「イラク攻撃(イラク戦争)(米軍)」とは、2003年に米国を中心とする有志連合がイラクに侵攻し、フセイン政権を打倒、その後の占領・統治移行・治安作戦を経て2011年まで米軍が戦闘・駐留を続けた一連の出来事を指します。開戦の名目は大量破壊兵器の脅威と対テロ戦争の延長線上に置かれましたが、のちに兵器は発見されず、情報評価の誤りと政治判断の問題が国際世論の大きな論点となりました。軍事的には「ショック・アンド・オー」と呼ばれた電撃的な空爆と機甲部隊の縦深進撃でバグダードが陥落するまでの数週間は短期決戦でしたが、その後の統治設計の失敗と軍・官僚機構の解体が反乱の拡大を招き、宗派暴力と都市戦、IED(即席爆発装置)による消耗戦へと移行します。2007年の増派(サージ)と住民保護・部族覚醒との組み合わせで一時的に治安は改善しましたが、長期的には国家・社会の断層が残り、2014年の「イスラーム国(IS)」台頭につながる負の遺産も生みました。以下では、(1)開戦に至る経緯と法的枠組み、(2)侵攻と占領初期の統治、(3)反乱・内戦化と治安再建の試み、(4)検証と影響の四点から、できるだけ平易に整理します。
開戦に至る経緯と法的枠組み――9・11後の安全保障、WMD論、国連決議と国内手続
2001年9月11日の同時多発テロ以後、米政権は対テロ戦争を掲げ、アフガニスタン作戦を経て、イラクを「ならず者国家」と位置づけました。論拠は、(1)大量破壊兵器(核・化学・生物兵器)の保有・開発疑惑、(2)国連決議違反の累積、(3)テロ組織との関係の可能性、の三点でした。2002年秋、米議会は対イラク武力行使権限決議(AUMF)を可決し、政権は国連での協議を進めます。2002年11月には国連安保理決議1441が採択され、イラクに対して査察再開と「重大な違反」是正を最後通牒的に求めました。査察団(UNMOVIC、IAEA)は年明けまでに多数の施設を査察し、未申告物質の一部や申告不備を指摘しつつも、決定的証拠には至っていないとの報告を重ねます。
米英などは、イラクがなおも決議に実質的に従っていないと主張し、第二の決議(武力行使容認)を模索しましたが、安保理での合意は形成されませんでした。結果として、2003年3月、米英などは「既決議(特に678・687・1441)の継続的根拠に基づく強制措置」という法理を掲げて開戦に踏み切ります。これに対して多くの国・市民社会からは、明示的な武力容認決議のない先制的行動は国際法上疑義が大きいと批判が起こり、世界各地で反戦デモが展開されました。国内手続の面では、米大統領は議会の授権に基づき最終決定を下し、英議会でも政権が賛成多数を取り付けています。
情報面では、2002年前後の国家情報評価で、モバイル生物兵器実験施設やアルミニウムチューブの転用可能性、化学兵器貯蔵の継続などが強調されましたが、開戦後の「イラク調査団(ISG)」による大規模調査は、イラクが90年代に兵器計画を放棄・劣化させていたことを結論づけます。情報の選択・解釈・政治化が、民主国家における戦争決定の透明性という難問を浮き彫りにしました。
侵攻と占領初期の統治――短期決戦と長期の空白、CPAの命令と副作用
2003年3月20日、開戦。米軍は約15万人、英軍約4万人規模を主力とする有志連合で、南部からの地上侵攻と首都圏への空爆を同時並行で実施しました。作戦序盤の「ショック・アンド・オー(衝撃と畏怖)」は、指揮・通信・政権中枢に集中的に打撃を与えることで、短期間で敵の戦意と統治能力を麻痺させる狙いでした。機甲・機動部隊は砂漠を高速で北上し、4月上旬にバグダードへ突入、4月9日には政権象徴の崩壊を示す光景が全世界に放映されました。4月中に主要都市はおおむね制圧され、5月1日、大統領は主要作戦終結を宣言します。
しかし「戦争の終わり」は「占領の始まり」に過ぎませんでした。戦闘終結後の略奪や治安空白、国境管理の緩み、弾薬庫の無警備は、のちの反乱の燃料となります。米国防総省主導の暫定統治(ORHAに続く連合暫定当局=CPA)は、迅速な復旧・統治移行を目指しましたが、2003年5月の二つの命令が決定的な副作用を生みました。第一は「脱バアス化命令」(CPA命令1)で、政権党バアス党の一定階層以上の党員を公職から一律排除したこと、第二は「イラク軍の解体」(CPA命令2)で、旧軍と治安部隊を組織ごと解散したことです。これにより、行政と治安の熟練人材が大量に失業し、武器とノウハウを持つ不満層が一斉に社会へ放出されました。
統治設計は、国民会議の設置、基本法(暫定行政法)の制定、移行政府の樹立へと進みますが、サービス(電力・水)、雇用、治安の改善が遅れ、占領への反感が蓄積しました。メディアは「埋め込み取材」によって戦場の臨場感を伝える一方、2004年に露見したアブグレイブ刑務所での被拘束者虐待は、倫理と統治の信頼を大きく損ないます。国際的には、多国籍軍の枠組みが整えられ、国連の決議で主権移譲のロードマップが確認されましたが、現場の暴力は減りませんでした。
反乱・内戦化と治安再建――都市戦、宗派暴力、サージと住民保護の転換
