十字軍(第2回) – 世界史用語集

 

十字軍(第2回)(だいにかいじゅうじぐん)とは、1147年から1149年ごろにかけて行われた、2度目の大規模な聖地遠征のことです。きっかけは、十字軍国家の一つであったエデッサ伯国がイスラーム勢力によって陥落したことでした。第1回十字軍でようやく築き上げた東方の拠点が失われたという衝撃から、「聖地と兄弟たちを救わねばならない」という危機感が高まり、教皇エウゲニウス3世や、名高い修道院長で説教家でもあったベルナール(クレルヴォーのベルナール)がヨーロッパ中に十字軍参加を呼びかけました。

第2回十字軍は、フランス王ルイ7世やドイツ王コンラート3世といった現役の国王が自ら軍を率いて参加した点で、第1回とは性格がやや異なります。諸侯や騎士団だけでなく、王権が前面に出た「王たちの十字軍」とも言える遠征でした。しかし、結果としてこの十字軍は軍事的には大きな成果を上げることができず、むしろ多くの犠牲と失敗、諸侯・王権・ビザンツ帝国・十字軍国家・イスラーム勢力との複雑な駆け引きだけが残ったと言われます。その意味で、第2回十字軍は「十字軍運動の限界」が早くも露呈した遠征として、世界史のなかで重要な転換点とみなされています。

遠征は、ドイツ軍・フランス軍がそれぞれビザンツ領内を通過して小アジアに入るところまでは第1回と似ていますが、現地での補給や案内をめぐってビザンツ側との対立が生じ、小アジア内部ではセルジューク朝のゲリラ的攻撃や厳しい地形・気候のために兵力を大きく失いました。なんとかシリアに到着した後も、十字軍国家側との作戦協調はうまくいかず、最終的にはダマスクス包囲戦に失敗して、西方軍はほとんど成果を得ないまま撤退することになります。

簡単に言えば、第2回十字軍とは「第1回で築かれた十字軍国家を救うために国王たちが出陣したものの、指導力不足・戦略ミス・同盟関係のもつれによって失敗に終わった遠征」です。この失敗は、十字軍運動に対する熱意と信頼を損ない、イスラーム側の結束と自信を高める結果ともなりました。以下では、第2回十字軍が呼びかけられた背景、編成とルート、現地での戦闘と失敗の要因、そしてその後の十字軍運動・ヨーロッパ・イスラーム世界への影響について、もう少し詳しく見ていきます。

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第2回十字軍が生まれた背景:エデッサ陥落の衝撃

第1回十字軍(1096〜99年)の結果として、地中海東岸には複数の十字軍国家が成立しました。その中でも最も内陸側に位置していたのがエデッサ伯国です。エデッサは現在のトルコ南東部にあたり、ユーフラテス川上流地域の戦略的要衝でしたが、周囲はイスラーム勢力に囲まれており、防衛が難しい飛び地的な領域でもありました。

12世紀前半、イスラーム世界ではセルジューク朝が分裂し、各地に小王朝が乱立してはいたものの、徐々に有力な指導者が台頭し始めます。その一人が、モスル・アレッポなどを拠点に勢力を伸ばしたザンギーでした。ザンギーは、十字軍国家に対抗してイスラーム側の軍事的結集を呼びかけ、1144年、ついにエデッサを攻撃・陥落させます。この事件は、十字軍国家のなかでもっとも脆弱だった部分が崩れたことを意味し、イェルサレム王国やアンティオキア公国にも大きな危機感をもたらしました。

エデッサ陥落の知らせはすぐに西ヨーロッパにも伝わり、聖地を救うべきだという声が高まります。教皇エウゲニウス3世は、正式な十字軍の布告を行い、その布告を広めるためにクレルヴォーのベルナールを説教者として各地に派遣しました。ベルナールは当時ヨーロッパで最も名高い修道院長・神学者の一人であり、その雄弁な説教は多くの騎士や王侯の心を動かしたとされます。

特に重要なのは、フランス王ルイ7世とドイツ王コンラート3世が、共に十字軍参加を宣言したことです。第1回十字軍では諸侯レベルの参加が中心でしたが、第2回では王権自らが十字軍の旗の下に立つことで、「聖地防衛」がヨーロッパ王国の公的な政策として位置づけられました。これは十字軍運動の「国家化」「王家の十字軍化」とも言える変化でしたが、同時に、王自身が遠征に出ることによる国内統治の空白や、諸侯との力関係の変化など、新たな問題も生み出していきます。

