十字軍(第1回) – 世界史用語集

 

十字軍(第1回)(だいいっかいじゅうじぐん)とは、1096年から1099年にかけて、ローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけに応じた西ヨーロッパの諸侯・騎士・農民たちが、聖地イェルサレムの奪回を名目として行った最初の大規模な遠征のことです。のちに続く「十字軍」の出発点となった遠征であり、中世キリスト教世界の宗教的情熱と、封建社会の矛盾や国際政治の思惑が、もっとも劇的な形でぶつかり合った出来事として知られています。第1回十字軍は、数多くの困難や偶然を経ながらも、結果としてイェルサレムを占領し、周辺にいくつかの十字軍国家(イェルサレム王国など)を樹立することに成功しました。

第1回十字軍は、単に「聖地を取り返しに行った軍事遠征」と一言で片づけられるものではありません。背景には、ビザンツ帝国がセルジューク朝トルコの圧迫に苦しみ、西ヨーロッパに軍事援助を求めていたこと、ローマ教皇が教会改革と教皇権の強化を進めており、自らの指導力を全キリスト教世界に示す必要があったこと、土地や名誉を求める騎士階級や不安定な農民・都市民の不満が渦巻いていたことなど、複数の要因が複雑に絡み合っていました。宗教的な熱狂と政治的・経済的な利害が、同じ「十字」という旗印のもとに集約されていったのです。

実際の動きとしては、まず熱狂的な説教に動かされた農民たちが「民衆十字軍」として先走り、放浪と略奪の末にほとんど全滅します。その後、本格的な「諸侯十字軍」がドイツ・フランス・イタリア各地から出発し、ビザンツ領コンスタンティノープルを経由して小アジア・シリアを経てイェルサレムへ向かいました。途中のニケーア攻略やドリュラエウムの戦い、アンティオキア包囲戦などは、十字軍側もイスラーム側も大きな犠牲を払う激戦となりました。最終的に1099年、十字軍はイェルサレムを占領しますが、その際多数のムスリムやユダヤ人住民が虐殺されたと伝えられ、宗教戦争の残酷さを象徴する事件となりました。

第1回十字軍の成功は一時的なものに過ぎず、その後、十字軍国家は周囲のイスラーム勢力に押し返されていきます。しかし、この遠征はヨーロッパと東方イスラーム世界・ビザンツ帝国との関係を大きく変え、商業や文化、政治構造に長期的な影響を与えました。十字軍運動の起点として、第1回十字軍の性格と経過、成果と問題点を理解することは、中世ヨーロッパとイスラーム世界の関係を学ぶうえで欠かせません。以下では、第1回十字軍の呼びかけと背景、民衆十字軍と諸侯十字軍の動き、イェルサレム占領と十字軍国家の成立、その歴史的意義と限界について、もう少し詳しく見ていきます。

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第1回十字軍が呼びかけられた背景

第1回十字軍の出発点には、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と西ヨーロッパのキリスト教世界の事情が重なっていました。11世紀後半、ビザンツ帝国はセルジューク朝トルコの進出によりアナトリア(小アジア)内陸部の多くを失い、かつて自国の主力兵力を供給していた地域を奪われて、深刻な軍事危機に陥っていました。1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ軍が大敗したことは、その象徴的な出来事です。

ビザンツ皇帝アレクシオス1世は、トルコ軍の圧迫を食い止め、失地回復を図るため、ラテン教会側に軍事援助を要請しました。当初、皇帝はビザンツに雇われた傭兵としての騎士団を期待していたにすぎませんでしたが、この援助要請は西ヨーロッパ世界にとって思いもよらぬ規模の宗教運動のきっかけとなります。

一方、西ヨーロッパでは、ローマ教皇が教会改革を通じて権威の再建と強化を図っていました。叙任権闘争に代表されるように、教皇は皇帝や世俗諸侯と司教任命権などをめぐって激しく対立しており、「教会は世俗権力から独立し、教皇がキリスト教世界の最高権威である」という理念を実現しようとしていました。こうした中で、「東方の兄弟を助け、聖地を異教徒から解放する」という大義名分のもとに、全ヨーロッパの騎士や民衆を一つの運動に動員できれば、教皇の権威を広く示す格好の機会となります。

さらに、封建社会内部の状況も重要です。当時の西ヨーロッパでは、人口増加と開墾の進展により土地不足が問題になりつつありました。長子相続のもとで領地を得られない次男以下の騎士たちは、領土や富、名誉を求めて戦場を必要としていましたが、教会は「神の平和」「神の休戦」といった運動でキリスト教徒どうしの私戦を抑えようとします。この矛盾を解消する道として、「戦いの矛先を外の『異教徒』へ向ける」という発想が生まれ、教皇や説教者たちは「聖戦」のイメージを広めていきました。

