十字軍 – 世界史用語集

 

十字軍(じゅうじぐん)とは、11世紀末から13世紀末ごろにかけて、ローマ教皇の呼びかけのもと、キリスト教徒の騎士・農民・市民などが「聖地イェルサレムの奪回」と「異教徒(主にイスラーム教徒)への聖戦」を名目に行った一連の遠征軍を指す言葉です。狭い意味では、特に最初の数回の「聖地遠征」を指しますが、広い意味ではその後の北欧や東欧、イベリア半島などで行われた対異教徒戦争や、異端討伐の軍事行動まで含めて「十字軍運動」と総称することもあります。いずれにせよ、中世ヨーロッパの宗教・政治・経済・文化を大きく揺り動かした出来事でした。

「十字軍」という名称は、遠征に参加する者たちが衣服や旗印に十字架の印をつけ、「キリストのために戦う軍」として出陣したことに由来します。彼らは教皇や説教者たちから、「十字架の印を身に受けて戦えば、罪が赦され、天国へ行ける」という約束(免罪)を与えられ、その宗教的熱狂が多くの人を戦いへと駆り立てました。しかし実際には、聖地をめぐる宗教的情熱だけでなく、封建騎士たちの領土拡大欲求や戦利品への期待、商人たちの東方貿易の利権獲得など、さまざまな利害が入り混じっていました。

十字軍は、軍事的には必ずしも「成功の歴史」とは言えません。最初の十字軍こそイェルサレム王国などの十字軍国家を成立させることに成功しましたが、それらはやがてイスラーム勢力に押し返され、13世紀末には聖地の拠点をほとんど失ってしまいます。一方で、十字軍の遠征は、ヨーロッパと東方イスラーム世界・ビザンツ帝国との交流を促し、商業都市や貨幣経済の発展、文化的接触の拡大などを通じて、後のルネサンスや大航海時代へとつながる長期的な変化を生み出しました。

簡単に言うと、十字軍とは「教皇の呼びかけに応じて聖地を目指したキリスト教徒の軍事遠征」であり、宗教的熱狂と現実の利害が複雑に絡み合った中世ヨーロッパの大イベントです。以下では、十字軍という用語の意味と範囲、十字軍が生まれた背景、主要な遠征の流れと特徴、そしてヨーロッパ・イスラーム世界にもたらした影響について、もう少し詳しく見ていきます。

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十字軍という用語の意味と範囲

十字軍という言葉は、現代の歴史学が後から与えた総称で、当時の人々が最初から自分たちを「十字軍」と呼んでいたわけではありません。中世ラテン語では、十字の印を受けた者を意味する「クロイザトゥス(cruciatus)」などの語が使われ、彼らは自分たちを「聖なる巡礼者」「神の戦士」と意識していました。やがて歴史叙述のなかで、こうした聖地遠征軍全体を「十字軍(クルサード)」と呼ぶようになり、日本語でも「十字軍」という訳語が定着しました。

世界史の教科書で「十字軍」と言うとき、多くの場合、11世紀末の第1回十字軍から13世紀末の第8回十字軍あたりまでの「聖地遠征」を指します。第1回〜第4回あたりまでは特に重要視され、第4回十字軍のビザンツ帝国首都コンスタンティノープル占領などは、キリスト教世界内部の対立を象徴する事件としてしばしば取り上げられます。

一方、歴史学の議論では、「十字軍運動(クルセイド運動)」という広い概念が用いられることがあります。これは、教皇が十字の印を与え、罪の赦しを約束する形で組織した対外戦争全般を指し、聖地遠征だけでなく、イベリア半島でムスリム勢力を追い出していくレコンキスタ、東方の異教徒(スラヴ人やバルト地方の人々)への遠征、さらには南フランスのカタリ派など異端に対する討伐まで含めて考える立場です。

このように、十字軍は「一つの戦争」ではなく、「十字架の印と教皇の免罪を伴った戦争のシリーズ」として理解するのが適切です。その中心にあるのは、「神のために戦うことが罪の赦しにつながる」という発想であり、これは中世キリスト教世界に固有の精神的枠組みでした。とはいえ、実際の遠征軍は、宗教的情熱だけで動いていたわけではなく、出発地や身分、時代によって参加者の動機や行動には大きな幅がありました。

また、十字軍という言葉は、近代以降、比喩的に「ある理念を掲げて行う大規模な運動」や、「正義を自称する攻撃的な行動」を批判的に指すときにも用いられるようになりました。この点では、宗教的熱狂と暴力が結びついた歴史的経験が、現代の言語感覚にも影を落としていると言えます。