この時期のヨーロッパは、すでに第1回十字軍の記憶と成功体験を共有しており、「再び神の助けによって聖地を救える」という期待もあれば、「一度築いた拠点を守るのは前より難しい」という不安もありました。そのなかで、第2回十字軍は「防衛・救援の十字軍」として企画され、宗教的熱意と政治的計算の両方を背負って出発することになります。

王たちの十字軍:編成と行軍の過程

第2回十字軍の中心は、ドイツ軍とフランス軍という二つの大部隊でした。ドイツ王コンラート3世は、神聖ローマ帝国の君主として多くの諸侯・騎士を従え、東方へ向けて出発しました。一方、フランス王ルイ7世も、妻アリエノール・ダキテーヌや多数の貴族とともに大軍を率いて遠征に参加しました。こうして、「王自身が十字軍を率いる」という点で、第1回よりも華々しい顔ぶれがそろったようにも見えます。

しかし、実際の行軍は順調ではありませんでした。両軍は基本的に別ルートで進み、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを目指しましたが、その道中で補給や秩序維持に苦労します。特にドイツ軍はハンガリーやバルカン半島を通過する際に現地住民との緊張を高め、略奪や衝突が発生することもありました。ビザンツ側からすれば、十字軍は頼もしい味方であると同時に、制御の難しい危険な大軍でもあったのです。

コンスタンティノープル到着後、ビザンツ皇帝マヌエル1世は、第1回十字軍の経験から、十字軍を完全には信用していませんでした。彼は十字軍が自国領を通って小アジアへ進むことを認めつつも、その行動を厳しく監視し、自国の利益に反しないように細心の注意を払いました。十字軍側も、ビザンツがイスラーム勢力と密約を結んでいるのではないかと疑い、不信感を募らせます。

小アジアに入ったドイツ軍は、厳しい山岳地帯とセルジューク朝のヒット・アンド・アウェイ戦術に苦しめられました。1147年のドリュラエウム近郊での戦いでは、補給線を断たれ、疲弊したドイツ軍が大打撃を受け、多くの兵士を失います。コンラート3世自身も負傷し、残った兵を連れてかろうじて後退するという有様でした。

フランス軍も、同じく小アジアでの行軍に苦しみます。冬季の悪天候や山地での迷走、敵の奇襲などが重なり、兵力は大きく減少しました。ルイ7世は自らの軍事的経験の不足を痛感させられ、多くの騎士や従者を失いつつ、ようやくアンティオキアやイェルサレム方面へとたどり着きました。こうして、第2回十字軍の主力は、現地に到着する前からすでに大きく消耗していたのです。

ダマスクス包囲戦と十字軍失敗の要因

苦難の行軍を経て、ようやくシリア・パレスチナ地域に到着した第2回十字軍は、次の戦略目標をめぐって意見の一致を欠きました。もともとの目的はエデッサ伯国の奪回でしたが、そのためには内陸深く攻め込む必要があり、兵力を大きく消耗した十字軍にとってリスクが高すぎると考えられました。一方、イェルサレム王国などの現地の十字軍国家は、「近くにある強力なムスリム勢力を抑えることが安全保障上重要だ」と主張し、最終的にシリアの都市ダマスクスを攻撃目標とする方針が採用されます。

ダマスクスは、交易と灌漑に恵まれた豊かな都市であり、その支配は軍事的にも経済的にも大きな意味を持っていました。しかし、政治状況は単純ではありませんでした。当時、ダマスクスの支配者は、北のザンギー後継勢力とは対立関係にあり、場合によっては十字軍国家と一時的な同盟関係を結ぶこともありました。つまり、十字軍側から見ても、ダマスクスは必ずしも「絶対的な敵」とは言い切れない微妙な存在だったのです。

それでも、第2回十字軍の指導者たちは、何らかの目に見える成果を挙げる必要に迫られていました。そこで1148年、ルイ7世やコンラート3世、イェルサレム王国の王や諸侯が参加する会議の結果、ダマスクス攻撃が決定され、十字軍軍勢はダマスクス近郊に集結しました。当初、十字軍は都市の西側から攻撃を開始し、果樹園や水路を利用しながら前進しましたが、数日のうちに激しい反撃に遭い、補給や防衛の面で不利な状況に追い込まれます。

状況が悪化するなかで、十字軍の指導者たちは攻撃正面を東側に移す決定を下しましたが、これはかえって防御に有利な場所を敵に明け渡す結果となり、戦況をさらに悪くしました。イスラーム側も、周辺諸勢力から援軍を集めて防衛を固め、十字軍は短期間のうちに多くの死傷者を出し、「これ以上の攻撃は危険だ」と判断せざるをえなくなります。

