ウァレリアヌス – 世界史用語集

ウァレリアヌス(Publius Licinius Valerianus, 在位253–260年)は、いわゆる「3世紀の危機」のただなかで帝位に就き、サーサーン朝ペルシアの王シャープール1世との戦争で敗れて捕虜となった、ローマ史上唯一の「生ける皇帝の捕囚」として知られる人物です。彼の治世は、絶え間ない外敵の侵入、帝国内の反乱と簒奪、疫病と貨幣価値の下落に揺さぶられました。ウァレリアヌスは息子ガッリエヌスとの共同統治で危機に対処し、帝国を西と東に分担して迅速な軍事対応を試みましたが、260年のエデッサ(エデッサ/現在のシャンルウルファ周辺)での敗北と自らの捕囚によって、その構想は挫折します。キリスト教徒への弾圧布告(257・258年)を発した点、地方司令権の強化や要塞線の再整備など、統治面での努力が見られる一方、彼の末路は帝権の神威とローマの無敗神話を損ない、以後の分離政権(西方のガリア帝国、東方のパルミラ勢力)の台頭を促す象徴的事件となりました。本稿では、即位の背景、統治の課題と政策、対外戦争と捕囚、そして影響と史料の問題を整理します。

スポンサーリンク

即位の背景:3世紀の危機と共同統治の模索

3世紀半ばのローマ帝国は、複合的な危機に直面していました。北方ではゴート系やフランク系の移動と侵入が活発化し、ドナウ・ライン両方面での防衛戦が常態化していました。東方ではアルダシール1世に始まるサーサーン朝が、かつてのアルサケス朝パルティアに代わって強勢となり、ローマ領シリア・メソポタミアに圧力をかけていました。加えて、帝位は軍団の支持を背景とする短命皇帝が相次ぎ、内戦と簒奪が政権の安定を脅かしていました。疫病(いわゆるキュプリアヌスの疫病)と貨幣の継続的な品位低下も、人口・財政・軍事の基盤を弱めます。

こうした状況の中、上級貴族出身で軍歴と行政経験を持つウァレリアヌスは、253年、先帝トレボニアヌス・ガッルスとその子ウァレリアヌス(同名)を討ったアイミリアヌスに対抗して軍団に推戴され、最終的に元老院の承認を得て皇帝に即位しました。彼は直ちに息子ガッリエヌスを共同皇帝(アウグストゥス)に指名し、西方戦線をガッリエヌス、東方戦線を自らが担当する体制を敷きます。これは、広大な国境線上で同時多発的に起こる危機に対処するための合理的な分権戦略でした。

ウァレリアヌスは、前任の皇帝たちが残した軍の不統一と財政難に直面しました。各地で自立化しがちな司令官や国境部隊(リミタネイ)を再編成し、補給線と軍団移動の機動性を確保するため、道路・橋梁・要塞の維持に注力しました。貨幣政策では、戦費調達のための鋳造拡大が続き、アントニニアヌス銀貨の品位はさらに低下しますが、これは当時の皇帝にとってほとんど回避不能の構造的対応でした。沿岸防備では、黒海・エーゲ海・東地中海の海賊化に対抗するため、艦隊運用を補正し、港湾の防御を強化しました。

統治と内政:宗教政策、軍制、地方支配の再編

宗教政策で特筆されるのは、257年と翌258年に出されたキリスト教徒弾圧布告です。第一の布告では、司教・司祭・助祭の公的集会や礼拝所を禁止し、供犠を拒む者を処罰対象としました。第二の布告はさらに踏み込み、聖職者の死刑、上層信徒(騎士身分・元老院身分)の財産没収と流刑、宮廷官人・軍人の資格剥奪など、社会的制裁を伴う広汎な措置を規定しました。これは、国家の安全と災厄の収束を伝統宗教の復興と連動させる発想に基づき、また帝国全体の一体性を儀礼的に確認する狙いも持っていました。ただし、迫害の実態は地域差が大きく、現地総督の裁量や軍事状況に左右されました。ウァレリアヌスの捕囚後、この政策は息子ガッリエヌスにより停止され、一定の寛容(いわゆるガッリエヌスの勅令)が実現します。

軍制では、地方司令官(レガトゥス)と属州総督の兼務を調整し、機動部隊の創設・強化に取り組みました。帝国の東西分担統治は、後のディオクレティアヌスの四分統治に連なる先例として評価されます。すなわち、単一の皇帝が全戦線を直接指揮する時代は終わり、準拠点を複数設けて迅速に現地対応を行う構想が、3世紀の危機の中で必然的に採用されたのです。地方支配では、都市評議会(キュリア)の疲弊に配慮しつつも、徴税と兵站負担の再分配が図られ、国境近くの要地には軍団の駐留と倉庫・工房(ファブリカ)の併設が推進されました。

