キール軍港の水兵反乱 – 世界史用語集

「キール軍港の水兵反乱」は、1918年11月初頭、第一次世界大戦末期のドイツ帝国で北海沿岸のキール軍港を発火点に生じた水兵・下士官・労働者の大規模な抗命・蜂起を指します。大艦隊に下された「最後の決戦出撃」命令への拒否を端緒に、逮捕・処罰への抗議、工場労働者の連帯罷業、将兵・市民からなる評議会(ラーテ)の樹立へと急拡大し、たちまち全土の港湾・都市へ波及しました。この運動は、皇帝ヴィルヘルム2世の退位、帝国政府の崩壊、共和国宣言、休戦といった政体転換の直接の引き金となり、総称して「ドイツ革命(1918–19年)」の出発点として位置づけられます。反乱は単なる軍紀紊乱ではなく、戦時の犠牲と階級的緊張、食糧危機、海軍内の上下関係、議会制への移行要求が絡み合った社会的爆発でした。以下では、戦局と海軍の背景、反乱の発火からキール市内の掌握、全国への拡大と政体転換、主要争点と史料の読み方を整理して解説します。

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戦局と海軍の背景:大艦隊の焦燥、階級と補給、政治の遅延

1918年秋、ドイツ軍は西部戦線で連合国の総反攻(百日攻勢)を受けて後退し、戦争の敗北が現実味を帯びていました。潜水艦作戦は初期の効果を失い、米国参戦と制海権喪失の下で海上封鎖は国内の食糧・燃料を逼迫させました。都市では配給の不足と物価上昇が続き、艦隊・造船所・軍需工場の労働条件は悪化します。海軍では、士官と水兵の身分差・待遇差が著しく、長期の停泊・訓練が続く中で不満が蓄積しました。戦局が決まりつつあるにもかかわらず、海軍首脳部(とくに大艦隊の上層部)は、名誉回復や有利な講和条件を期待して、艦隊を一挙出撃させ英艦隊に決戦を挑む構想を温めていました。

この「最後の出撃」構想は、兵力・士気・補給の実態を無視するものとして下級兵から強い拒否感を招きました。水兵たちは、敗色濃厚な戦況で無意味な犠牲を強いられること、家族の窮乏と休戦交渉の遅延、上官の生活との落差に怒りを募らせます。社会民主党(SPD)や独立社会民主党(USPD)、労働組合は、戦時中から平和・議会化・労働者保護の要求を掲げており、都市の工場労働者と艦隊の下級兵士の意識は次第に連結していきました。1917年の抑圧的な軍律強化、反戦的言論への弾圧は、逆に地下の結束を強める結果にもなりました。

発火とキール掌握:出撃拒否、弾圧、評議会(ラーテ)の樹立

1918年10月末、北海の大艦隊に出撃準備が命じられると、複数の戦艦(たとえばチューリンゲン、ケーニヒなど)で水兵・下士官の間に抗命が広がりました。艦内での小規模なサボタージュや命令拒否、赤旗掲揚などの行為が摘発され、数百人規模の拘束が行われます。11月3日、キール市では逮捕者の釈放を求める水兵・市民のデモが起こり、軍警との衝突で死者が生じました。これが転機となり、翌4日には造船所労働者のストライキ、兵営の掌握、武器庫の確保が進み、キールの兵士・労働者評議会(Soldaten- und Arbeiterrat)が結成されました。

評議会は逮捕者の即時釈放、出撃命令の撤回、言論・集会の自由、軍律の緩和、食糧の改善などを要求し、同時に治安維持・配給の秩序化・交通確保といった都市運営にも責任を持ち始めます。軍港・鉄道・通信といった要所がほぼ無血で掌握され、キールの港湾都市としての機能は評議会の管理下に置かれました。SPDの地元指導者やUSPDの活動家、造船所の労組代表らが議長団に入り、過激な破壊行為を抑えつつ要求の実現を急ぐ現実主義的な方針が採られます。海軍司令部は事態の鎮圧に失敗し、政権中枢も急速に譲歩へ傾いていきました。

キールでの成功は、沿岸の軍港ウィルヘルムスハーフェン、ブレーメン、ハンブルクへと波及し、列車移動した水兵の「伝播効果」により、内陸のベルリン、ハノーファー、ライプツィヒ、ミュンヘンなど主要都市でも兵士・労働者評議会が次々と成立しました。評議会は赤い腕章や旗を用いながらも、ロシア型のボリシェヴィキ革命をただちに模倣したわけではなく、議会制と社会改革を組み合わせる方向を模索しました。ここに、1918年のドイツ革命の性格——暴力的内戦よりも急速な政体転換と協議——の特徴が表れます。

