皇帝狙撃事件 – 世界史用語集

皇帝狙撃事件(こうていそげきじけん)は、1878年にドイツ帝国で相次いで発生した、皇帝ヴィルヘルム1世(在位1861–1888)に対する二度の暗殺未遂事件を指す通称です。5月11日のマクシミリアン・ヘーデル(Hödél)の発砲と、6月2日のカール・ノビリング(Nobiling)の散弾銃攻撃によって皇帝は負傷し、ベルリンの治安は大きく動揺しました。宰相オットー・フォン・ビスマルクは、この連続事件を契機に社会主義勢力・急進派の脅威を誇張・可視化し、同年10月にいわゆる社会主義者鎮圧法(反社会主義法)を成立させます。本法は政党(社会民主党)の合法的選挙参加を形式上許しつつ、結社・集会・出版・資金調達・シンボル等を広く禁圧する弾圧立法で、ドイツ社会民主主義の発展、国家の治安体制、メディア環境に長期の影響を与えました。以下では、事件の背景、二度の未遂の経過、政治的利用と立法の過程、影響と評価を整理して解説します。

スポンサーリンク

背景――帝国統一後の政治地図と社会主義の台頭

1871年のドイツ帝国(第二帝政)成立後、プロイセン王ヴィルヘルム1世はドイツ皇帝を兼ね、宰相ビスマルクが事実上の政権運営を担っていました。帝国議会(ライヒスターク)は普通選挙制を持つ一方、政府は皇帝・連邦参議院(連邦参議会)依存の強い半責任制で、議会内の与野党配置は政局の度ごとに変動しました。1870年代前半には、ビスマルクがカトリック教会との権限争い(文化闘争)を進め、同時に保護主義と金本位制への移行、鉄道・軍制の整備を押し進めます。

この頃、急速な工業化・都市化を背景に、マルクス主義の影響を受けた労働者運動が広がり、社会民主主義者は選挙で得票を伸ばしていました。1875年のゴータ大会で社会民主労働党(ラッサール派)と社会民主労働者党(アイゼナハ派)が統合し、ドイツ社会主義労働者党(のちのSPD)が発足します。ビスマルクは、国家統合と権力基盤の維持のため、社会主義の抑圧と保守・国民自由党の再編を戦略課題とみなしていました。そこへ起きたのが、皇帝狙撃の連続です。

事件の経過――ヘーデル(5月11日)とノビリング(6月2日)

第一の事件(1878年5月11日)は、ベルリン大通りウンターデンリンデンで発生しました。労働者出身で放浪生活を送っていたマクシミリアン・ヘーデルが、馬車に乗る皇帝ヴィルヘルム1世に短銃で数発を撃ちましたが、命中せず未遂に終わりました。ヘーデルはその場で逮捕され、取り調べでは無政府主義的傾向の独自行為であることが判明します。彼自身は社会主義党員ではなく、組織的背景は確認されませんでしたが、政府・保守メディアはこれを「社会主義の暴力性」の証左として喧伝しました。ヘーデルは同年に死刑(斬首)を執行されています。

第二の事件(1878年6月2日)は、シャルロッテンブルク(当時はベルリン郊外)で、皇帝が散策中にカール・ノビリングが散弾銃(獣猟用)で至近距離から発砲、皇帝に重傷を負わせました。ノビリングは大学出の知識人で、極端な個人主義・反体制的思想に傾斜していたとされます。逃走の際に自殺を図り、後に死亡しました。こちらも組織的関与を示す決定的証拠はなく、動機は個人的狂信・反権威感情の延長と見なされます。

二度の事件の連続性は、社会心理に大きな衝撃を与えました。高齢の皇帝が流血する報道は、保守・皇帝派の危機感を一気に煽り、ベルリンは厳戒態勢となります。ビスマルクは直ちに政治攻勢へと移りました。

政治的利用と立法――反社会主義法の成立

ビスマルクは、最初の狙撃の直後から、社会主義を標的とした治安立法の草案を議会に提出しました。第一案は5月の段階で提出されましたが、野党の反発や条文の過剰な包括性への懸念から否決されます。しかし、第二の狙撃(6月)で世論は一変し、与党・保守・中道の多くが治安強化に傾きました。ビスマルクはこの「危機の窓」を捉えて条文を修正し、1878年10月社会主義者鎮圧法(Sozialistengesetz)を成立させます。

