皇帝党(ギベリン) – 世界史用語集

皇帝党(こうていとう/ギベリン、Ghibellines)は、中世後期イタリアを中心に展開した政治的陣営で、神聖ローマ皇帝(とりわけホーエンシュタウフェン家)の権威を支持し、しばしばローマ教皇・教皇庁の優位を掲げる教皇党(グエルフ、Guelfs)と対立した勢力を指します。語源は、ホーエンシュタウフェン家の本拠ヴァイプリンゲン(Waiblingen)の名が戦場の鬨の声として用いられ、それがイタリア語化して「ギベリン」となったとされます。12~14世紀のイタリア都市国家は、対外(皇帝・教皇・フランス王家)と対内(貴族・市民、門閥・同業組合)の利害が複雑に交錯するなかで分裂し、ギベリンとグエルフという二大ラベルが、都市内派閥・同盟網・外交選択を繋ぐ通訳語として機能しました。本稿では、定義と歴史的背景、地域・都市ごとの展開、政治社会の構造とシンボル、衰退と遺産を整理して解説します。

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定義・語源と歴史的背景――ホーエンシュタウフェン対パパル・モナークの座標

「ギベリン/グエルフ」の対立は、単純な二分法ではありませんが、基軸には皇帝権と教皇権の優越をめぐる中世ヨーロッパの大論争がありました。叙任権闘争(11~12世紀)で教皇が霊的権威と司教叙任の主導権を主張する一方、皇帝は帝国の法と伝統に基づく監督権を掲げ、独・伊を含む帝国圏の教会・諸侯・都市の秩序を再編しようとしました。12世紀にホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ1世(赤鬚王)が即位すると、ロンバルディア諸都市に対して帝国直轄化・皇帝代官の設置・関税と通行権の掌握を進め、これに反発した都市がロンバルディア同盟を結成します。1176年のレニャーノの戦いでは、同盟軍が皇帝軍を破り、1183年のコンスタンツ和約で都市自治が広範に承認されました。ここで都市の陣営分化は一段と鮮明化し、皇帝寄りの都市・貴族が「ギベリン」、教皇寄りの都市・商人・同業組合が「グエルフ」と通称される素地が固まります。

13世紀には、フリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝・シチリア王)が南北を跨ぐ帝国統治を試み、法典編纂(メルフィ法典)・行財政改革・大学整備を進めましたが、教皇庁と鋭く対立し破門・反帝国運動を招きました。ロンバルディアでは、皇帝の代官や有力貴族(たとえばヴェローナのスカリジェリ家、ミラノ近郊のヴィスコンティ家)がギベリンの旗を掲げ、これに対しフィレンツェ・ボローニャ・ジェノヴァなどの商工都市にグエルフ色が濃くなります。ただし、実態は都市ごとの権力争い・関税や山間通路の利権・金融ネットワークの覇権を巡る現地事情に左右され、皇帝と教皇の「代理戦争」という単純図式では説明しきれません。

都市国家の抗争と同盟網――シエナの勝利、フィレンツェの内乱、北伊諸侯の伸長

代表的事件としてまず挙げられるのが、1260年のモンタペルティの戦いです。トスカナ地方では、商工の発展で富むフィレンツェがグエルフ色を強める一方、シエナは皇帝寄りのギベリンが主導していました。フリードリヒ2世没後の混乱で両市の対立は激化し、シエナ側はマリナーイ家・ウベルト・ラニエーリらギベリン諸侯、さらにはスウァビア家残党やピサの支援を受けて挟撃体勢を整えます。モンタペルティでフィレンツェ軍は大敗し、多数のグエルフ指導者が亡命、都市政権は一時ギベリンに移りました。詩人ダンテが嘆く「アリオーネの旗」が翻る場面は、ギベリンの一瞬の栄光とその後の報復の予兆を象徴します。

しかし、流れは長く続きませんでした。シチリア王位を獲得したアンジュー家のシャルル(カルロ)がフランスの後援を背景にイタリア政治へ介入すると、グエルフ陣営が反転攻勢に出ます。1266年、ベネヴェントでスウァビア家のマンフレーディが敗死、ついで1268年タリアコッツォでコッラディーノが敗れて処刑され、ホーエンシュタウフェン直系のイタリア拠点は瓦解しました。これにより多くの都市でグエルフが復権し、フィレンツェでは商人ギルド(アルティ)を基盤とする政商的共和政が整います。

ただし、フィレンツェ内部でもグエルフは、地域利害と外勢との関係をめぐって白派(ビアンキ)黒派(ネーリ)に分裂しました。白派は教皇庁の政治介入に批判的で、一部はむしろギベリンに近い都市貴族と妥協を模索しました。黒派はローマ教皇ボニファティウス8世やアンジュー家と結び、1270年代末から1290年代にかけて激しい市街戦と追放劇が続きます。1295年以降の黒派主導のクーデタで白派が駆逐され、白派に属したダンテ・アリギエーリは追放(1302)され、亡命者の多くがギベリン都市へ身を寄せました。ダンテの『神曲』に見られる政治的怨憤は、この都市派閥抗争の空気を反映しています。

