラクの主権回復と英の戦略的利益の両立という現実的妥協であり、独立後の英影響力の継続を制度化する側面も否めません。

1932年10月、イラクは国際連盟に加盟し、委任統治が公式に終わります。条約上は完全な主権国家となり、外交権と軍事権、法制度の最終決定権を得ました。連盟加盟に際しては、少数派(宗教・言語集団)の権利保護、司法の独立、国境の尊重などの国際的な約束も付され、イラクは新たな国際法秩序の一員として振る舞う責任を負うことになります。

独立の中身――主権と条件、統治機構、社会の緊張

1932年の独立は、形式的には主権の回復でしたが、実体は「主権と条件付き協力」の組み合わせでした。英の空軍基地と通信・輸送路に関する取り決め、軍事顧問や技術者の継続的関与、石油利権の配分など、国際政治上の制約はなお強く働きました。一方で、王政は独自の外交を展開し、近隣諸国との関係やアラブ連帯の模索を始めます。教育・司法・保健の分野では、国内の制度を自前で運営・改良する責任が重くのしかかりました。

統治機構の面では、1925年憲法に基づく立憲王政と議院内閣制が機能します。国王は軍の統帥・議会の解散権など一定の強い権限を持ち、内閣は議会の信任と王の裁量の双方に支えられます。行政は内務・財務・司法・公共事業・教育などの省庁で構成され、バグダードを中心に官僚制が浸透しました。教育は都市部を先行に普及し、師範学校や中等教育が拡充されますが、農村や遊牧地域との格差は依然として大きく、識字率の向上には時間がかかりました。

社会の緊張は、宗派・民族・地域の線引きと重なって現れます。スンナ派都市エリートに偏った官僚・軍の構成、シーア派宗教勢力の政治過程からの距離、クルド地域での自治要求、アッシリア系キリスト教徒やヤズディーなど少数派の安全と権利――いずれも独立国家として正面から向き合うべき課題でした。税制や兵役、土地制度の改革は、中央と地方の関係を調整する試金石であり、部族の司法慣行と国家の法の折り合いをどう付けるかが日常政治の核心でした。

経済・財政面では、石油収入が次第に比重を増す一方、価格変動と利権交渉が財政の安定を左右します。港湾や鉄道、道路の整備は交易の活性化につながりましたが、農業の生産性向上や水利インフラの更新は道半ばで、慢性的な失業と都市への人口流入が社会問題として顕在化します。労働運動や学生運動は都市の政治文化を育てる一方、治安当局との緊張を生みやすい領域でもありました。

独立直後の揺らぎと長い影――1933年の事件、軍の政治化、対英関係の再調整

独立直後に起きた出来事の中でも、1933年のアッシリア人(アッシリア教会に属する少数派)をめぐる暴力事件は象徴的です。徴兵や移住の取り扱いをめぐる緊張が武力衝突に発展し、北部で住民の殺害が発生しました。新生国家の治安と少数派保護が国際的に問われ、連盟での議論と非難を招きます。これは、近代国家の名のもとに中央集権を強める過程で、地域社会や少数派の権利保障をどう実質化するかという重い課題を突きつけました。

政治面では、若い王ガージーの下で軍の発言力が増し、1936年にはバクル・スィドキー将軍による中東初の軍事クーデターが起きます。軍は秩序の維持に不可欠でしたが、同時に政権交代の主体ともなり、以降の政治文化に長い影を落としました。名望家政治と軍の政治化は、議会主義の成熟を阻む構造的な要因となります。

対外関係では、英との条約関係がつねに国内政治の争点でした。英の基地使用や軍の駐留期間、通信路の確保は、英のインド洋・地中海戦略の一部をなすため、完全な撤去は容易ではありませんでした。1941年のラシード・アリー内閣による対英対立と短期戦闘(英・イラク戦争)は、独立後の英影響力と国内ナショナリズムの衝突が表面化した事例です。戦後は英との関係を修復しつつ、地域協定やアラブ連盟の枠内で外交の選択肢を広げていきます。

このように、1932年の独立はゴールではなく、国家を「運転」し続けるスタートでした。王政下のイラクは、英との条約の再調整、資源の管理、少数派と地方の包摂、教育とインフラの整備、軍の文民統制という課題に取り組みながら、戦後の国際秩序と地域政治の渦中を進みます。最終的に1958年の革命で王政は倒れ、共和政へと移行しますが、その前史としての独立プロセスは、近代イラク国家の制度と政治文化の基礎を形づくった重要な時期でした。