本法は、(1)社会主義・共産主義・無政府主義を目的とする団体・結社の禁止、(2)その集会・デモ・印刷物・図像の頒布の禁止、(3)新聞・出版社の停止・没収、(4)危険人物の居住制限・追放、(5)資金・象徴(赤旗等)の取り締まり、などを柱としました。注目すべきは、政党そのものの存在と議会選挙への出馬は形式上禁止しなかった点です。これは、ビスマルクが議会政治の枠内で社会民主党勢力を分断し、弾圧と制度内競争を併用する戦術をとったことを示します。

法の執行は厳格でした。多くの社会主義系新聞が発禁となり、演説会は中止され、活動家は都市から追放されました。警察は「予防治安」の名で住居捜索・監視を拡大し、帝国全土で治安国家的な監督が常態化します。一方、議会では、キリスト教保守派や自由主義の一部が同法の恒久化・延長に同調し、ビスマルクは保護関税とセットで保守・農業・産業資本の連合を固めました。

影響――弾圧と結晶化、社会政策の併走、政治文化の変質

反社会主義法は、即効的には社会主義運動を地下化させ、出版・結社の自由を狭めました。しかし中長期的には、「殉教」と「組織力の強化」をもたらす逆説も生みます。社会民主党は合法選挙へ資源を集中し、労働者互助会・読書会・文化サークルなど周辺組織(サブカルチャー)を通じて支持基盤を拡大しました。1880年代後半には、弾圧下でもSPDの得票は伸長し、1890年の法失効・廃止後には一挙に議会第一党級の勢力へ成長します。

ビスマルクは、弾圧と並行して社会政策(社会保険制度)を導入しました。労働者の忠誠を国家へ引きつけるため、疾病保険(1883)、災害保険(1884)、老齢・障害保険(1889)という制度の骨格が整備されます。これは、労働運動の吸収と分断を狙う戦略であると同時に、近代福祉国家の嚆矢とも評価されます。結果として、ドイツの政治文化は、治安国家的統制と社会的統合政策という二面の国家技法を発達させました。

メディア環境の点では、検閲と自粛が広がり、政治風刺・急進評論は萎縮します。他方、合法の範囲内での大衆紙・家庭雑誌・技術誌が伸び、政治の争点は「治安」「秩序」「家族」「勤労」といった価値語で語られる傾向が強まりました。皇帝狙撃を契機とするこの言語の転換は、後代の帝政末期のナショナリズムや、第一次世界大戦下の総力戦体制の国民動員の前提を作ったとも指摘されます。

評価と歴史的意義――危機の政治の典型例として

皇帝狙撃事件は、単独犯の暴力が体制の大転換を促す「危機の政治」の典型として記憶されています。二つの未遂自体は組織テロではなく、社会主義との直接の因果関係も薄かったにもかかわらず、権力側はそれを体系的脅威の証拠として語り、広範な治安立法の正当化に用いました。この構図は、近代以降の多くの国家で見られる「テロ—反テロ」ダイナミクスの先駆です。

同時に、弾圧と社会政策の併走というビスマルクの戦術は、抑制と統合の両輪によって近代国家が反対派を管理するモデルを提示しました。短期的には自由の制限を招きましたが、長期的には議会主義と福祉国家の制度化を促し、労働運動は制度内反対勢力として成熟していきます。皇帝狙撃事件を学ぶことは、治安・自由・社会政策の相互関係を理解し、危機がどのように政治のレトリックと制度を変質させるかを考えるうえで有益です。

総じて、1878年の皇帝狙撃事件は、帝国ドイツの政治秩序と社会運動の関係を大きく再編した分岐点でした。狙撃そのものは未遂であっても、その政治的帰結は決定的でした。事件は、暴力と恐怖が法と制度を動かす力を持ちうること、そしてそれに対する社会の応答が民主主義と自由の器を広げも狭めもすることを、鮮やかに示しています。