2004年以降、イラクは多面体の暴力に覆われます。スンナ派系の反乱(旧軍・部族・民族主義者・「イラクのアル=カーイダ」)が西部・中部で勢力を伸ばし、シーア派ではサドル派民兵が南部やバグダードの一部で武装蜂起、クルド地域は相対的に安定しつつも紛争地帯では衝突が起こりました。象徴的なのがファッルージャの二度の戦闘(2004年春と秋)で、IEDと市街戦、住民避難と都市機能の破壊は、その後の戦争の典型像となります。モースルやバクーバ、サマッラーでは、治安部隊への浸透と要人暗殺が続き、警察・軍の再建は困難を極めました。
2005年、選挙と憲法制定が進み、シーア派・クルドを中心とする政治構成が確立しますが、スンナ派の取り込みは遅れました。2006年2月、サマッラーの聖廟爆破を契機に宗派間の報復暴力が激化し、バグダードの混住地区は分断と人口移動が進みます。住民の恐怖と憎悪は、爆弾テロ・処刑・誘拐へ連鎖し、国家の統治能力は著しく損なわれました。米軍・多国籍軍は「掃討・保持・構築」の作戦を繰り返しますが、駐留拠点から外へ出ない守りの姿勢は「空白」を生み、そこに反乱勢力が戻る悪循環が続きます。
転機は2007年の「サージ(増派)」と作戦思想の転換です。部隊を増強し、都市内の小規模前進基地で常駐することで、住民を直接防護し、日常の安全を積み上げる方針が採られました。これと並行して、西部アンバールで広がった部族の「覚醒(サハワ)」を支援し、反アル=カーイダの地元治安組織(後の「ソンズ・オブ・イラク」)を育てる取り組みが進みます。情報の共有、夜間の検問・巡回、IED対策(装甲強化、MRAPの投入、工兵・EODの拡充)、都市サービスの迅速修復など、細かな積み重ねが徐々に効果を上げ、2008年頃には爆発的な暴力の水準が下がっていきました。
一方で、増派は永続的な解決ではありませんでした。民兵の武装解除と統合、司法の整備、警察の職業倫理の確立、汚職対策、難民・国内避難民の帰還など、政治・行政の課題は残り、中央政府と地方・宗派・民族間の不信は解けません。2008年には米・イラク間で地位協定(SOFA)が結ばれ、段階的撤収の枠組みが定まり、2011年末、米軍の戦闘部隊は撤退を完了します。
検証と影響――WMD不存在と情報、犠牲と費用、地域秩序と教訓
第一に、開戦理由の検証です。戦後の調査は、イラクが90年代に大量破壊兵器計画を解体し、2003年時点で実効的な兵器や計画を保持していなかったことを示しました。情報評価の誤りと政治過程での過度の確信は、民主的統治における戦争決定の難しさを突き付けます。査察の継続と封じ込め政策が持ち得た選択肢、軍事行動のコストとの比較衡量は、現在もなお教科書的論点です。
第二に、人命と費用です。米軍の戦死者は約4500名超、同盟軍やイラク治安部隊にも大きな犠牲が出ました。民間人の犠牲は推計に幅があるものの、爆弾テロ・市街戦・誘拐・越境逃避により甚大であり、数百万人規模の国内外避難民が発生しました。米国の財政コストは直接戦費に加えて退役軍人医療や装備更新、利息など長期に及び、受入国・周辺国もまた社会的費用を負担しました。都市インフラの破壊は、水・電力・教育・医療の遅れとして長く生活を圧迫します。
第三に、政治・社会の構造変化です。イラクでは憲法制定と選挙、連邦制と自治、司法・選挙管理機関の整備が進み、シーア派多数が国家運営の中心に立つ構図が定着しました。他方で、宗派・民族の分断と不信、民兵・準軍事組織の政治化、汚職と縁故主義は、国家の能力を損なう要因として残りました。2014年には隣接するシリア内戦の波及と中央の統治不全を突いてISが台頭し、モースル陥落に至ります。国際連合と有志連合、イラク軍・クルド部隊・民兵の反攻により2017年までに主要領域は奪還されますが、社会の傷は深く、復興と和解は続く課題です。
第四に、地域秩序と国際政治への影響です。イラク戦争は、中東における勢力均衡を変え、イランの地域的影響力拡大、湾岸諸国の安全保障観の変化、トルコの北イラク政策の再調整など、多方面の波紋を引き起こしました。米英の対外政策への信頼は損なわれ、同盟国の国内政治でも深い亀裂を生みました。国連の役割、集団安全保障の機能、先制・予防戦争の是非は、法学・国際政治学で長期にわたり検討の対象となります。
軍事・作戦面の教訓としては、(1)戦闘の成功と統治の成功は別物であること、(2)脱バアス化と軍解体に見られるように、政治・行政の制度設計は安全保障と同等に戦略の核であること、(3)市民保護・基礎サービス・司法が反乱鎮圧の成否を左右すること、(4)情報の質と政策決定の透明性が、民主社会での長期戦維持に不可欠であること、が挙げられます。米軍内部では、対反乱作戦ドクトリンの改訂、部隊の装甲化とIED対策、統合・文民協力のノウハウがその後の作戦に反映されました。
総じて、2003年以降のイラク戦争は、短期の軍事勝利が長期の安定を保証しないこと、そして国家建設と地域秩序の再編が一国の意思だけでは動かないことを、痛切に示した事例です。事実関係の確認、犠牲への敬意、そして現地社会の主体性を尊重する視点をもって振り返ることが、歴史を学ぶうえでの最低限のスタンスだと言えます。

