オーストリア・ハンガリー帝国の解体とは、第一次世界大戦末から戦後講和にかけて、ハプスブルク家の二重帝国が連続的に政治的求心力を失い、各地の民族評議会・国民会議が相次いで独立を宣言し、最終的に一連の講和条約によって新たな国境と主権体系が確定していく過程を指します。1918年の軍事的敗北と食糧危機、戦時動員による社会疲弊、民族自決の思想の浸透、同盟国の崩壊と国内革命が同時多発的に重なり、帝国は国家としての運転を継続できなくなりました。翌1919年のサン=ジェルマン条約、1920年のトリアノン条約などで後継国家の版図と法的地位が明確化し、ウィーンを中心とする小国家オーストリアと、領土を大きく削られたハンガリーに分かれ、ボヘミア・モラヴィア・スロヴァキア・ルテニアからなるチェコスロヴァキア、南スラヴの統合国家(のちのユーゴスラヴィア)、ポーランド、ルーマニア拡大領などが出現しました。解体は単なる地図の描き直しではなく、鉄道・関税・通貨・市民権・少数民族の権利・宗教・教育といった日常の制度を根底から組み替える出来事でした。以下では、(1)崩壊の前提条件、(2)1918年の連鎖と国家の瓦解、(3)講和・国境再編と後継国家、(4)社会経済と記憶の持続、という観点で整理します。
崩壊の前提条件――構造的脆弱さと総力戦の圧力
二重帝国は、1867年の妥協(アウスグライヒ)によって、オーストリア(シスライタニエン)とハンガリー(トランスライタニエン)が内政を分担し、外交・軍事・共通財政だけを共有するという巧妙な構造を採用しました。これは、ドイツ系とマジャル系の妥協の産物であり、チェコや南スラヴ、ルーマニア、ポーランド、ルテニア、イタリア系など他の民族集団の代表性を後景に置きがちでした。帝国議会と地方議会は機能していましたが、選挙制度・言語使用・自治の配分をめぐる政治は恒常的な摩擦を孕み、制度の「硬さ」は改革のスピードを鈍らせました。
経済面では、鉄道網と工業地区(ボヘミアの機械・化学、シレジアの鉱工業、ガリツィアの石油、シュタイアーマルクの製鉄、ブダペスト周辺の食品・機械)が帝国の相互依存を高めていましたが、農村の貧困と地域格差も根強く、都市部の住宅難・公衆衛生・労働条件は社会主義運動とキリスト教社会運動を活性化させました。多民族・多宗教(カトリック、正教、プロテスタント、ユダヤ教)のモザイク社会は、法廷・学校・役所での言語秩序の調停を常に必要としていました。
第一次世界大戦は、こうした脆弱性を一挙に露わにしました。戦局の長期化と包囲、海上封鎖による資源・食糧の欠乏、男性労働力の大量動員による生産低下、インフレと配給の混乱、都市のパン暴動、民族間の疑心と監視の強化――総力戦の圧力は、二重帝国の共同統治メカニズムに過負荷をかけました。1916年にフランツ・ヨーゼフ1世が没し、カール1世が即位して改革と早期講和を模索しましたが、ドイツとの同盟構造、軍の威信、官僚制の慣性、連合国の厳しい条件が、方針転換の余地を狭めました。
1918年の連鎖――軍事的崩壊、革命、民族評議会の独立
1918年は、内外の「壊れる音」が重なった年でした。春季攻勢の挫折と夏以降の連合軍の反攻、イタリア戦線のピアーヴェ川正面での膠着、秋のヴィットリオ・ヴェネトの敗北は、戦争継続の前提を吹き飛ばしました。物流は行き詰まり、鉄道は石炭欠乏で停止しがちになり、軍は脱走と反乱に悩まされます。スペインかぜの流行は兵站と医療を直撃し、戦時社会の疲弊は限界に達しました。
政治の側では、民族評議会・国民会議の結成が雪崩を打ちます。10月28日、プラハでチェコスロヴァキアの独立が宣言され、10月29日にはザグレブの「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人国民会議」がハプスブルクからの離脱を決定しました。ガリツィアではポーランド民族評議会が実権を掌握し、ルテニア人(ウクライナ人)の代表はリヴィウを中心に西ウクライナ人民共和国を構想します。トランシルヴァニアではルーマニア人の民族会議がブカレストと歩調を合わせて併合を志向しました。
ウィーンでは10月下旬から国民国家構想(ドイツ系地域の「ドイツ=オーストリア」)が進み、11月11日、カール1世は「国家の政務への関与停止」を表明して事実上退位しました。帝都は食糧危機と失業に揺れながら、社会民主党・人民党などの連立で暫定政府を組み、共和政への移行準備を進めます。ブダペストでは、10月末の「菊花革命」でカーロイイ政権が発足し、11月16日にハンガリー人民共和国の成立を宣言しました。だが、領土紛争と占領の進行、国内の左右対立の先鋭化は、翌1919年のハンガリー評議会共和国の短命政権とルーマニア軍の進駐へとつながります。
軍事的には、イタリア戦線での崩壊が全体を決定づけました。10月末にかけてオーストリア=ハンガリー軍は前線を維持できず、各民族部隊は帰郷の途につき、兵站と指揮は瓦解します。11月3日のパドヴァ停戦(ヴィッラ・ジュスティ)によってイタリアとの戦闘は停止しましたが、その時点で帝国は実質的に国家としての形を失っていました。こうして、政治単位としての二重帝国は、停戦よりも早く内側から解体していったのです。
