「協商国(きょうしょうこく)」は、第一次世界大戦(1914–1918年)でドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー・オスマン帝国・ブルガリアなどの同盟国(中央同盟国)に対抗した側の総称で、英語では the Allies、一般的な日本語では「連合国」とも呼ばれます。端的に言えば、英・仏・露を核に、のちに伊・日・米・諸小国が結びついた巨大な戦時同盟体であり、世界帝国の植民地・自治領も動員して総力戦を戦い抜いた陣営です。名称の「協商」は、英仏協商・英露協商という前史から来ており、硬い軍事同盟というより、段階的に結び目を増やした外交関係の延長上に戦時同盟が成立した点が特徴です。以下では、成立の背景と構造、参戦国と戦線、戦時外交と経済、勝利と講和、そして語の使い分けと歴史的意義を、わかりやすく整理します。
成立の背景――三国協商の形成から「協商国」へ
19世紀末から20世紀初頭、欧州は列強の同盟網が複雑に絡む「均衡の時代」にありました。ドイツを軸とする三国同盟(独・墺・伊)に対して、フランスは孤立を脱するため露仏同盟(1892)を結び、イギリスは英仏協商(1904)、英露協商(1907)を通じて植民地紛争の調整と政治的接近を進めました。これらの「協商(Entente)」の束が、総称として「三国協商(英・仏・露)」と呼ばれます。厳密な相互防衛条約ではなく、懸案整理と政治協力の合意の積み上げだったため、開戦とともに各国は改めて軍事協力を具体化させました。
1914年6月のサラエヴォ事件とオーストリア=ハンガリーの対セルビア最後通牒をきっかけに、ドイツの「シュリーフェン計画」に従う対仏攻勢、露の動員、英の対独宣戦(ベルギー中立侵犯を理由)と連鎖し、欧州大戦は世界大戦へ拡大しました。この時点での「協商国」の核は、イギリス・フランス・ロシアの三国でしたが、戦争が長期化するにつれて、イタリア(1915)、日本(1914)、ルーマニア(1916)、ポルトガル(1916)、ギリシア(1917)、アメリカ合衆国(1917)などが加わり、帝国の自治領・植民地(カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、インド、北アフリカ・西アフリカ諸地域など)も広範に動員されました。
参戦国と戦線――欧州の塹壕から世界の海へ
協商国の中心はイギリス・フランス・ロシアで、各国は異なる強みと弱みを持っていました。フランスは西部戦線の主戦場として莫大な人的・物的負担を背負い、イギリスは海軍力・金融・産業と自治領動員で連合の背骨を支えました。ロシアは東部戦線で独墺軍を拘束し、戦争初期の消耗を分散させましたが、国内の社会・政治危機が深まり、1917年の二月革命・十月革命を経て単独講和(ブレスト=リトフスク条約)に至ります。
イタリアは三国同盟から離脱して協商側で参戦(1915年ロンドン秘密条約)し、アルプスからイゾンツォ川流域でオーストリア=ハンガリーと激戦を交えました。日本は日英同盟に基づき参戦(1914)し、山東半島のドイツ権益や南洋群島の拠点を占領、アジア・太平洋でのシーレーン防護と通商輸送で貢献しました。アメリカは潜水艦無差別攻撃とツィンメルマン電報事件などを背景に1917年に参戦し、1918年の米軍本格投入が西部戦線の均衡を崩す決定的要因となりました。バルカン戦線ではセルビア、のちにギリシア・ルーマニアが協商に連なる一方、オスマン帝国の参戦によってガリポリ作戦、中東戦線(メソポタミア、パレスチナ、アラビア)も併走しました。
海上では、イギリス海軍の封鎖がドイツ経済と補給を圧迫し、ドイツは潜水艦(Uボート)戦で対抗しました。経済封鎖と輸送船団方式、対潜戦術の発展は、総力戦の「物流の戦い」を象徴します。協商側はまた、資金・食料・原材料の国際調達網を構築し、民間経済と軍需生産を統合する統制経済へ踏み込みました。
戦時外交と理念――秘密条約、民族自決、そして帝国の論理
協商国の戦時外交は、現実主義と理念の綱引きでした。領土・勢力圏をめぐる秘密合意としては、イタリアを引き込むロンドン秘密条約(1915)、オスマン分割を想定したサイクス=ピコ協定(1916)、ロシアの海峡要求、連合側の戦後清算に関する数々の覚書が存在しました。他方、戦争後期にはウィルソン米大統領の「十四か条」が掲げられ、秘密外交の否定、海の自由、民族自決の原則が宣言されます。イギリスはバルフォア宣言(1917)でユダヤ人の民族的郷土建設支持を表明しつつ、アラブの独立を支援するフサイン=マクマホン書簡と相矛盾するメッセージを出し、中東の将来に複雑な伏線を残しました。
日本は中国の山東権益や南洋委任統治を念頭に二十一か条要求(1915)や段階的な外交交渉を進め、帝国日本の国益追求と協商陣営の戦時利害が交錯しました。ロシアの離脱後、協商側は東部戦線の空白を補うため物資援助と干渉の議論を行い、1918–22年にはシベリア出兵など複雑な局面も生まれます。協商国は必ずしも一枚岩ではなく、戦争目的・植民地再編・経済協力の分配をめぐって多層の利害調整を続けました。