1095年、教皇ウルバヌス2世はクレルモン教会会議で、ビザンツ皇帝からの救援要請と聖地解放の必要性を訴える説教を行いました。伝えられるところによれば、彼は「この十字の印を身に受けて出陣する者には、全ての罪が赦される」と宣言し、集まった聴衆は熱狂して「神のおぼしめしなり!(デウス・ヴルト)」と叫んだとされます。この場面はおそらく後世の潤色も含まれていますが、「十字の印=完全な赦し(免罪)」という約束が、第1回十字軍の大きな精神的原動力になったことは確かです。

民衆十字軍と諸侯十字軍

教皇の呼びかけに最初に反応したのは、必ずしも大貴族や正規の騎士団ではなく、地方の小領主や農民、都市の貧しい人々でした。特に「隠者ピエール」と呼ばれる修道士は、熱狂的な説教で多くの民衆をひきつけ、1096年、正式な準備も整わないうちに「民衆十字軍」と呼ばれる一団が出発することになります。彼らは十分な武装や補給計画を持たず、道中で略奪や騒乱を起こしながら東へと向かいました。

この過程で、ドイツや東欧各地では、ユダヤ人共同体に対する虐殺が相次ぎました。なかには、「イェルサレムの敵(ムスリム)と戦う前に、身近な『キリスト殺し』であるユダヤ人を罰するべきだ」といった過激な論理で、略奪と殺戮を正当化する者もいました。これは、十字軍の宗教的熱狂が必ずしも高尚な信仰心として表れるのではなく、偏見と暴力の方向へも容易に流れうることを示す例です。

民衆十字軍は、コンスタンティノープルまではなんとかたどり着いたものの、その後、小アジアに渡るとセルジューク朝の軍に容易に撃破され、ほとんどが戦死・捕虜となりました。事実上、第1回十字軍の先走りとして犠牲になった形であり、「無謀な熱狂の悲劇」として記憶されることになります。

これに対して、同じ頃に準備された「諸侯十字軍」は、はるかに体系的かつ組織的な遠征でした。フランスの諸侯やロレーヌ地方、南イタリアのノルマン人諸侯などが、それぞれの兵を率いて参加し、1096年後半から1097年にかけて順次コンスタンティノープルへと集結しました。代表的な指導者としては、ボードゥアン(バルドゥイーヌ)、ボエモン、ゴドフロワ(ゴドフロワ・ド・ブイヨン)などの名が挙げられます。

ビザンツ皇帝アレクシオス1世は、これら諸侯十字軍を歓迎しつつも警戒し、彼らに自国領の保護と回復を約束させる誓約を求めました。十字軍側も、補給や渡海のためには皇帝の支援が不可欠であったため、形式的にはこれに応じますが、相互不信はつねにつきまといました。こうして、第1回十字軍は「東西キリスト教世界の協力」という形で出発しながらも、その内部には早くから緊張と利害対立が潜んでいたのです。

小アジア・シリアでの戦いとイェルサレム占領

1097年、諸侯十字軍はまずボスポラス海峡を渡り、小アジア西部の要衝ニケーアを包囲・攻略しました。この都市はかつてビザンツ帝国の重要な拠点でしたが、セルジューク朝に奪われていたもので、奪回はビザンツにとっても大きな成果でした。その後、十字軍はアナトリア内陸部を横断し、ドリュラエウムの戦いでセルジューク軍の反撃を退けながら、シリア方面へ向かいます。この行軍中、補給不足や暑さ、地形の厳しさにより多くの兵士や馬が力尽き、十字軍はたびたび危機に陥りました。

小アジアを抜けた十字軍は、1097〜98年にかけてシリア北部の要衝アンティオキアを包囲しました。アンティオキア包囲戦は数か月に及ぶ長期戦となり、十字軍側も飢えと病気に悩まされます。内部に協力者を得てようやく城内に突入したものの、その直後には今度は十字軍がイスラーム側の大軍に包囲されるという逆転も起こりました。この窮地のなかで、「聖槍(キリストのわき腹を刺した槍)が発見された」という奇跡譚が広まり、兵士たちの士気を鼓舞したという話も伝えられています。