全国への拡大と政体転換:皇帝退位、共和国宣言、休戦と改革

11月に入ると、評議会運動は全土を覆い、旧体制の権威は急速に失墜しました。11月9日、ベルリンではデモと評議会の圧力の下で首相マクシミリアン・フォン・バーデンが皇帝ヴィルヘルム2世の退位を発表し、自らの後継にSPDのフリードリヒ・エーベルトを指名します。同日、シュパルタキストの指導者カール・リープクネヒトは市内で「自由社会主義共和国」の成立を宣言し、これと競う形でSPDのフィリップ・シャイデマンが議会主導の「ドイツ共和国」成立を宣言しました。こうして帝政は終焉し、暫定的にSPDとUSPDの連立による人民代表評議会(人民委員会)体制が発足します。

11月11日には連合国との休戦が成立し、戦闘は停止しました。新政府は、言論・集会・協会の自由、選挙法の民主化(男子普通選挙から女子参政権の導入へ)、労働時間の短縮、労使協議制度の整備など、急ぎの改革に着手します。一方で、評議会(ラーテ)を恒常的な統治機構とするか、議会制民主主義へ権限を回収するかが大きな争点となりました。SPDは秩序ある移行と選挙による正統化を重視し、USPDや急進派は評議会権力の継続・強化を主張しました。1919年初頭、ベルリンではスパルタクス団蜂起が起こり、治安部隊(義勇軍フライコール)の投入で鎮圧に至る過程で、リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが殺害され、革命の内部分裂が深まりました。

にもかかわらず、1919年のヴァイマル国民議会選挙は広範な民意を反映し、新憲法は議会主義と基本権、社会国家の理念を掲げて制定されます。キールの反乱から始まった連鎖は、帝政からヴァイマル共和政への制度転換を完遂し、国際的にはドイツが敗戦国としてヴェルサイユ条約の枠内に入る道筋を定めました。海軍の大艦隊は自沈・武装解除などを経て消滅し、旧来の軍事的栄光は政治的責任の問い直しに置き換えられていきます。

争点と評価・史料の読み方:自発性と指導、評議会の性格、長期的影響

キール反乱の評価をめぐっては、いくつかの論点があります。第一に「自発性と組織」の問題です。蜂起は上層からの陰謀というより、末端の抗命・弾圧への抗議・逮捕者釈放要求が引き金となり、地元のSPD・USPD・労組がそれを政治化・制度化したと理解するのが妥当です。第二に「評議会の性格」です。評議会はボリシェヴィキ型の単一党支配を目指したのではなく、都市運営や秩序維持に実務的に関わり、暫定的な自治と民主化要求の媒介として機能しました。第三に「軍の対応」です。海軍司令部は強硬策と譲歩の狭間で対応を誤り、現場の士官も兵と社会の距離を埋められませんでした。長期の停泊、厳格な身分秩序、補給難がもたらした心理的疲弊は、末端の士気と忠誠を侵食していたのです。

史料面では、艦隊の命令・日誌、軍法会議記録、地元新聞、労組議事録、活動家の回想録、行政文書などが主要な手がかりになります。各史料は立場により表現が異なり、たとえば海軍側文書は「規律崩壊」を強調し、評議会側は「秩序ある掌握」を強調する傾向があります。死亡者数・逮捕者数、評議会の決議内容、食糧配給や治安の実態など、具体的データの突き合わせが有効です。写真やポスター、赤旗・腕章など視覚資料は、運動の象徴性と大衆動員の技法を読み解く手がかりを与えます。

キールから始まった動きは、ドイツの政治文化に深い痕跡を残しました。ヴァイマル期の労使関係、評議会的要素を取り込んだ企業統治、地方自治や市民参加の伝統、軍と社会の関係再設計など、多くの領域に連続性が見られます。他方、革命の記憶は、右派の「背後からの一突き」伝説や左派内の路線対立の記憶とも絡まり、後の政治対立の素材ともなりました。キールの水兵反乱は、敗戦の混乱における破壊ではなく、国家の終戦処理と民主化の扉を実務的にこじ開けた出来事として理解することが重要です。戦争の終わりに何が起きるのか、軍と社会の関係がどう変わるのかを考えるうえで、今なお豊かな示唆を与えてくれる歴史的事例です。