インドネシア民族運動とは、オランダ領東インドの人びとが「民族インドネシア」という共通の名乗りを作り、自治から独立へと政治的目標を高めていった長い過程を指す用語です。政治結社の活動だけでなく、新聞や学校、宗教改革、言語の統一、労働運動や女性運動、留学生の国際宣伝、農村の相互扶助など、生活のあらゆる場が運動の舞台になりました。1900年代の知識人サークルから始まり、1910〜20年代の大衆化、1928年「青年の誓い」による国民文化の骨格づくり、1930年代の弾圧と潜行、日本占領期の動員と政治訓練を経て、1945年の独立宣言、1949年の主権移譲へと結実します。ここでは、形成・大衆化・文化と宗教・政治結社の展開、占領期と独立革命という流れで、用語の中身を分かりやすく整理します。
萌芽と形成:知識人の自覚と近代公共圏の誕生(1900〜1919)
20世紀初頭、オランダ本国の「倫理政策」によって高等教育・インフラが限定的に拡大すると、官立学校や宣教師学校で学んだ新中間層が現れました。1908年、ジャワの青年知識人はブディ・ウトモ(Budi Utomo)を創設し、教育の普及と民族文化の振興を掲げます。これは統一的な独立運動ではなく、上層中間層の文化・啓蒙運動でしたが、近代的な結社・議論・募金・出版の技法を学ぶ場となりました。
1912年にはムスリム商人ネットワークを基盤にサレカット・イスラム(Sarekat Islam, SI)が生まれ、米価・独占・租税に対する抗議を通じて急速に大衆化します。同年、イスラーム改革運動のムハンマディヤが誕生し、学校・衛生・慈善の近代化を進めました。これらの団体は、宗教を足場にしながら、教育や福祉、商業を通じて都市と農村をつなぐ動員の回路を用意し、民族運動の社会的基盤を広げました。
印刷とメディアの役割も決定的でした。民族系新聞はオランダ語・現地語を併用し、政治語彙や国際ニュースを広めました。夜学や読書会、相互扶助(ゴトン・ロヨン)の再編は、公共圏の草の根をつくります。港湾・鉄道・製糖など近代産業の労働者は、賃金・労働時間・安全を争点にストライキを組織し、社会主義や共産主義の思想が流入します。1914年にはオランダ人社会主義者がインドネシア社会民主連盟(ISDV)を作り、1920年にインドネシア共産党(PKI)へ改組されてコミンテルンに接続しました。
大衆化と政治結社の多様化:SI・PKI・PNI、女性・労働・留学生(1920〜1929)
1920年代は、民族運動が中産層の啓蒙から都市・農村の大衆運動へと広がる時期でした。SIは急進・穏健の分裂を経つつも、商人・職人・小農を組織し、物価・独占・租税に抗議しました。PKIは労働争議を牽引し、ジャワ・スマトラの小作・地代問題を政治化しました。1926〜27年にはPKIの影響下で蜂起が起こるものの、準備不足と当局の治安出動で鎮圧され、多数が逮捕・流刑となります。この挫折は、のちの「合法・大衆組織重視」への教訓となりました。
1927年、スカルノはバンドンでインドネシア国民党(PNI)を創設し、〈政治宣伝・組織化・非協力〉を武器に独立を正面から掲げました。PNIは演説と小冊子、集会とデモを駆使し、鉄道・港湾・官吏・教師・学生を結び、都市から地方へネットワークを広げます。オランダ当局は検閲と摘発で応じ、1929年の首脳逮捕を機に1931年PNIは自解散へ追い込まれますが、後継のパルティンド(Partindo)や、ハッタとシャフリルの「PNI-Baru(新PNI、プンディディカン・ナショナル・インドネシア)」が理論教育と大衆運動を二つの流れとして継承しました。
