「イラク革命」は、一般に1958年7月14日におこった王政打倒と共和制樹立の出来事(いわゆる七月革命/14日革命)を指します。ハーシム家のイラク王国は1932年に独立して以降、英との安保関係や石油利権、都市エリート中心の政治、部族・宗派・民族の不均衡を抱えたまま統治を続けてきました。1950年代に入ると、バグダード条約機構やスエズ戦争、エジプトとシリアの合同(UAR)など中東の激動が重なり、王政に対する内外の不満が蓄積します。こうした中で、陸軍の自由将校グループがバグダードに進入し、ファイサル2世と摂政アブドゥル=イラー、首相ヌーリー・サイードら旧体制の中枢を排除して共和国樹立を宣言しました。新政権はアブドゥルカリーム・カセムを中心に、非同盟・中立主義や土地改革、石油政策の見直し、個人身分法の改正などを進めましたが、汎アラブ統合を唱えるアブドゥッサラーム・アーリフらとの対立、クルド問題や治安の不安定、冷戦下の圧力に直面し、1963年のクーデターでカセム体制は崩壊しました。それでも1958年の革命は、王政期の政治・社会秩序を根底から組み替え、後のバアス党体制とサダム・フセイン時代を含むイラク現代史の出発点を画した転換点でした。
背景と前史――王政の構造、地域情勢、自由将校の形成
1950年代の王政イラクは、一見すると安定しているようで、内側に多くの緊張を抱えていました。政治の中枢には、摂政アブドゥル=イラーと強力な首相ヌーリー・サイードの「二本柱」があり、議会は存在したものの、選挙や与野党の力学は名望家と官僚によって操作されがちでした。官僚制と将校団の中核はスンナ派都市エリートが占め、シーア派多数社会や農村、クルド地域との間に政治的距離が残りました。土地所有の偏在と小作関係は根強く、農村の貧困と都市への人口流入が近代化の歪みを可視化していきます。
対外関係では、イラクは1955年に英・イラン・パキスタン・トルコとともにバグダード条約機構(後のCENTO)に加わり、冷戦の西側陣営に位置づけられました。これに対して、エジプトのナセルを中心とする汎アラブ・反帝国主義の潮流は、若い将校や学生、都市の中間層に強い魅力を持ちました。1956年のスエズ戦争は、英仏の軍事介入が国際的批判を浴びるなかで、王政イラクの対英協調に反発を生む契機となりました。1958年2月には、王政イラクとヨルダンが「アラブ連邦(ハーシム連合)」を結成してエジプト・シリアの合同(UAR)に対抗しましたが、これも国内世論の分裂を深めました。
軍内では、若手・中堅将校の間に「自由将校」グループが形成され、アブドゥルカリーム・カセムとアブドゥッサラーム・アーリフが中心的人物として浮上します。彼らは、王政と結びついた旧軍上層部を迂回して、師団・旅団クラスの実力を掌握し、情勢の転変を待ちました。決定的な機会は、1958年7月、ヨルダン支援名目でイラク第3師団の一部が西方へ進発を命じられた時に訪れます。自由将校はこの移動計画を利用し、部隊を首都バグダードに転進させる決断を下しました。
1958年7月14日の経過――王政崩壊と共和国樹立
7月14日早朝、自由将校に率いられた部隊はチグリス西岸から首都中枢に進入し、要所を制圧しました。ラジオ局は迅速に掌握され、アーリフが「腐敗した王政を打倒した」と革命声明を読み上げます。王族が滞在していた王宮は包囲され、混乱の中でファイサル2世と摂政アブドゥル=イラーが殺害されました。ほどなくして強権宰相ヌーリー・サイードも逃走ののち追撃を受けて死亡し、王政の政治・軍事の中枢は短時間で崩壊します。
同日、共和国の樹立が宣言され、暫定の「主権評議会」と内閣が構成されました。首相・国防相にはカセム、国民連帯と汎アラブを強く唱えるアーリフは副首相・内務相に就きます。対応の迅速さは、自由将校が事前に治安・行政の中核と連絡を取り、流血と混乱を最小化しながら支配の空白を埋める準備をしていたことを物語ります。他方、街頭では王政崩壊に熱狂する群衆の動きと、旧体制支持勢力に対する報復的暴力も発生し、国家の正統性を新たに再建する困難さが露呈しました。
革命の報は瞬時に地域へ波及しました。周辺のハーシム王政(ヨルダン)は英軍の支援を受け、米軍はレバノンへ海兵隊を上陸させました(いわゆる1958年危機)。英米の直接介入はイラク国内には及びませんでしたが、国際環境が緊張する中で、新生共和国は自らの外交路線と安全保障の座標を素早く固める必要に迫られました。
カセム体制の政策――非同盟、中立主義、改革の進展と矛盾
