アルメニア教会(一般にアルメニア使徒教会を指します)は、古代末から今日までアルメニア人共同体の信仰と文化を支えてきたキリスト教会です。伝承では301年に王トゥルダト3世が聖グレゴリオス(照明者グレゴル)によって改宗し、国家宗教としてキリスト教が採用されたとされます。早期の国教化と、5世紀初頭に創制されたアルメニア文字(グラバル)により、聖典・典礼・歴史・法の国語化が進み、言語・教会・共同体が一体となった独特のアイデンティティが形成されました。
神学的には、アルメニア教会は「オリエント正教会(東方正統教会)」に属し、451年のカルケドン公会議の決議を受け入れなかった伝統を持ちます。これはしばしば「単性論」と混同されますが、アルメニア側の自己理解は〈ミアフィシス(成り一つの本性)〉であり、キリストの神性と人性が混同・混淆なしに一つに結ばれているという古代アレクサンドリア神学の表現に依拠しています。長い歴史のなかで、他教派との対立と和解の往復がありましたが、今日ではエキュメニカルな対話を重ね、共通声明などで信仰理解の近接が確認されつつあります。
組織面では、アルメニア使徒教会はモスクワやローマのような一極集中型ではなく、歴史的事情に由来する複合的な首座体制を持ちます。最高首座はエチミアジン(ヴァガルシャパト)に座す「全アルメニアのカトリコス」で、レバノンのアンテリャスには「キリキアのカトリコス」があり、さらにコンスタンティノープル(イスタンブル)とエルサレムに古参の総主教座が置かれています。これらは信徒と領域の重なりに応じて職掌を分担し、世界各地のディアスポラ教区をつないでいます。
起源・信仰理解・典礼:ミアフィシスと国語化された教会
アルメニア教会の出発点は、〈早期改宗〉と〈国語の創出〉です。改宗伝承(301年)は学界で年次の議論があるものの、4世紀初頭には司教制と殉教伝承が確立し、教会は王権と共同体の権威装置になりました。5世紀初頭、学僧メスロプ・マシュトツと大主教サハク・パルテヴがアルメニア文字を創り、聖書と典礼書の翻訳が開始されます。〈自言語=聖なる言葉〉の一致は識字と教育を促し、村落から宮廷まで、信仰の言葉が生活に浸透しました。
教義上の特質は、カルケドン(451)の受容を見送った点にあります。アルメニア教会は、エフェソス公会議(431)までの三全地公会議を正統として重視し、キリスト論を〈ミアフィシス〉—言い換えれば〈神人二性の区別を保ちつつ、受肉後は分割できない一つの位格と本性として告白〉—として表現してきました。これは、〈二性論(ディオフィシス)=東方正教・カトリック〉と対立してきた歴史を持ちますが、現代の神学対話では用語差・強調点の違いとして調停可能な部分が大きいと認識されています。
典礼は「アルメニア典礼」に属し、古典アルメニア語(グラバル)を典礼言語の核としつつ、地域や時代によって俗語の導入も進みました。礼拝空間では、祭壇前のカーテン(イコノスタスに代わる幕)を用いて聖所と会衆席のあいだを機能的に区切り、聖体礼儀(ミサ)では酵母パンとワインを用います。聖歌は〈シャラカン〉と呼ばれる独自の旋法体系を持つ古層の賛歌群が中核で、素朴ながら厚みのあるユニゾン唱が空間を満たします。降誕祭と公現祭を〈1月6日〉に合わせて祝う伝統(地域によって暦の扱いは異なりますが、ナタリスと顕現の合体祝祭が原型)は、古代起源の独自性として知られます。
組織・制度と秘跡:カトリコスと総主教、聖油〈ミロン〉と教育
アルメニア使徒教会の最高首座は、エチミアジンの「全アルメニアのカトリコス」です。〈カトリコス〉は古代東方教会に見られる広域首座の称で、全世界の教会に対する牧会的第一性を象徴します。中世、十字軍と移住の流れの中で、シリア北部〜レバノンに拠点を移した系譜が続き、これが現代の〈キリキアのカトリコス〉としてアンテリャスに存立しています。コンスタンティノープル総主教座はオスマン帝国期の〈ミッレット〉(宗教共同体)代表として政治・司法の重責を担い、エルサレム総主教座は聖地礼拝と修道院群を統べます。四座は互いに独立性と共働性を保ち、ディアスポラの教区(ロシア、イラン、中東、欧米ほか)を分担しています。
秘跡は伝統的に七つと数えます。洗礼・堅振(塗油)・聖体は、幼児期に連続して授けられるのが通例で、〈聖油(ミロン)〉はカトリコスが調製・聖別し、各教区へ配布されます。病者傅油、告解、婚姻、叙階(司祭位・助祭位)がこれに続きます。典礼生活では断食が重んじられ、とくに大斎(四旬節)や週二日の小斎が一般的です。修道制は学僧(ヴァルダペト)制度と結びつき、説教学・神学・史学の権威として〈学問する修道者〉が教会の知的基盤を支えました。