十字軍が生まれた宗教的・政治的背景

十字軍を理解するには、まず11世紀前後のヨーロッパと中東の状況を押さえておく必要があります。宗教的には、キリスト教世界にとってイェルサレムは、「イエスが十字架にかかり、復活した場所」であり、巡礼の目的地として特別な聖地でした。一方、イスラーム教徒にとっても、イェルサレムはムハンマドが夜の旅で昇天したとされる「第三の聖都」であり、宗教的重要性を持っていました。さらにユダヤ教にとっても、古代イスラエル王国の神殿が建てられていた場所として聖なる都市です。

7世紀以降、イスラーム教徒の征服によってイェルサレムはイスラーム世界に組み込まれましたが、キリスト教徒の巡礼は一定の条件のもとで許されていました。しかし、11世紀に入り、セルジューク朝トルコ人が勢力を拡大すると、ビザンツ帝国との対立が激化し、ある時期には巡礼の安全が脅かされるなどの問題が生じます。ビザンツ皇帝は、異民族の侵攻と内紛に苦しむ中で、西ヨーロッパのキリスト教世界に軍事的支援を求めました。

一方、西ヨーロッパ世界では、ローマ教皇が教会改革を進め、皇帝や諸侯との権力争いの中で「キリスト教世界全体の指導者」としての地位を高めようとしていました。教皇ウルバヌス2世は、ビザンツからの援助要請を好機と見て、1095年のクレルモン教会会議で「聖地の解放」と「東方の兄弟(ビザンツ教会)の救援」を訴え、騎士や民衆に十字軍参加を呼びかけました。この説教の中で示された「十字架の印を受けて戦う者には罪の赦しが与えられる」という約束が、多くの人々の心に強いインパクトを与えます。

社会的・経済的な背景としては、封建社会のなかで領地や名誉を求める騎士たちの存在が重要です。相続の仕組み上、長子以外の騎士は十分な領地を持てず、戦場での武勲や新たな土地獲得を通じて地位向上を目指すことが多くありました。十字軍は、彼らにとって「神の名の下に戦い、同時に領土や富を得る」機会として映りました。

また、農村人口の増加や土地不足、修道院や教会による「神の平和・神の休戦」運動(キリスト教徒同士の私戦を抑える試み)も、戦争の矛先を外へ向ける要因となりました。教会は、「同じキリスト教徒どうしが争うのではなく、異教徒との戦いに力を向けるべきだ」と宣教し、十字軍を「内戦の代わりとなる聖戦」として位置づけました。

このように、十字軍は、聖地イェルサレムへの宗教的憧れ、ビザンツ帝国の危機、ローマ教皇の権威拡大、騎士階級や民衆の不満と欲望、封建社会の構造的問題など、多数の要因が絡み合って生まれた運動でした。「純粋な宗教戦争」としてだけでなく、「中世社会の矛盾や希望が集中的に噴き出した現象」として見ることが大切です。

主要な十字軍の展開と特徴

十字軍の歴史は複雑で、細かく数えれば多くの遠征がありますが、世界史の学習では主に第1回〜第4回を中心に理解しておくとよいです。まず、第1回十字軍(1096〜99年)は、教皇の呼びかけに応じて集まった諸侯・騎士の軍と、その前に出発した熱狂的な民衆十字軍から成っていました。途中、多くの困難と犠牲を出しながらも、十字軍はついに1099年にイェルサレムを占領し、その周辺にイェルサレム王国・アンティオキア公国・エデッサ伯国・トリポリ伯国などの「十字軍国家」を樹立します。この時のイェルサレム占領に際しては、多数のムスリムやユダヤ人が虐殺されたと伝えられ、宗教戦争の残酷な一面を象徴する事件となりました。

しかし、これら十字軍国家は、海から遠く離れ、周囲をイスラーム勢力に囲まれた不安定な存在でした。第2回十字軍(1147〜49年)は、エデッサ伯国陥落への対応として組織されましたが、内紛や戦略ミスもあって成果は乏しく、十字軍内部の士気低下や諸侯間の不信を深める結果となりました。

12世紀後半になると、イスラーム側ではサラーフッディーン(サラディン)がエジプトとシリアを統一し、アイユーブ朝を樹立します。彼は1187年のヒッティーンの戦いで十字軍を破り、イェルサレムを再征服しました。これに対抗するために組織されたのが第3回十字軍(1189〜92年)で、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、フランス王フィリップ2世、イングランド王リチャード1世(獅子心王)など、当代一流の君主たちが参加しました。

