オーストリア・ハンガリー帝国 – 世界史用語集

オーストリア・ハンガリー帝国(1867–1918)は、ハプスブルク家の広大な領域を「二重帝国」という独特のかたちで再編した多民族国家です。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がオーストリア皇帝であると同時にハンガリー王を兼ね、外交・軍事・財政の一部を共有しながら、内政はオーストリア(シスライタニエン)とハンガリー(トランスライタニエン)が別々に運営しました。ウィーンとブダペストを両輪とするこの体制は、鉄道・産業化・教育・都市文化の発展を促し、ウィーン世紀末芸術やブダペストの近代化、多言語の文学と音楽を生み出しました。他方で、チェコ、南スラヴ、ポーランド、ルテニア、ルーマニア、イタリア系住民など多様な民族・宗教集団を内包し、選挙制度・言語・自治をめぐる調整が恒常的な政治課題となりました。バルカン危機と列強政治の圧力のもと、ボスニア併合(1908)やサラエヴォ事件(1914)を経て第一次世界大戦に突入し、戦時動員と食糧危機、民族自決のうねりの中で帝国は解体します。本項では、成立の論理と制度、社会経済と文化、外交と戦争、崩壊と遺産の四点から、この国家の実像をわかりやすく描きます。

スポンサーリンク

成立の論理と制度――「妥協」がつくった二重の国家

1866年の普墺戦争でプロイセンに敗れたハプスブルクは、ドイツ統一の主導権を失い、内政の立て直しを迫られました。ここで鍵となったのが、翌1867年の「アウスグライヒ(妥協)」です。これは、王朝の統合を保ちながら、オーストリアとハンガリーの二つの国家を同君下で並立させる制度設計でした。帝国全体の名目は「オーストリア=ハンガリー君主国(帝国と王国の連合)」で、皇帝はウィーンで「オーストリア皇帝」、ブダペストにおいて「ハンガリー王」として戴冠します。

制度の要は、共有と分離の線引きにあります。外交・戦争・共通財政の三分野は「共通省(外務省・陸軍省・財務省)」が管掌し、そこに対して両国議会から選ばれる代表で構成される「共通予算委員会」が歳出負担比率を定めました(当初オーストリア70%:ハンガリー30%、後に修正)。一方、内政は両国が完全に分権され、ウィーンの帝国議会(ライヒスラート)と、ブダペストのハンガリー議会がそれぞれ責任政府(大臣内閣制)を持ちます。オーストリア側の領域(シスライタニエン)は、ボヘミア、モラヴィア、ガリツィア、チロル、シュタイアーマルク、ダルマチアなど15の「諸邦」で構成され、ハンガリー側(トランスライタニエン)は、クロアチア=スラヴォニア王国などを抱き込む形で広域の自治を運用しました。

この構造は、ハプスブルクの統合を維持しつつ、1848年革命以来の民族要求に部分的に応答する折衷策でした。チェコの自治要求や南スラヴの代表性拡充は後景に置かれ、ハンガリーのマジャル支配層に大きな譲歩を与えたため、帝国の重心は「ドイツ系+マジャル系」の二極に偏ります。制度の硬さは、予算・軍事・関税同盟の更改を周期的な政治危機にし、宮廷・官僚・党派間の「手続の政治」を常態化させました。他方、その手続の安定性こそが、長期の投資・鉄道網拡充・教育制度整備の前提になったことも見逃せません。

軍制では、共通陸軍(クー・クー〈k.u.k.〉)のほか、オーストリア陸軍(k.k.)・ハンガリー陸軍(k.u.)の名義を持つ部隊が併存し、徴兵・言語・軍服・徽章に差異が残りました。軍語はドイツ語が基軸ですが、部隊内の指揮に複数言語が使われることも多く、士官学校と下士官の語学教育が不可欠でした。帝国の統合は、軍楽・儀礼・勲章といった象徴装置に支えられ、皇帝の巡幸と戦没追悼は多民族的忠誠の舞台でもありました。

社会経済と文化――鉄道・都市・多言語が織りなす近代

二重帝国の半世紀は、交通と産業のダイナミズムに満ちていました。ドナウ川とその支流、そして帝国を縦横に走る鉄道路線(南部鉄道、皇帝フェルディナント北部鉄道、東方鉄道など)が、ボヘミアの工業地帯、シュタイアーマルクの製鉄、ガリツィアの石油、ハンガリー平原の小麦と畜産、ダルマチアの港湾を結びました。ブダペストのドナウに架かる連続橋と環状道路、ウィーンのリング通り、プラハの新市街は、金融・商業・行政の機能を集中させ、郊外電車とトラムが都市生活を日常化します。郵便・電信・電話のネットワークは、新聞と出版社、楽譜と書店、コーヒーハウスの文化を支え、都市の知識人サークルは文学・音楽・科学の実験場となりました。

人口構成は多彩です。ドイツ系、マジャル系のほか、チェコ、スロヴァキア、ポーランド(ガリツィア)、ルテニア(ウクライナ人)、ルーマニア、クロアチア、スロヴェニア、セルビア、イタリア、ユダヤ人、ロマといった諸集団がモザイク状に分布し、宗教もカトリック、ユダヤ教、正教、プロテスタント、ユニエイト(東方典礼カトリック)が共存しました。義務教育の整備と教師養成、師範学校とギムナジウム、大学(ウィーン、プラハ、グラーツ、クラクフ、ブダペスト、チェルノウィツィなど)の充実は、官僚・技師・医師・弁護士などの専門職層を生み、帝国の機能を担いました。多言語環境では、法廷・役所・学校での言語使用を巡る「言語闘争」が各地で起こり、看板・地名・教育課程の配分が政治化します。