アンティオキアの戦いを切り抜けた十字軍は、ようやく南へ進んでイェルサレムを目指しました。この時点で、出発時に比べて兵力は大きく減少していましたが、1099年、ついにイェルサレム包囲戦が開始されます。イスラーム側もすでに内紛や勢力分裂で十分な防衛体制を組めておらず、十字軍は数週間の包囲の末に城壁の突破に成功しました。

1099年7月、十字軍はイェルサレムを占領し、多数の住民――ムスリムやユダヤ人を含む――を虐殺したと伝えられます。当時の年代記には、街路に血があふれたという誇張とも思える表現も記されており、これは宗教的勝利を強調する一方で、残酷な現実も反映した報告として受け止められています。この虐殺は、イスラーム世界やユダヤ人にとって長く記憶される傷となり、後世の対立や憎悪感情に影を落としました。

イェルサレムを占領した十字軍は、聖墳墓教会を中心とした支配体制を築き、ゴドフロワ・ド・ブイヨンを「聖墓守護者」として推戴しました。彼は「王」の称号を名乗ることを避けたと言われますが、その死後には弟のボードゥアンがイェルサレム王として即位し、正式な「イェルサレム王国」が成立します。同時に、アンティオキアには公国が、エデッサやトリポリには伯国が創設され、地中海東岸には複数の十字軍国家が並び立つことになりました。

これら十字軍国家は、周囲をイスラーム勢力に囲まれた飛び地的な存在であり、内部の人口もキリスト教徒だけでなく、ギリシア正教徒やアルメニア教徒、ムスリム、ユダヤ人など多様でした。そのため、単純な宗教支配というより、複雑な妥協と共存の中で統治が行われる場面もありました。とはいえ、十字軍国家の成立は、キリスト教勢力が一時的に聖地を実効支配することに成功したという意味で、第1回十字軍の最大の成果とされています。

第1回十字軍の意義と限界

第1回十字軍は、軍事的には「成功した十字軍」としてよく語られます。実際、後の多くの十字軍が目標を達成できなかったのに対し、第1回はイェルサレムの占領と十字軍国家の樹立という目に見える成果を手にしました。この成功は、西ヨーロッパ世界に大きな自信と誇りをもたらし、教皇の権威や「聖戦イデオロギー」を強化することにつながりました。以後も十字軍運動が繰り返される土台は、この最初の成功経験に大きく依存しています。

しかし同時に、第1回十字軍には多くの限界と問題点もありました。まず、参加者の動機が一枚岩でなかったことが挙げられます。聖地への信仰心から参加した者もいれば、領土や戦利品を求める者、借金から逃れたい者などさまざまで、遠征の途中で利害対立や裏切り、略奪が頻発しました。ビザンツ帝国との関係も、当初の協力体制から次第に不信と対立へと傾き、第4回十字軍ではついにコンスタンティノープル攻撃に至る遠因ともなります。

また、第1回十字軍によるイェルサレム占領と虐殺は、宗教的正義を掲げながらも、他者への暴力を正当化してしまう危険をはっきりと示しました。イスラーム側から見れば、十字軍は侵略者であり、深刻な破壊と流血をもたらした存在でした。十字軍国家の成立は、イスラーム世界にとって「奪われた土地」を生み出し、その奪回が後のサラーフッディーンらのジハード(聖戦)意識を刺激することになります。

さらに、第1回十字軍は、西ヨーロッパ社会内部にも矛盾を残しました。遠征のために領地を抵当に入れたり、借金を負ったりした諸侯や騎士も多く、帰還後の財政難や領地争いを引き起こしました。十字軍参加によって没落する貴族もいれば、戦利品や新領地で台頭する者もおり、封建社会の内部構造を揺さぶる要因にもなりました。

それでもなお、第1回十字軍の経験は、ヨーロッパと東方世界との接触を飛躍的に増加させました。イタリアの商業都市は、十字軍の輸送と補給を通じて東方貿易の利権を握り、香辛料や絹、ガラス製品などの舶来品がヨーロッパにもたらされました。こうした経済的・文化的交流は、十字軍が終わったあとも続き、中世末から近世にかけての変化(ルネサンスや大航海時代)への長期的な布石となります。

第1回十字軍という用語を学ぶとき、大事なのは、「聖地奪回の成功」という一面だけでなく、「宗教的熱狂が暴力と結びついた歴史的事例」であること、そして「ヨーロッパとイスラーム世界の関係を決定的に変えた出発点」であったことを併せて意識することです。そこには、中世人の信仰の強さと同時に、人間社会が抱える欲望や恐怖、対立の構図が、十字の印のもとに凝縮されていると言えるでしょう。