新政権の核となったカセムは、冷戦とアラブ世界の力学の間で「イラクの独自路線」を掲げました。対外的には、バグダード条約機構からの離脱方針を示し、英米と一定の距離を取りつつ、ソ連との関係を拡大して経済・軍事援助を導入しました。非同盟・中立主義を標榜し、UARへの即時合流を求める声には慎重な姿勢を取り、主権と国内改革の優先を強調しました。これに対して、アーリフら強い汎アラブ主義者はUARとの統合を急ぐべきだと主張し、両者の溝は次第に深まります。
国内政策では、まず土地改革が実施されました。大土地所有の上限を設定し、小作農に分配することで農村の不平等を是正しようとしました。同時に、最低賃金や労働保護の強化、住宅・衛生の改善、市場監督の強化が進められ、都市の生活改善を目指しました。石油政策では、国際石油資本(イラク石油会社)に対して権益の見直しを迫り、1961年の法第80号によって未開発鉱区の大部分を国有に戻し、国家主導の資源開発の基盤を築きます。
社会制度の面では、1959年の「個人身分法(法律第188号)」が画期的でした。婚姻・離婚・相続など家族法領域で慣行の改革が進み、多妻制の制限、結婚年齢の引き上げ、女性の権利保護の拡充が図られました。教育拡充と識字キャンペーン、保健医療の整備も重点化され、国家が社会的権利の保障主体であるというメッセージを明確にしました。これらの改革は都市の下層・中間層に歓迎される一方、保守的基盤や宗教勢力の反発も招きました。
治安と政治の領域では、カセムは共産党と近い距離を取りながら、汎アラブ派を牽制しました。1959年のモースルでは反カセム派の蜂起が発生し、鎮圧過程で共産党系勢力による過剰な暴力が問題化しました。同年のキルクークでは、民族間の緊張が暴発して流血の事態となり、社会の断層が露わになりました。北部クルド問題では、当初バルザーニー派と協調して自治の可能性を探る姿勢を見せたものの、やがて対立が強まり、小規模な武力衝突が再燃します。こうして、改革の推進と社会の一体化は、期待どおりには進みませんでした。
カセムとアーリフの確執は決定的になり、アーリフは早期に権力中枢から排除されます。UARとの統合をめぐる論争は、イラクの進むべき「アラブ的」道筋の問題であると同時に、軍内・官僚内の派閥と利害の争いでもありました。カセムの個人支配的な傾向と、統治機構の制度化の遅れは、改革の持続性に陰を落とします。
地域・国際関係と余波――クウェート問題、1963年クーデター、長期的影響
1961年、英保護の終了にともないクウェートが独立すると、カセムはクウェートに対して歴史的権利を主張し、領有を示唆しました。英軍の介入とアラブ諸国の仲介により全面衝突は回避されましたが、イラクの地域的孤立を深める結果となりました。資源と海への出口をめぐるこの問題は、その後も繰り返し政治の争点となります。
国内では、改革の成果と対外的緊張、治安の不安定が錯綜する中で、軍内の反カセム派とバアス党が共闘し、1963年2月にクーデター(いわゆるラマダーン革命/2月革命)を起こしてカセムを打倒しました。短命に終わった最初のバアス政権ののち、アーリフ兄弟の時代を経て、1968年にはバアス党が長期政権を確立し、最終的にサダム・フセインの個人支配へとつながっていきます。こうして1958年の革命が開いた「王政後」の政治空間は、軍・党・個人権力がせめぎ合う「クーデターの時代」を長く続けることになりました。
それでも、1958年革命の遺産は無視できません。王政期の国際配置と社会構造を再編し、土地と資源、家族法と市民の権利、教育と保健といった公共領域に国家の責任を刻み込んだことは、その後の体制の性格にかかわらず、イラク社会の基準点となりました。非同盟・中立という選択は、冷戦と地域政治のはざまで小国が生きる一つの作法を示し、石油主権の拡大はのちの資源ナショナリズムとOPEC内の力学へとつながります。クルド問題と民族・宗派の共存という課題は、解決を見ないまま現代に続く長い問いとなりました。
革命は一瞬の出来事であると同時に、社会の秩序と価値を入れ替える長い過程でもあります。1958年のイラク革命を学ぶことは、国家のかたちを変える暴力と改革の境目、外交と国内政治の相互作用、そして多民族・多宗派社会で可視化されにくい「公平」の設計を考える手がかりになります。短期の興奮と長期の制度づくりの間で、何を優先し、どのように合意を積み上げるのか――その選択がどれほど難しいかを教えてくれる歴史的経験なのです。