最終的に、第2回十字軍はわずか数日の包囲ののち、ダマスクスからの撤退を決めました。この突然の撤退は、多くの兵士や現地住民に衝撃と失望を与え、「神の加護はどこへ行ったのか」「指導者たちは何をしているのか」という批判を生み出しました。十字軍内部では指揮官どうしの責任のなすり合いが始まり、現地の十字軍国家と西方からの軍勢とのあいだの信頼関係も大きく損なわれます。

第2回十字軍の失敗には、いくつかの要因が指摘されています。第一に、戦略目標の不明確さと指導部の迷走です。エデッサ奪回という当初の目的から逸れ、ダマスクス攻撃という政治的にも軍事的にも微妙な選択をしたことが、決定的な成果を得られなかった一因でした。第二に、ビザンツ帝国との不信と協力体制の欠如、小アジアでの補給・情報不足が、遠征そのものを疲弊させました。第三に、イスラーム側がザンギーやその息子ヌールッディーンらのもとで徐々に結束を強め、十字軍側に対抗する力をつけていたことも重要です。

こうして第2回十字軍は、イェルサレム王国を含む十字軍国家を短期的に救うことに失敗し、西ヨーロッパに挫折と混乱の印象を残して終わりました。

第2回十字軍の影響と歴史的意義

第2回十字軍の最大の特徴は、「大国王が参加したにもかかわらず、ほとんど成果を挙げられなかった」という点です。ルイ7世やコンラート3世にとって、東方遠征は国内政治にも大きなリスクを伴う賭けでしたが、その見返りとなる軍事的成功は得られませんでした。この失敗は、王権の威信や教皇の権威にも少なからぬ傷を残しました。

十字軍を熱心に説いたクレルヴォーのベルナールは、自らの説教の結果がこのような形になったことに深く苦悩したと言われます。彼は失敗の原因を、人々の罪や信仰の弱さに求め、「神が罰として試練を与えたのだ」と解釈しようとしましたが、ヨーロッパ社会全体においては、「十字軍に参加すれば必ず神が勝利を与えてくれる」という単純な確信は揺らぎ始めました。

一方、イスラーム側から見ると、第2回十字軍の失敗は、西方からの十字軍が必ずしも無敵ではないことを示し、ジハード(聖戦)意識と自信を高める結果となりました。ザンギーの後継者ヌールッディーン、そしてその後に登場するサラーフッディーン(サラディン)らは、十字軍に対抗するイスラーム勢力の結集を進め、やがて12世紀後半のイェルサレム再征服へとつながっていきます。その意味で、第2回十字軍は、後の第3回十字軍でサラーフッディーンとリチャード1世が対峙する展開の伏線ともなりました。

また、第2回十字軍の時期、ヨーロッパでは東方遠征と並行して、イベリア半島のレコンキスタや東欧・バルト地域への「北方十字軍」的な運動も進行していました。第2回十字軍の失敗は、聖地遠征への熱意を一部冷ます一方で、十字軍的な発想を他の戦線に振り向けるきっかけにもなり、十字軍運動の地理的拡散に影響を与えたと見ることもできます。

さらに、政治・外交の観点から見ると、第2回十字軍は、ビザンツ帝国と西ヨーロッパ諸国の関係をめぐる不信感を深めました。ビザンツ側は、「西方の大軍は制御が難しく、帝国にとって必ずしも利益とは限らない」と感じ、西方は「ビザンツは信用できない」と考えるようになります。この相互不信は、1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノープル占領という悲劇的な事件の遠因ともなりました。

経済面や文化面では、第1回ほど派手な効果は見えにくいものの、第2回十字軍もまた人・物資・情報の移動を促し、地中海世界のネットワークを刺激しました。イタリア商人たちは、十字軍の輸送・補給に関わり、東方貿易のルートをさらに拡張していきます。こうした積み重ねが、中世末から近世にかけての経済的な変化の一部を支えました。

総じて、第2回十字軍は「成功した十字軍」とは言いがたいものの、逆にその失敗ゆえに、十字軍運動の現実的な限界や、宗教的理念と政治・戦略のギャップを鋭く浮かび上がらせました。第1回の華々しい成功と対照させることで、第2回十字軍を学ぶことは、「信仰の名のもとに行われる戦争」が抱えがちな問題点――目標のあいまいさ、同盟関係のもろさ、現地の複雑な事情への無理解など――を考える手がかりとなります。

「十字軍(第2回)」という用語は、単に年号と結果だけを暗記する対象ではなく、第1回と第3回のあいだで揺れ動く十字軍運動の姿と、中世ヨーロッパ・ビザンツ・イスラーム世界の微妙なバランスを映し出す鏡として理解すると、その歴史的意味がより立体的に見えてきます。