「ザミンダーリー制」とは、南アジア(主にインド亜大陸)において、土地や農村から歳入(地税・地代)を徴収する権限をもつ有力者層「ザミンダール(zamindar)」を軸に、国家と農民を結びつけた収租体制を指す言葉です。近世ムガル帝国の行政財政に根をもち、のちにイギリス東インド会社と英領インド政府の下で再編・固定化され、とくにベンガルで1793年の恒久和約(Permanent Settlement)によって制度化されました。簡単にいえば、「国家の税を肩代わりして集め、見返りに土地支配や徴税権を認められた地主・領主層に立脚した制度」であり、都市の商人金融と農村の生産を結ぶ中間層の形成、農民の租税・地代負担の構造、地域ごとの土地制度の差異を理解する鍵になります。ザミンダーリー制は単一の仕組みではなく、時代と地域により意味と実態が変化しました。ムガル期には行政・軍事奉仕と結びついた在地権力として、植民地期には土地所有権と徴税義務を固定化された地主制度として、それぞれ異なる顔を見せています。以下では、歴史的背景、制度の仕組みと地域差、社会経済的影響、近代以降の展開の順に整理して解説します。
用語の定義と歴史的背景
「ザミンダー(zamindar)」は、語源的には「土地(zamin)+保持者・支配者(-dar)」の複合で、土地に関わる権限を持つ人々を広く指す語として用いられてきました。ムガル帝国期(16〜18世紀)には、ザミンダーは国家の外部にいる独立領主というより、帝国の収税体系と軍事・治安維持の網の目に組み込まれた在地有力者を指すことが多かったです。彼らは地域の慣行(カスタム)や村落共同体を媒介しつつ、耕作者から地税を取り立て、一定の割合を帝国財政へ納め、残余を自らの収入や軍事・行政の費用に充てました。ムガル国家は地誌調査と収租台帳(アイン・イ・アクバリに象徴される)を整え、標準的な収税単位や評価を導入しましたが、実際の徴収は在地のネットワークに依存していました。そのため、ザミンダーは国家と村の間を取り持つ媒介者であり、地域に根ざした権威と武装力を背景に影響力を広げました。
18世紀にムガル権威が衰退し、各地でマラーターやシク、アワド、ハイダラーバードなどの地域勢力が台頭すると、在地の徴税権と軍事力を握る人々の自立性は増しました。同時に、湾岸商業の発展とヨーロッパ商社の進出が、農産物・原料の対外取引を活性化させ、在地有力者は輸送と金融を通じて都市経済とも結びつきました。この流れの中で、ベンガル・ビハール・オリッサを掌握したイギリス東インド会社は、税収を安定的に確保するため、既存の在地権力に基盤を置いた土地制度を再編し、恒久的な取り決めとして固定化していきます。1793年の恒久和約(Permanent Settlement)はその象徴で、ザミンダーに土地の「所有権」に準ずる強い権利を与える一方、毎年一定額の地税(レヴェニュー)の納付を厳しく義務づけました。
この転換は、ザミンダーを単なる徴税代理から、法的に保護された地主へと変質させました。ムガル期のザミンダーは、しばしば軍役・治安・儀礼の奉仕と引き換えに地域支配を認められた存在でしたが、植民地期のザミンダーは、英国法的な不動産権と抵当・売買の対象になり、税納入が滞れば土地が競売にかけられることもありました。つまり、ザミンダーリー制は、近世的な「人格と奉仕」を軸とする在地権力から、近代的な「物権と債務」を軸とする地主権力へと再定義されたのです。
制度の仕組みと地域差――ベンガルの恒久和約、他州の諸制度との比較
ザミンダーリー制の中心的モデルは、ベンガルの恒久和約に見られます。この制度では、会社政府が各ザミンダーに年額の地税負担(レヴェニュー・デマンド)を課し、その額を「恒久(パーマネント)」に凍結しました。国家の歳入は安定し、ザミンダーは余剰を地代として収受する権利を得ます。ザミンダーは村の耕作者(リヤート、ryot)や中間請負人(タルクダール、イラカダール等)を通じて実際の徴収を行い、統制のための台帳、測量、境界画定が進められました。耕作者は伝統的慣行に基づく占有権や更新権を部分的に保護されることもありましたが、地代の引き上げや追い立てが生じると脆弱でした。地税が固定される一方で、人口増加や市場価格の上昇による差益は主としてザミンダー側に帰属したため、彼らの富の集中が進む構造になっていました。