第3回十字軍では、フリードリヒ1世が途中で事故死するなどの不運はあったものの、リチャード1世の活躍によってアッコンなどいくつかの沿岸都市を奪回することに成功しました。ただし、イェルサレムそのものの奪回には至らず、サラーフッディーンとのあいだでキリスト教徒巡礼の安全を保障する妥協が結ばれました。ここには、相互の勢力や疲弊を考慮しつつ、現実的な妥協点を探る中世的な外交の一面が見て取れます。

十字軍の歴史の中で特に問題視されるのが、第4回十字軍(1202〜04年)です。本来はエジプトを攻撃して聖地を目指す計画でしたが、資金不足やヴェネツィア商人の思惑、ビザンツ帝国の内紛などが重なり、最終的に十字軍はコンスタンティノープルを攻撃・占領してしまいます。1204年のコンスタンティノープル略奪は、東西教会の分裂を決定的なものとし、ビザンツ帝国に致命的な打撃を与えました。十字軍が本来の目的から逸脱し、キリスト教徒同士の争いに転じた象徴的な出来事として、歴史の教科書でも強調されます。

その後も、小規模な十字軍や子ども十字軍など、さまざまな遠征が続きましたが、13世紀末までに聖地の十字軍拠点はほとんど失われました。1291年のアッコン陥落は、その象徴的な終わりとされます。一方、同時期に北欧やバルト海沿岸では、ドイツ騎士団などによる「北方十字軍」、イベリア半島ではレコンキスタが進行しており、十字軍的な発想は地域を変えながら生き続けていました。

このように、主要な聖地十字軍は軍事的には成功と失敗を繰り返し、最終的には聖地を保持できなかったものの、中世ヨーロッパの政治・社会・精神文化に深い痕跡を残しました。

十字軍がもたらした影響

十字軍がヨーロッパにもたらした影響は、多方面に及びます。第一に、政治・権力構造の面では、教皇がキリスト教世界全体に軍事遠征を呼びかけて動かしたことにより、「教皇権の国際的なリーダーシップ」が強調されました。しかし、十字軍の失敗や内部対立、特に第4回十字軍などの逸脱した行動は、教皇の権威に対する批判や失望も生み、長期的には教皇と世俗君主の力関係の変化につながっていきます。

第二に、封建社会と経済の面では、十字軍は多くの騎士や農民、市民が遠く東方へと移動する機会を作り、その過程で商業や貨幣経済が活性化しました。イタリアのヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサなどの海港都市は、十字軍の輸送や補給を担うことで莫大な利益を得て、東方貿易の拠点として繁栄しました。香辛料や絹織物、ガラス製品など、東方の高級品がヨーロッパに流入し、消費文化や都市生活の変化を促しました。

また、遠征に必要な軍資金や借金の処理などを通じて、貨幣・金融の重要性が高まり、封建的な土地経済中心から、より流動的な商業経済への転換が進む一因となりました。十字軍の失敗で没落する領主もいれば、戦利品や交易で財をなして台頭する新興勢力もおり、中世後期の社会変動の一部を形づくりました。

第三に、文化・知識の面では、十字軍を通じてヨーロッパとイスラーム世界・ビザンツ帝国との接触が増えました。イスラーム世界やビザンツは、ギリシア・ローマの古典文化や独自の学問を高いレベルで保持しており、その一部がラテン語に翻訳されてヨーロッパに流入しました。アリストテレス哲学や医学・数学・天文学などの知識は、十字軍期からその後にかけて西ヨーロッパに伝えられ、やがて中世大学の学問やルネサンスの古典復興につながっていきます。

もちろん、十字軍が「文化交流の美しい架け橋」だったと単純に言うことはできません。実際には、多くの場合、暴力と対立、略奪と憎悪が伴いました。イェルサレムやコンスタンティノープルの虐殺・破壊は、イスラーム世界やギリシア正教徒の側に深い傷と恨みを残し、キリスト教とイスラーム、東西教会の関係に長く影を落としました。その意味で、十字軍は「交流」と「対立」が極端な形で交錯した出来事だったと言えます。

現代においても、「十字軍」という言葉は、イスラーム世界や西洋・中東関係の議論の中で象徴的に扱われることがあります。たとえば、植民地支配や中東政策への反発の文脈で、西洋側の軍事介入が「新たな十字軍」と批判されることがあります。これは、十字軍の記憶が単なる過去ではなく、現在の政治・宗教意識にまで影響を与えていることを示しています。

総じて、十字軍は、中世ヨーロッパの宗教的情熱・政治的野心・経済的欲望が一体となって動き出した「巨大な運動」でした。その結果として生まれた交流と対立、秩序と混乱の両面を見つめることで、宗教と戦争、信仰と現実政治の関係について、多くのことを考えさせてくれる歴史的な出来事だと言えます。