講和・国境再編と後継国家――サン=ジェルマン、トリアノンの線引き
戦後処理は、連合国の講和会議と各国条約で法的に確定しました。1919年のサン=ジェルマン条約は、オーストリアに対して旧帝国の継承国の一つとしての地位を認める一方、ドイツとの合併(アンシュルス)禁止、軍備制限、少数民族保護、賠償などを規定し、国境は大幅に縮小されました。南チロル(チロル南部)とトレンティーノ、トリエステ、市街と港湾を含むイストリアの多く、ダルマチアの一部はイタリアへ、ボヘミア・モラヴィアはチェコスロヴァキアへ、ガリツィアはポーランドへ、ブコヴィナはルーマニアへ移りました。ハンガリー側については、1920年のトリアノン条約が国境を画定し、トランシルヴァニアとバナトの多くがルーマニアへ、スロヴァキアとルテニア(カルパティア・ルテニア)がチェコスロヴァキアへ、クロアチア=スラヴォニアやバチュカ・バナトの一部が新生南スラヴ王国(のちユーゴスラヴィア)へ編入されました。ハンガリーは領土・人口ともに約3分の2を失い、強烈な喪失の政治文化(トリアノン・トラウマ)を形成します。
後継国家の内部でも、国境確定は連続的な交渉でした。オーストリアとハンガリーの間では、民族混在と経済機能の連続性をめぐる協議の末、1921年にブルゲンラント(ショプロン周辺を除く)がオーストリアに編入され、ショプロン市では住民投票の結果、ハンガリー残留が決定しました。チェコスロヴァキアはボヘミアの工業地帯とスロヴァキア・ルテニアの農村を抱える複合国家として出発し、憲法に少数民族権利条項を盛り込みました。南スラヴ王国は、セルビア、クロアチア、スロヴェニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ダルマチア、ヴォイヴォディナなどを統合しましたが、王権と自治、ラテン・正教・カトリックの宗教線、言語・文字の差異が政治構造に長い影を落としました。ポーランドは東西に広がる領域を得た一方で、東境界(キエフ・リヴィウ周辺)をめぐる戦争と講和(リガ条約)を経て、複雑な民族構成を抱えました。ルーマニアは「大ルーマニア」と呼ばれる最大版図に達し、トランシルヴァニアの多民族社会を統治する新しい言語・教育政策が必要になりました。
講和条約は、領土の線引きだけでなく、賠償、軍備制限、河川航行、鉄道通過権、経済協定、少数民族保護、戦犯の訴追など、生活に直結する条項を多数含みました。これらは、人口移動・国籍選択・財産権・通貨交換・関税体系の再設計を伴い、国境地域の家庭や企業の毎日に直接の影響を与えました。帝国時代の法典や官僚制は多くが継承されましたが、言語と象徴の切り替え、行政境界の再編、学校制度の国民化は、教育・司法・医療の現場で膨大な調整を要しました。
社会経済の後遺症と記憶の持続――断片化の現実と「見えない帝国」
解体の直後、ドナウ・バルト間の経済は深刻な断片化に直面しました。帝国時代の関税同盟と単一市場が消滅し、鉄道は国境検問と関税・通行規則に縛られ、運賃と所要時間は増大しました。電力・石炭・穀物・家畜の域内循環が滞り、通貨の分裂とインフレが生活を直撃します。都市の食糧・燃料不足は長く尾を引き、住宅市場は戦災と移民・疎開の歪みを抱えました。ユダヤ人やドイツ系、マジャル系、ルーマニア系、ポーランド系、ウクライナ系などが他国の「少数者」となり、学校と言語、土地と職の配分、地方自治の単位をめぐる抗争が続きます。一方、社会政策の面では、ウィーンの社会住宅、公共交通、衛生と医療、労働保護といった帝国末の制度的蓄積が、後継国家で形を変えて活かされ、大学・アカデミー・病院・劇場・オーケストラといった文化インフラも越境ネットワークとして生き残りました。
記憶の面では、後継国家ごとにナラティブが異なりました。オーストリアは「小国」としての再出発を強調し、ハンガリーは喪失の物語を国家アイデンティティの中核に据えました。チェコスロヴァキアは民主主義と多民族共存の成功例としての自画像を持ち、南スラヴでは統合と対立が交互に現れました。ポーランドとルーマニアは拡大国家としての誇りと少数民族統治の難題を抱えます。こうした記憶の差異は、20世紀後半の体制転換やEU拡大の時代にも、時に協力の資源として、時に摩擦の火種として作用しました。
それでも、帝国の「見えない縦糸」は切れていません。法典(ABGB など)の影響、行政のプロシージャ、鉄道と河川の規格、学術と医療の訓練体系、オーケストラと劇場の共同公演、料理やカフェ文化の共通性――物的・人的ネットワークは国境を越えて残り、21世紀の欧州統合のなかで再び結び直されています。オーストリア・ハンガリー帝国の解体を学ぶことは、国家の終わり方と始まり方、地図の線の引き方が人びとの生活に与える影響、そして長期にわたる制度の記憶の力を理解する手がかりとなります。