北イタリアでは、ギベリンの名を掲げた領主制(シニョーリア)が都市共和政を圧して伸長します。ヴェローナのカン・グランデ1世(スカリジェリ家)は、皇帝の代官権を背景にロンバルディア内で勢力圏を拡張し、ミラノのヴィスコンティ家も当初はギベリンとして帝国封土の確認を受けつつ、やがて都市金融・商業の利害と結んで独自の大公国へ進化します。対抗するグエルフ側では、フィレンツェ・ボローニャ・ルッカなどのギルド政権が互助同盟で連携しましたが、各都市の内政・通商路・アルプス通過路の利権が絡むため、陣営の地図は絶えず書き換えられました。

政治社会の構造とシンボル――貴族とギルド、法と儀礼、黒い鷲と鍵

ギベリン/グエルフは、単なる「皇帝派/教皇派」という理念的対立だけでなく、都市社会の階層構造と深く結びついていました。一般に、ギベリン側は古くからの騎士・貴族層(マグニャーティ)や農村の在地勢力、帝国代官と結びついた門閥が多く、グエルフ側は商人・銀行家・手工業ギルド、新興の都市エリート、対地中海貿易で利益をあげる層が中核になりやすかったとされます。ただし、これは固定的ではなく、貴族でもグエルフ化する家系(例:フィレンツェのドナーティ家)や、市民でも皇帝の保護を求めてギベリンに転じる者もありました。

法制度の面では、ギベリン政権はしばしば帝国法と都市慣行の接合を図り、皇帝の勅許(ディプロマ)や代官任命状を通じて自治の法的根拠を再定義しました。グエルフ政権は、教皇庁の裁可・祝福・調停を利用しつつ、ギルド参政の制度(プポロ政)や反マグニャーティ立法(武装貴族の抑制、塔屋の高さ規制など)を整備して、都市の内乱を抑えようとしました。どちらの陣営でも、都市の公文書・法令・広場儀礼(旗、祝祭、鐘)を通じて正統性が演出され、市民の服従と参加が組織化されます。

シンボル面では、ギベリンはしばしば帝国の黒い双頭の鷲(のち単頭も)を用い、城門や広場、貨幣、印章に刻みました。グエルフは教皇のや聖ペトロのシンボル、白・赤・金の配色、都市ごとの紋章を強調しました。これらの徽章は単なる装飾ではなく、市場・行列・兵士募集・判決執行の場面に現れて、政治的忠誠を視覚化する動員メディアでした。宗教儀礼も動員の一部で、守護聖人祭・勝利記念ミサ・赦罪布告が、陣営の士気を高め、敵対者への烙印を強化しました。

暴力のあり方にも特徴があります。都市のバンディ(追放)制度は、派閥敗北者の大量追放を合法化し、亡命者はしばしば敵陣営の都市に流れて人材・資金・情報を提供しました。城館の破却、塔屋の切断、土地没収は、支配秩序の再編を可視化する手段でした。同時に、商人ネットワークは敵対都市間の交易を完全には止められず、戦争の最中にも金融・保険の取引が続くという、暴力と市場の共存がみられます。

衰退と遺産――陣営の意味変質、領邦国家の台頭、文学的記憶

14世紀に入ると、ギベリン/グエルフという標識の意味は次第に変質・希薄化します。皇帝ルートヴィヒ4世やカール4世がイタリア政策を調整し、また教皇庁がアヴィニョンへ移転(1309)してイタリア政治の直接支配が弱まると、都市間の対立はより地域領主(シニョーリア)と共和政の綱引きへ軸足を移しました。ミラノではヴィスコンティ家が公国化し、ヴェローナのスカリジェリ家、フェラーラのエステ家、マンツアのゴンザーガ家など、地方権力が固定化します。フィレンツェではメディチ家の銀行ネットワークが15世紀に台頭し、グエルフ・ギベリンの古いラベルは、歴史的記憶や名誉の語彙として残る一方、実体政治の指標としての力を失いました。

とはいえ、遺産は小さくありません。第一に、都市共和政の法律と統治技術――ギルド参政、選挙・抽選の混合、監査・短期任期、民兵の組織、反マグニャーティ立法――は、派閥抗争を経て洗練され、ルネサンス期の市政と文化保護の基盤となりました。第二に、領主政の側でも、帝国の法文書・封土認定・象徴操作は、近世的な領邦国家のプロトタイプを準備しました。第三に、文学と歴史記述の領域では、ダンテ『神曲』、ヴィッラーニ『新年代記』、ボッカッチョ、さらにはマキャヴェッリらが、ギベリン/グエルフの抗争を政治思想の教材として再構成しました。派閥の勝敗と亡命の経験は、イタリア人の政治的自意識と都市愛(campanilismo)の形成に深く刻まれます。

総じて、皇帝党(ギベリン)は、皇帝権と教皇権の普遍権威の競合が、都市国家というミクロな政治空間に翻訳された際の「記号」であり、「同盟の言語」でした。その実態は都市ごとに異なり、時に貴族対市民、時に地域領主対共和政、時に通商路・金融の覇権争いとして現れます。ギベリンの歴史は、普遍秩序の理念と都市の現実政治が交錯する劇場であり、そこから近代的な統治技法・法文化・象徴政治の多くが生まれました。今日、黒い鷲と鍵の徽章は、過去の血煙を想起させるだけでなく、都市と帝国、宗教と政治、法と暴力のせめぎ合いを読み解くための、鮮やかな手がかりであり続けています。