女性運動と文化運動も重要です。カルティニの遺稿が再評価され、女性教育・児童福祉・識字運動が都市から農村へ広がりました。タマン・シスワ(1922)は国語教育・演劇・音楽を通じて〈自尊と協働〉の倫理を育て、民族語(インドネシア語)を公共空間の言語に押し上げました。華人学校や宣教師学校も近代教育の担い手となり、新聞・書店・劇場は政治と文化の橋渡しを担います。
海外の留学生運動では、オランダ本国の「インドネシア協会(Perhimpunan Indonesia)」がハッタらの指導で活発化し、国際世論に植民地解放を訴えました。英米の学界・メディア、インドやフィリピンの民族運動との連携も芽生え、民族運動は島々の枠を超えた発信力を得ていきます。
国民文化の核と宗教勢力:青年の誓い、言語・教育、ムハンマディヤとNU(1926〜1939)
1926年、伝統的学寮と宗教指導者を結ぶナフダトゥル・ウラマー(NU)が設立され、ムハンマディヤと並ぶ大規模イスラーム団体として教育・慈善・法学を担いました。二つの潮流は、ときに競合しながら地域社会の規律・福祉・仲裁の機能を果たし、政党や国家の言葉を生活世界に翻訳する媒介的役割を担います。宗教勢力は必ずしも単一の政治路線を持ちませんが、商人や農村のネットワークと結びつくことで、民族運動の支持基盤を厚くしました。
象徴的頂点が1928年の「青年の誓い(Sumpah Pemuda)」です。各地の青年団は〈一つの祖国インドネシア、一つの民族インドネシア、一つの言語インドネシア語〉を宣言し、マレー語系の共通語を「インドネシア語」として標準化する方向を明確にしました。以後、学校・新聞・演劇・ラジオでインドネシア語が主役となり、異なる島・宗派・方言を横断する共通の政治言語が整います。国民文化の骨格ができたことで、政党や労組、宗教団体の活動は相互に連結しやすくなりました。
1930年代、世界恐慌と弾圧の強化で運動は不利になります。スカルノ、ハッタ、シャフリルらは投獄・流刑に処され、PNI・Partindo・PNI-Baruなどは解体・潜行を余儀なくされました。それでも、学校や宗教団体、互助会、読書会は細いながらも連続性を保ち、演劇・歌、影絵(ワヤン)や新劇が政治風刺の媒体として機能しました。印刷と教育で育った世代は、占領期に国家づくりの人材へと転じていきます。
占領期の動員と政治設計、独立革命への連続(1942〜1949)
1942年、日本軍の占領は植民地秩序を破壊し、資源動員のための統制と組織化を推し進めました。義勇軍PETAやヘイホー、青年・女性団体、配給組織が整備され、若者は衛生・通信・兵站・規律・指揮の技法を学びます。検閲のもとであってもインドネシア語のラジオと新聞が拡大し、国語が行政・政治の言語として定着しました。
政治設計では、BPUPK(独立準備調査会)とPPKI(独立準備委員会)が憲法・国是(パンチャシラ)・統治機構を議論し、占領末期に〈国家の青写真〉が整います。青年(ペムダ)は即時独立を求め、1945年8月の日本降伏直後、スカルノとハッタに独立宣言を迫りました。8月17日の独立宣言、翌18日の1945年憲法採択は、民族運動が〈国家運営〉へ転じる転換点でした。
しかし独立はすぐに試練に直面します。英印軍の進駐とオランダ当局(NICA)の復帰で武力衝突が起こり、象徴的なのが1945年10〜11月のスラバヤの戦いです。宗教指導者、青年、元PETA隊員、労働者が市街戦を戦い、大きな犠牲とともに〈抵抗の意志〉を国内外に示しました。共和国は正規軍(TNI)の整備とともに、農村のゲリラ、都市の秘密連絡、鉄道・橋梁の攪乱、配給と税の調達など「戦時の国家」を動かします。