ただし、英領インド全体がザミンダーリー制で統一されたわけではありません。マドラスやボンベイ管区では、土地の単位と納税責任を耕作者本人に直接負わせるリヤートワーリー(Ryotwari)制が採用され、北インドのパンジャーブや北西部・中部では、村落単位の共同責任を重視するマハルワーリー(Mahalwari)制が広がりました。これらの制度は、地理・生態・村落構造・既存の在地権力の強弱に応じて選択されたもので、同じ植民地国家のもとでも土地・人の編成原理が異なっていたのです。したがって、「ザミンダーリー制=英領インドの土地制度」と単純化することはできません。むしろ、ベンガルを中心に強く現れた一形態であり、他地域の制度と比較して、その利害や社会的効果を考える必要があります。
ザミンダーリー制下の権利関係は、多層的な中間層の存在を特徴とします。ザミンダーの下には、徴収の再請負や村落監督を行う中間人(タルク、パタニ、ムカッディムなど地域ごとの呼称)が介在し、さらに村落のパティル、ラムバルダールといった慣行的役職が、土地の区画、播種の調整、水利、治安など日常の管理を担いました。権利はしばしば重層的に重なり、同一の地片に対して所有・占有・徴税・使用の複数の権利が存在しました。この「権利の束(bundle of rights)」が、紛争や訴訟の温床になる一方、地域社会に柔軟性を与える仕組みでもありました。
会社政府は、測量(サーベイ)と地図作成、租税台帳の整備、裁判制度の導入を通じて、この多層的権利を「可視化」し、課税の根拠を標準化しようと試みました。しかし、気候変動による洪水・河道変化、農地の開墾と荒廃、共同体の移動など、地理と社会の流動性は高く、固定化の企図は常に修正を迫られました。恒久和約の「恒久性」は、実務の現場では交渉と修正の積み重ねの上に保たれていたのです。
社会経済的影響――農村社会、商品作物、飢饉、都市文化
ザミンダーリー制は、農村の生産と都市の市場・金融を結びつける効果を持ちました。地税が貨幣で納められるほど、農民は現金収入を得るために商品作物(インディゴ、アヘン、綿花、黄麻、砂糖など)の生産に傾き、商人・金貸しとの関係を深めます。ザミンダーは地代の取り立てに加え、前貸し(アドバンス)を通じて農民を信用ネットワークに組み込み、収穫時の差引(デダクション)で回収しました。価格が好況であれば双方に利益が出ますが、凶作や価格下落の局面では、負債が膨らみ、土地の占有権が失われる危険が高まりました。こうした景気循環に対する脆弱性は、ザミンダーリー制のもとで顕在化しやすい構造的問題でした。
19世紀、ベンガルの藍栽培(インディゴ)をめぐっては、契約と前貸しを通じた強制的な作付の実態が批判され、農民運動や紛争が発生しました。商品作物の拡大は、飢饉時の脆弱性にも関わります。輸送・保管・価格政策が不十分だと、貨幣経済が浸透した社会では飢饉が市場を通じて急速に拡大し、税納入の厳格さと相まって災害の打撃を増幅させることがありました。ザミンダーが備蓄と施米、公共工事の実施などで社会的責務を果たす場合もありましたが、競売の圧力や負債の重圧がそれを阻むことも多かったです。
他方、ザミンダーは文化のパトロンでもありました。都市や地方都市の邸邸は文芸・音楽・演劇の場となり、寺院やモスク、学校の建設、祭礼の主催などを通じて、地域アイデンティティの形成に寄与しました。裕福なザミンダー家は絵画・銀器・織物を収集し、英学や新教育にも資金を投じ、近代的な出版・新聞の支援者にもなりました。つまり、ザミンダーリー制は単に搾取的な側面だけでなく、公共圏の形成と美術・学芸の支援という側面を併せ持っていたのです。