対西方に関しては、ガッリエヌスのもとでライン方面の防衛が進められ、アルプス以北の諸部族に対する牽制と、ラエティア・ガリア・ゲルマニアの要塞線の補修が行われました。しかし、帝権の重圧と戦局の変化は、やがて西方の軍司令官ポストゥムスの独立(260年頃、いわゆる「ガリア帝国」成立)へとつながります。この分離は、ウァレリアヌスの捕囚と時期を同じくし、帝国の統合にとって重大な打撃となりました。

対外戦争と捕囚:エデッサの敗北とそののち

東方戦線では、サーサーン朝のシャープール1世が積極攻勢に出ていました。251年のバルバルスの乱戦や前後の混乱を経て、シャープールはメソポタミアの要衝ニシビスやシリア方面の都市を圧迫し、アンティオキアまで達する深い侵攻を敢行します。ウァレリアヌスは255年以降、繰り返し東方に兵を進め、259–260年にかけて大規模な遠征を実施しました。目的は、エデッサ近辺で敵の機動を止め、失地を回復することでした。

しかし、運は味方しませんでした。ローマ軍は疫病と補給難に苦しみ、士気の低下と指揮系統の混乱に見舞われます。エデッサの会戦では、ローマ軍は決定的打撃を与えられず、交渉に活路を求めましたが、結果としてウァレリアヌス自身が敵方の手に落ちます。260年、現地での停戦交渉の場で彼が拘束された経緯は、史料によって細部が異なりますが、いずれにせよローマ皇帝として前例のない「生捕り」という帰結に至りました。

その後のウァレリアヌスの運命については、悪名高い逸話が伝わります。例えば、シャープールに足台として辱められ、最期は皮を剥がれて遺体が晒された、といった伝聞です。しかし、これらは反ペルシア的な宣伝の色彩が濃く、信憑性には疑義があります。確実なのは、ペルセポリス近郊ナクシェ・ロスタムやビシャープールの岩刻に、シャープールがローマ皇帝を屈服させた場面を誇示していること、そしてウァレリアヌスが帝国に戻ることなく異郷で生涯を閉じたことです。ローマ側では、捕囚の事実を覆い隠すことは不可能であり、帝権の神的オーラに深い亀裂が入ることになりました。

皇帝不在となった東方では、パルミラの有力者オダイナトゥスが対サーサーン戦の主導権を握り、ローマの「正統」への忠誠を掲げつつ、半ば自立的な防衛体制を築きます。これは後のゼノビア女王の台頭へとつながる流れであり、帝国の周縁における権限委譲と自立化の典型例でした。西方では、ポストゥムスのガリア帝国が独自の造幣と防衛を展開し、中心政府はガッリエヌスのもとで収拾に奔走します。

影響と史料:帝権の威信、危機の深化、そして再編への前奏

ウァレリアヌスの捕囚は、象徴的・実質的に大きな影響を及ぼしました。象徴面では、皇帝が神々の寵愛と勝利の保証人であるというローマの政治宗教的前提が揺らぎ、軍団・都市・地方エリートの忠誠の糸が緩みました。実質面では、東西で分離政権が生まれ、税・補給・徴兵の機構が分裂気味に作動するようになります。これは、後の皇帝アウレリアヌス(在位270–275)が再統合を進めるまで、帝国の持久力を大きく損ねました。

他方で、ウァレリアヌスとガッリエヌスが試みた統治の分担、機動的な軍制、地方司令権の強化は、帝国の生き延びるための現実解でもありました。4世紀末までに完成する「専制ローマ(ドミナートゥス)」の軍政的・財政的骨格(常備化した騎兵部隊、可動野戦軍コメタテンセスと国境守備軍リミタネイの二重構造、造幣の統制強化、官僚制の拡充)は、3世紀の試行錯誤から学ばれたものです。ウァレリアヌスの治世は、その痛みを伴う学習過程の一環として位置づけられます。

史料面では、彼に関する情報は断片的で、プロパガンダや後世の編纂物(『ヒストリア・アウグスタ』など)の信頼性が問題になります。硬貨(肖像・称号・スローガン)、碑文、パピルス文書、東方の岩刻史料など、異質な証拠を相互に照合する作業が不可欠です。例えば、貨幣の銘文に見える「ピエタス・アウグストルム(皇帝の敬虔)」や「レストゥトール・オリエンティス(東方の再建者)」といった語は、政策意図と宣伝の双方を映し出します。シャープールの岩刻は勝利の誇張を含みますが、ローマ側史料の沈黙や屈辱表現もまた、敗北の心理を増幅しています。複数の声を突き合わせることで、ウァレリアヌスの実像に近づくことができます。

総括すると、ウァレリアヌスは、帝国的規模の複合危機に対し、共同統治と前線分担という構想で挑み、部分的な制度改革を進めた実務型の皇帝でした。しかし、サーサーン朝との戦争での捕囚という未曾有の挫折は、その構想を中断させ、帝権の神話を崩し、周縁の自立と内部分裂を促す結果を生みました。彼の治世は、ローマ帝国が「古典古代的安定」から「後期古代の再編」へと移行する過程の裂け目に位置しています。屈辱の記憶とともに、危機対応の制度的学習が刻まれた点に、ウァレリアヌスをめぐる歴史の重みがあるのです。