外交では、インド・ビルマ・アラブ諸国の支援、オーストラリア港湾労組の蘭船荷役拒否など国際連帯が広がり、国連安保理は停戦監視・仲裁(後のUNCI)に乗り出しました。共和国はリンガジャティ協定(1946)とレンヴィル協定(1948)で限定的承認を得る一方、オランダは1947・48年に二度の「軍事行動(ポリティエ・アクシー)」を発動し、経済要地やジョグジャカルタを一時占拠します。共和国は非常政府(PDRI)を樹立し、持久戦を継続。国際世論と米国の圧力、国連の仲裁が重なり、1949年のハーグ円卓会議で〈オランダ→インドネシア合衆国(RIS)〉への主権移譲が決定、12月に法的独立が確定しました。翌1950年、連邦は解消され単一のインドネシア共和国が発足します。
運動の担い手と方法:都市・農村・宗教・文化・ディアスポラの交差
インドネシア民族運動の特徴は、担い手と方法の多様性にあります。都市では、新聞社・印刷所・学校・労組・商人会が結節点となり、デモ・講演・ボイコット・請願が主要な手段でした。農村では、ムスリム学校(ポンドック)や村の会合、灌漑や市場の運営、婚姻・葬儀のネットワークが動員の基盤となり、小作料・地代・用水・税の問題が政治化しました。宗教団体は慈善・教育・調停で公共財を提供し、時に左派や民族主義団体と競合しながらも、大衆動員のフレームを与えました。
文化の領域では、タマン・シスワの学校劇、新聞漫画、歌謡、影絵と新劇が政治風刺を通じて「難しい政治」を身近な物語へ翻訳しました。女性運動は教育・衛生・児童保護を軸に、戦後は職能・政治参加へ広がります。華人社会は学校・新聞・商業で重要な役割を担い、地域によって民族主義との距離は異なりつつも、物流と資金、情報の回路で運動を支えました。海外の留学生とディアスポラは、国際宣伝の前哨基地として世論と資金を動かしました。
政治結社の相互作用:SI・PKI・PNIと宗教政党、協調と対立
民族運動は単一の組織によらず、複数の潮流の協調と対立のうえに築かれました。SIは商人・小農の連帯を作り、ムハンマディヤやNUは教育と福祉で社会基盤を固めました。PKIは労働・小作の闘争を政治化し、PNIは独立の政治宣伝と組織化を先導しました。地域によって、宗教団体と左派、民族主義政党の関係は異なり、共同戦線と競争が交錯します。1930年代の弾圧で政治結社は弱体化しましたが、学校・宗教・文化の回路が細く長く運動を温存し、占領期の〈政治訓練〉が国家建設につながりました。
この相互作用は、独立後も続きます。1950年代の議会政治でPNI、マシュミ(イスラーム系)、ナフダ系、社会党、そして再建を図る左派が競い、〈世俗ナショナリズム・宗教・左派〉という三元素の調整が国家運営の軸となりました。のちにスカルノが唱える「ナサコム(民族主義・宗教・共産主義)」の源流は、植民地期の多元的民族運動にあります。
意義と射程:国語と公共圏、国家の人材、国際社会との接続
インドネシア民族運動の最大の成果は、〈国語=インドネシア語〉を核とする公共圏の創出でした。多島・多言語の社会で、共通語の標準化は学校・官庁・新聞・法廷・軍・市場をつなぎ、人材の循環と制度の連続性を可能にしました。第二に、学校・宗教団体・労組・政党で育った人材が、独立後の官僚・軍・教育・メディア・司法の幹を形成しました。第三に、留学生と国際ネットワークが、独立を国連・世論・労働運動の課題に押し上げ、1945〜49年の外交戦で決定的な支援基盤となりました。
同時に、宗教・地域・階層間の競合、弾圧と分断、土地・労働をめぐる利害対立は、運動の内部に緊張を持ち込んできました。これらは独立後の政治対立や地域反乱、冷戦期の大きな亀裂へ続いていきます。それでも、1900年代から1940年代にかけての民族運動がつくり出した〈言語と公共圏・人材と制度・国際的支持〉の三つの柱は、今日のインドネシア国家の基礎をなす資産であり続けています。民族運動という言葉の中には、街頭の熱気だけでなく、印刷所のインク、教室の黒板、礼拝堂の募金箱、港の荷役拒否、山村の用水路といった、無数の現場の手ざわりが含まれているのです。