ジェンダーやカーストの観点でも影響は複雑です。ザミンダー家の女性は相続や持参金を通じて土地権益を保持し、宗教・慈善活動の後援者として地域に影響力を持つことがありました。農村では、土地へのアクセスと労働の分担がカースト慣行に基づいて配分され、ザミンダーの政策や中間層の態度次第で、下層カースト・移民耕作者・季節労働者が不利な条件に置かれることがありました。ザミンダーリー制は、社会関係の媒介者でもあるゆえに、その倫理や統治の在り方が直接に弱者の生活に反映されたのです。
法と訴訟の領域では、ザミンダーと耕作者の間に数多くの係争が発生しました。境界や地代、占有権の更新、抵当権、差押えをめぐる争いは、植民地司法の判例を積み重ね、近代法の概念が在地慣行に浸透する契機ともなりました。他方で、訴訟コストや手続きの複雑さは、権利保護の格差を拡大する要因にもなりました。
近代以降の展開――廃止と遺産、用語上の注意
インド独立後、各州政府はザミンダーリー制の廃止と土地改革に踏み出しました。1940年代末から1950年代にかけて、ザミンダールの徴税権を撤廃し、耕作者の権利を強化する法律(Zamindari Abolition Acts)が相次いで制定され、地主からの土地取上げ、地代の規制、テナントの保護、天井制(上限面積の設定)などが導入されました。これにより、名目的にはザミンダーリー制は終焉し、国家と農民の関係は、より直接的な行政と開発政策によって組み直されました。ただし、法の執行は地域差が大きく、旧来の有力者が新制度のなかで影響力を保ち続けた例も少なくありません。社会的ネットワーク、教育、金融、政党との結びつきは、一朝一夕には解体されないためです。
パキスタンやバングラデシュでも、独立後にザミンダーリー的な権利の解体が進められましたが、地域の政治経済や土地所有の構造によって成果に差が出ました。地理条件(水利、河川の氾濫原、デルタの新生地)や、難民流入・都市化・工業化の速度が、土地改革の実効性を左右しました。ザミンダーリー制の歴史的遺産は、農村の権力構造、教育・文化のパトロネージ、都市の不動産市場、宗教施設と祭礼の運営など、多方面に影響を残しています。
学術上の評価は分かれます。一方には、恒久和約が税収を安定させ、測量・台帳・裁判を通じて「法と数」の統治を推進し、インフラや商品経済の発展に条件を整えたという見方があります。他方には、地税固定の利益を地主側に集中させ、農民の交渉力を弱め、飢饉や価格変動時の脆弱性を高めたという批判があります。さらに、ザミンダーが文化・教育を支え、新中間層の形成に資した面と、在地の上下関係を硬直化させた面を、同時に評価する必要があると指摘されます。結局のところ、ザミンダーリー制は、国家財政・市場・地域社会の交点で働く「媒介装置」であり、その効果は運用と環境の条件次第で大きく変動したといえます。
最後に用語上の注意を述べます。第一に、「ザミンダー」は時代と地域によって法的実体が異なる可変概念です。ムガル期の在地有力者と、英領期の不動産としての地主を、連続しつつも区別して理解することが大切です。第二に、英領インドには複数の土地制度が併存し、ザミンダーリー制はその一つ、なかでもベンガルで強く現れた制度である点を忘れてはなりません。第三に、現地語の多様性と慣行の差は大きく、同じ「ザミンダー」の語でも、権能・家格・財政的負担・軍事的役割が異なります。史料の文脈を丁寧に読むことが、実態の理解につながります。
以上のように、ザミンダーリー制は、ムガル帝国の収租体系を基盤にしながら、植民地統治によって再編・固定化され、近代の土地所有と債務・市場の論理の中で展開した制度です。国家の財政需要と地域社会の自律性、農民の生計と市場のリスク、文化のパトロネージと社会的格差といった複数の要素が交差する場として、この制度を理解することが重要です。制度の善悪を一言で断ずるのではなく、歴史の中でその性格が変化し、文脈によって多様な帰結を生んだことに目を向けることで、より立体的な像が見えてくるはずです。

