アウスグライヒの成立背景
アウスグライヒ(Ausgleich、妥協の意)は、1867年にオーストリア帝国とハンガリー王国の間で結ばれた政治的妥協を指します。これにより、両者の関係は「二重帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)」として再編されました。この出来事は19世紀ヨーロッパの民族問題、国家統合、帝国の存続を理解する上で不可欠な要素です。
背景には、19世紀前半の民族運動と1848年革命がありました。当時のオーストリア帝国は多民族国家であり、ドイツ人、ハンガリー人、チェコ人、ポーランド人、イタリア人、ルーマニア人、南スラヴ人など多様な民族が共存していました。特にマジャール人(ハンガリー人)は自治や独立を強く求め、1848年には大規模な独立運動を展開しました。このハンガリー革命は一時的に押し戻されましたが、帝国内における民族問題の深刻さを浮き彫りにしました。
さらに、1866年の普墺戦争におけるオーストリアの敗北は大きな契機となりました。この戦争の結果、ドイツ統一の主導権をプロイセンに奪われたオーストリアは、もはや「ドイツの大国」としての地位を維持できなくなりました。こうした状況の中で、帝国内の結束を強める必要に迫られたオーストリア政府は、最も強い民族的不満を抱えていたハンガリー人との妥協に踏み切ることとなったのです。
アウスグライヒの内容
アウスグライヒによって成立したオーストリア=ハンガリー二重帝国は、形式上は一つの帝国でありながら、実質的には二つの国家の連合体でした。両国はそれぞれ独自の憲法・議会・行政機構を持ち、国内の政治や経済に関しては自主的に運営することが認められました。一方で、外交・軍事・財政の一部は「共通省庁」として統一管理され、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が両国の君主を兼ねました。
具体的な仕組みとしては、オーストリア側は「ツィスライタニエン(Cisleithanien)」、ハンガリー側は「トランスライタニエン(Transleithanien)」と呼ばれる二つの行政区分に分かれました。両者は独立した立法府を持ちつつ、共通事項については双方の代表からなる「帝国評議会」で調整が行われました。これにより、ハンガリーは事実上の自治を獲得し、オーストリア帝国の内部において独自の国家的地位を確立したといえます。
また、アウスグライヒによってハンガリー人は政治的に優遇されるようになり、国内少数民族(スロヴァキア人、ルーマニア人、クロアート人など)に対してはしばしば抑圧的な政策を取るようになりました。これにより帝国内の民族問題は解消されるどころか、むしろ複雑化していきました。
アウスグライヒの影響
アウスグライヒはオーストリア=ハンガリー帝国の安定を一時的に保障しました。ハンガリーが自治を得たことで、少なくともオーストリアとハンガリーの間の対立は緩和され、帝国全体の存続が可能となりました。また、この妥協はフランツ・ヨーゼフ1世の長期的な統治を支え、二重帝国は第一次世界大戦まで存続することになります。
しかし一方で、この妥協は帝国内の他の民族に不満を残しました。チェコ人や南スラヴ人などは、自分たちもハンガリーのように自治を獲得すべきだと主張し、帝国内の民族運動はむしろ拡大しました。特に南スラヴ人(セルビア人やクロアート人)の民族主義は、後にバルカン半島の不安定要因となり、第一次世界大戦勃発の遠因となります。
経済的には、オーストリアとハンガリーの分権的体制は複雑な制度を生み出しましたが、一方で帝国全体としての市場は維持され、産業化や鉄道網の整備が進みました。その結果、19世紀後半のオーストリア=ハンガリー帝国は中央ヨーロッパの大国として一定の繁栄を享受しました。
アウスグライヒの歴史的意義
アウスグライヒは、19世紀ヨーロッパにおける民族問題と帝国の統治のあり方を象徴する出来事です。一方では、帝国を維持するために柔軟な妥協が行われた先例として評価されることがあります。特にオーストリアがドイツ統一から排除される一方で、なお大国としての地位を保ち得たのはアウスグライヒのおかげでした。
しかし他方で、この妥協は限定的であり、帝国内の他民族に広く適用されなかったため、結局は民族対立を根本的に解決できませんでした。その結果、オーストリア=ハンガリー帝国は「民族の牢獄」とも呼ばれるようになり、20世紀初頭の民族自決運動の波に抗しきれなくなります。第一次世界大戦後、帝国が解体され多くの民族国家が誕生するのは、このアウスグライヒ体制の限界を如実に示すものです。
このように、アウスグライヒは一時的に帝国の安定をもたらしたものの、長期的には多民族国家の矛盾を深める結果をもたらしました。それはヨーロッパ史において「多民族帝国の統治の困難さ」を示す代表的な事例として位置づけられています。