教育と出版は、マトナダラン(古文書館)や神学校(エチミアジンのゲヴォルキアン神学院、アンテリャスの神学院、エルサレムの聖ヤコブ修道院付属校など)を軸に展開し、古典語グラバルと現代語の双方で聖書学・典礼学・歴史学が教授されています。ディアスポラでは週末学校や文化センターが補完し、言語と信仰の継承を社会的活動と結びつけています。
通史:信仰の防衛から近現代の試練、そして再生へ
ササン朝の支配下にあった5世紀、アルメニアはゾロアスター教の国家宗教化圧力に晒され、451年〈アヴァライルの戦い〉でヴァルダン・マミコニアンらが信仰の自由を掲げて抵抗しました。軍事的には敗北したものの、のちの協定でキリスト教実践が事実上容認され、〈殉教的記憶〉が共同体の核となります。中世にはアラブ政権下で教会と在地貴族が共同体を保持し、10世紀のアニを中心とする王国期、さらにシリア北部・キリキア沿岸での〈キリキア・アルメニア王国〉へと歴史が続きます。キリキア宮廷はローマ教会との一致を模索する局面も持ちましたが、最終的には固有伝統の維持が優越しました。
近世、オスマン帝国内のアルメニア教会は、コンスタンティノープル総主教を長とする〈ミッレット〉制度の下で宗教・民事(婚姻・相続など)の自治を担い、同時に税・徴発・治安の責任を負いました。19世紀には民族運動と改革(タンジマート)が交錯し、地方では暴力的事件が相次ぎます。20世紀初頭の〈アルメニア人大惨事(1915)〉は共同体に壊滅的打撃を与え、多くの聖職者・修道院・学校・写本が失われました。生き延びた人々は中東・ロシア・欧米にディアスポラ社会を築き、教会は〈記憶の守り手〉として慰霊と支援に当たりました。
ソ連期(1920–1991)、共和国領内の教会は厳しい統制を受けつつも部分的に活動を維持し、ときに文化財としての保存の名の下に建築と写本の保護が進みました。独立後、エチミアジンは教会・学校・社会福祉の再建を加速させ、地震や紛争・難民の支援、IT教育・青少年活動など、市民社会と連携した事業を拡大しています。ディアスポラの資金・専門人材との循環が、再生の重要なエンジンになっています。
文化資源・建築・対話:石と歌の教会、エキュメニズムと用語の整理
アルメニア教会の文化資源は多岐にわたります。建築では、集中式平面と円筒—円錐形のドームを特徴とする石造教会(例:エチミアジン主聖堂、ゲガルド修道院、アフパト修道院)が有名で、外壁や墓標の〈ハチュカル(十字石)〉が信仰と記憶のモニュメントとして各地に林立します。写本文化は金銀の装飾と鮮やかな彩飾で知られ、テキストと図像が神学・歴史・科学知を伝える媒体として機能しました。音楽では、〈シャラカン〉の旋法と詠唱、民俗的には〈ドゥドゥク〉の音色がアルメニア的響きの象徴として国境を越えて愛されています。
他教派との関係では、東方正教会(ビザンツ系)やカトリック教会との長期の相互不信を経て、20世紀後半から神学対話が進みました。カルケドン受容の有無をめぐる亀裂は、用語と歴史文脈の相違が大きく、近年は「信仰の中心に本質的差異はない」とする共同声明が積み重ねられています。並行して、〈アルメニア典礼カトリック教会〉(ローマ教皇庇護下)や、19世紀に成立した〈アルメニア福音(プロテスタント)教会〉など、同民族内の複数教派も存在しますが、民族的連帯と相互協力は広く実践されています。
用語の注意として、日本語の「東方正教会(ギリシャ正教)」と「オリエント正教会(非カルケドン派)」は別系統です。アルメニア教会は後者に属し、〈ミアフィシス〉を自認します。〈単性論(モノフィシス)〉という呼称は歴史的に対立派からのレッテルであり、教会自身は採用しません。また、「アルメニア教会」という語は文脈により狭義(使徒教会)と広義(アルメニア典礼カトリックや福音派を含むアルメニア人諸教会)に揺れますので、記述の際は範囲を明示すると誤解が避けられます。
学習の要点をまとめると、①改宗伝承とアルメニア文字創制、②カルケドン不受容とミアフィシス、③四首座体制(エチミアジン/キリキア/イスタンブル/エルサレム)とディアスポラ運営、④典礼(グラバル、シャラカン、祭壇幕、1月6日祝祭、ミロン)と秘跡、⑤通史(ササン朝下の信仰防衛—キリキア—ミッレット—大惨事—ソ連—独立後再生)、⑥文化資源(建築・ハチュカル・写本・聖歌)と他教派との対話、の六本柱で体系化すると、アルメニア教会の独自性と普遍性をバランスよく説明できます。石に刻まれた十字と、古語で歌われる賛歌は、国と散在のはざまで共同体を結び続けてきた〈信仰の糸〉なのです。