文化面では、ウィーン世紀末(フィン・ド・シエークル)が象徴的です。クリムトらの分離派、マフとローゼンバウムの写真、ロースの建築批判、フロイトの精神分析、ウィトゲンシュタインの哲学、マーラーと新ウィーン楽派の音楽、ツヴァイクやロートの文学は、帝都の官僚制と市民社会、亡命者と周縁の多民族の接触が生んだ独特の緊張から生まれました。ブダペストも、鎖橋やアンドラーシ通り、地下鉄(ヨーロッパ大陸初の電化地下鉄)とオペラ座を備え、金融・出版・演劇の都として輝きます。プラハのカフカ、チェコ音楽のスメタナとドヴォルザーク、ガリツィアのブルーノ・シュルツやレムベルクの合唱伝統など、周辺都市の創造力も帝国文化の裾野を厚くしました。

経済の陰影もまた現実です。ガリツィアとトランシルヴァニアの農村には貧困と零細地主制が残り、季節移民や新大陸への大量移住が起こりました。都市の急成長は住宅難と公衆衛生を悪化させ、社会民主主義やキリスト教社会運動が福祉と労働保護を要求します。ユダヤ系の社会的上昇と反ユダヤ主義の反動、女性の高等教育進出と保守的性規範の摩擦も、帝国末期の社会を揺らす要素でした。

外交と戦争――バルカンの火薬庫と帝国の選択

対外政策では、オーストリア=ハンガリーはドイツ帝国との密接な同盟を軸とし、1882年にイタリアを加えた三国同盟を形成しました。目的は、ロシアの南下とバルカンでの影響力拡大を牽制し、イタリアのオーストリア領有への野心を抑えることでした。ボスニア・ヘルツェゴヴィナは1878年のベルリン会議で占領・統治権を得て、1908年に正式併合しますが、これはセルビアとロシアの激しい反発を招きます。帝国の外相アエルンタールは強気の外交で併合を押し切りましたが、長期的には南スラヴ民族主義を刺激し、暗殺とテロの温床を育てる結果となりました。

参謀総長ホイツェンドルフはしばしば対セルビア予防戦争を主張し、宮廷内の強硬派と外務省、ハンガリー政界の思惑が交錯します。1914年6月、サラエヴォで皇位継承者夫妻が暗殺されると、ウィーンはドイツからの「白紙支援」に勇を得て最後通牒を発出、7月28日にセルビアへ宣戦布告しました。短期の懲罰戦は、ロシアの動員、ドイツの対露・対仏宣戦、ベルギー侵犯と英国参戦という連鎖で一挙に「欧州大戦」へと転化します。東部・南部戦線では、ガリツィアの大敗やセルビアでの苦戦を重ね、1915年にドイツとブルガリアの助力でセルビアを屈服させるも、ルーマニア参戦やイタリア戦線(イゾンツォ川の連戦)で消耗が続きました。1918年、ピアーヴェ川・ヴィットリオ・ヴェネトの敗北が決定打となり、軍の解体と民族評議会の独立宣言が雪崩を打ちます。

戦時は、帝国の統合の脆さを露わにしました。補給の混乱、食糧統制の失敗、インフレ、都市のパン暴動、民族間の疑心と治安監視、徴兵拒否や脱走の増加――こうした要素が、戦場の敗退と共鳴します。皇帝フランツ・ヨーゼフの死(1916)とカール1世の即位は和平努力(シックス=モラ=フォルカリン書簡など)を動かしますが、枢軸内部の利害不一致と連合国の硬い条件の前に成果は出ませんでした。

崩壊と遺産――民族自決の奔流と「見えない帝国」の残像

1918年秋、チェコスロヴァキア、南スラヴ国家(のちのユーゴスラヴィア)、ポーランド、ハンガリー、オーストリアが次々に独立・再建を宣言し、帝国は消滅しました。サン=ジェルマン条約(1919)とトリアノン条約(1920)は、オーストリアとハンガリーに対して厳しい領土確定と軍備制限、少数民族保護条項を課し、多民族空間は国境線で細かく分割されました。新国家は、旧帝国の交通網・官僚制・法典・学校制度・大学・金融網・文化施設を継承しつつ、国語・国民教育・国境管理の再設計に追われます。国境を跨ぐ鉄道や河川交易は関税と通行規則に阻まれ、経済の断片化が地域を苦しめました。

それでも、二重帝国の遺産は今日に息づいています。ドナウ委員会や国際河川管理の経験、行政法と私法の体系(ABGBなど)、都市計画と社会住宅、音楽院と劇場、学術アカデミーと技術大学、医学校の臨床教育、裁判所と公証制度――「見えない帝国」の縦糸は、国境が変わっても切れませんでした。文化の面でも、ウィーン・プラハ・ブダペスト・クラクフの相互参照は今も続き、料理・音楽・カフェ文化に共通の語彙が息づきます。多言語空間の経験は、欧州連合時代に「越境協力」や地域主義の基礎として再評価されています。

オーストリア・ハンガリー帝国は、抑圧の象徴としても、寛容の器としても語られてきました。言語・自治・宗教の折衝はしばしば不完全で、周縁の挫折と怒りを生みました。しかし、暴力的同化を避け、手続による調停を積み重ねる政治文化を育てた場でもありました。帝国が消えた後も、その「手続の技法」と文化の厚みは、ドナウの流域に長く残響しています。二重帝国を学ぶことは、多民族・多言語社会をどのように運営し、どこで破綻するのかを考えるための比較枠を与えてくれるのです。