戦争経済と社会――動員、統制、総力戦の代償
協商陣営の勝利は、兵力・海軍力に加え、資源・工業力・金融の優位によって支えられました。イギリスはロンドン市場とポンド建ての金融ネットワークを梃子に、連合全体の支払いを回し、アメリカの参戦後はドル資金と生産力が連合の「最後の背骨」となります。価格統制・配給・労働力の再配置(女性労働・植民地兵士・捕虜労働の動員)、国債と税制の拡充、宣伝・検閲の制度化が各国で進み、国家と社会の関係が「戦時国家」型へと再編されました。
一方で、犠牲は巨大でした。塹壕戦は前線の消耗を極限化させ、スペイン・インフルエンザの世界的流行が兵士と民間人を襲いました。植民地・自治領からの動員は、帝国の内部秩序を揺さぶり、戦後の民族運動・独立運動の高揚を促します。協商国は勝利者でありながら、社会の分断、インフレ、失業、復員兵問題、女性参政権の拡大や労働運動の再編など、戦後課題に直面することになりました。
勝利と講和――パリ講和会議と国際秩序の再設計
1918年秋、協商国は一連の攻勢(百日攻勢)でドイツ軍を押し返し、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・オスマン・ブルガリアが相次いで休戦に応じました。1919年のパリ講和会議では、協商国(とくに米・英・仏、いわゆる「三巨頭」)が中心となって新秩序の設計を進め、ヴェルサイユ条約がドイツとの講和、サン=ジェルマン、トリアノン、ヌイイ、セーヴル条約がオーストリア、ハンガリー、ブルガリア、オスマンとの講和を定めました。国際連盟の創設、集団安全保障、委任統治制度(かつての独・オスマン領の再配分)、賠償と軍備制限などが柱となり、協商国の勝利は制度に刻まれました。
ただし、民族自決は選択的に適用され、敗戦国・少数民族・植民地にとっては不十分・矛盾に満ちたものでもありました。ドイツの「戦争責任条項」と重い賠償は国内の不満を醸成し、オーストリア=ハンガリー帝国の解体は中欧・東欧に複雑で脆弱な新国境を生みました。中東の委任統治はユダヤ人・アラブ人・欧州列強の利害を絡ませ、のちの紛争の火種となります。協商国の勝利は、同時に「未解決の遺産」を次の時代へ残したのです。
語の使い分け――「協商国」と「連合国(第二次大戦)」
日本語の「協商国」は、とくに第一次世界大戦期の英・仏・露(およびその同盟者)を指す歴史用語として用いられます。これに対して、第二次世界大戦で枢軸国に対抗した陣営は一般に「連合国」と呼ばれ、国連の前身である「連合国共同宣言(1942)」に由来する法的意味を帯びます。英語はいずれも Allies ですが、第一次大戦を語る際に「協商国」という字面を使うのは、Entente(協商)に由来する史的ニュアンスを明確にするためです。したがって、文脈によって同じ「連合国」という訳でも指している陣営が異なることに注意が必要です。
評価と意義――「勝者の秩序」とその限界
協商国の連携は、海軍・金融・工業力・植民地動員の総合力で同盟国を上回り、最終的な勝利を得ました。その結果としてのパリ講和体制と国際連盟は、集団安全保障と国際協調の理念を制度化する第一歩であり、外交の舞台を「帝国間の密約」から「公開された国際会議と常設機関」へと広げました。他方、戦争責任の固定化、賠償・国境画定・委任統治をめぐる不均衡は、敗戦国の不満と修正主義、帝国周辺の民族運動を刺激し、第二次大戦への道筋の一部を形づくります。協商国の歴史は、勝利の政治が抱える倫理的・制度的限界を学ぶ素材でもあります。
日本との関わり――参戦、戦後処理、国際秩序への参加
日本は日英同盟に基づいて参戦し、青島攻略と山東半島の独逸権益継承、南洋群島の占領・委任統治(戦後)という形でアジア太平洋における立場を拡大しました。パリ講和会議では「人種的差別撤廃提案」を掲げ、国際連盟規約に盛り込むことを目指しましたが、多数を得ながらも全会一致の原則に阻まれて採択に至りませんでした。戦後、日本は国際連盟の常任理事国となり、ワシントン体制の下で海軍軍縮・太平洋の現状維持を受け入れます。協商陣営での経験は、国際協調と帝国的利益追求のあいだで揺れる日本外交の出発点の一つになりました。
まとめ――「協商」という名の連合の実像
協商国は、固定的な軍事同盟から出発したのではなく、英仏・英露の協商という緩い接近が、危機の中で多国間の戦時同盟へと進化したケースでした。参戦国の顔ぶれは多様で、帝国の中心と周縁、欧州と非欧州、海と陸が複雑に絡み合いました。勝利は新しい国際制度を生み、同時に多くの矛盾を残しました。「協商国(連合国)」という用語を理解することは、20世紀前半の秩序形成とその破綻、そして国際政治における力と理念の相克をつかむための手がかりになります。名前の背後にあった〈協議と調整の積み重ね〉、そして総力戦を支えた〈社会と経済の動員〉に目を向けると、教科書の一行で済まない立体的な歴史像が立ち上がってくるはずです。

