フリードリヒ・エーベルト(Friedrich Ebert, 1871–1925)は、第一次世界大戦末からワイマール共和国初期にかけてドイツ政治を主導した社会民主党(SPD)の実務家で、1919年に初代大統領となった人物です。労働運動出身ながら、革命の暴走を避けて議会制民主主義を築こうとし、産業・軍部・官僚と妥協を重ねながら体制を軟着陸させようとした点に特徴があります。他方で、急進左派の抑圧(スパルタクス団蜂起の鎮圧など)や旧体制エリートへの依存が、共和国の正統性を傷つけ、右からも左からも不信を買う結果を生んだことも否めません。エーベルトは、戦争崩壊後の国家再建における「秩序と民主主義の両立」という難題に、現実主義で挑んだ政治家だったと要約できます。
生い立ちと政治形成――労働運動の現場から党指導部へ
エーベルトは1871年、ドイツ帝国成立の年にブレーメンの貧しい革職人の家に生まれました。職人として徒弟修業を積むかたわら、労働者教育協会や組合活動に関わり、地方新聞の編集や共済活動で頭角を現します。社会民主党が弾圧と合法化のはざまで揺れる時期、彼は扇動的なアジテーションではなく、組織運営と交渉に長けた「実務家」として評価され、1905年にはSPDの党執行部入り、1913年にはベーベルの後継として党首に就任しました。温厚で折衝型の性格は、広範な労働者層を束ねつつ、中産・官僚層との対話も可能にする資質でした。
第一次世界大戦が勃発すると、SPDは「祖国防衛」の名で戦時公債に賛成し、党内は分裂します。反戦派はUSPD(独立社会民主党)として離脱し、のちのスパルタクス団(ローザ・ルクセンブルク、リープクネヒトら)へと連なっていきます。エーベルトは議会戦術と合法的改良を重視し、戦時中も社会政策の拡充と戦後改革の準備に努めました。
1918年革命と政権掌握――秩序ある移行をめざした「エーベルト路線」
1918年秋、敗戦が確実になるとドイツ国内では兵士・労働者評議会(レーテ)の運動が広がり、キール軍港の反乱が全国に飛び火しました。皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、帝国は崩壊します。1918年11月9日、ベルリンの混乱の中で社会民主党のシェイデマンが共和国の成立を宣言し、同日エーベルトは新政府(人民代表評議会)の共同議長に就きました。彼の最優先は、無政府的混乱を防ぎ、食糧配給と治安、鉄道・郵便の運行を維持しつつ、選挙で正統な国民議会を召集することでした。
そのために彼が選んだのが、旧体制の軍・官僚機構との暫定的協力です。最も象徴的なのは、陸軍最高司令部のグレーナーとの間で結ばれた「エーベルト=グレーナー協定(1918年11月10日)」と呼ばれる取り決めでした。軍は新政府への忠誠と秩序維持を約束し、政府は軍の統制と指揮系統の維持、ボリシェヴィズム的革命の抑止に努めるという相互の了解です。社会主義革命を志向する評議会派から見れば「反革命的妥協」でしたが、エーベルトにとっては国家崩壊を避ける現実的選択でした。
1919年1月、ベルリンでスパルタクス団を中心とする蜂起が発生します。エーベルト政府は義勇軍(フライコール)と警察力を投入して鎮圧に向かい、混乱の中でルクセンブルクとリープクネヒトが殺害されました。これにより左派との亀裂は決定的となり、共和国は成立直後から「右に軍、左に疎外された大衆」を抱え込む構図になります。他方、1919年1月の選挙は女性参政権を含む普選で行われ、ヴァイマルで国民議会が招集され、議会手続きによる新憲法制定が始まります。
ヴァイマル憲法と初代大統領――権限設計と政治運営
1919年8月に公布されたヴァイマル憲法は、広範な社会権(労働の保護、団結権、教育権など)と比例代表制、強い大統領権限を併せ持つ折衷的な構造でした。エーベルトは同年2月、国民議会によって臨時大統領に選出され、以後、連立内閣の形成・解消を仲裁する「調停者」としての役割を担います。憲法第48条の緊急命令権(非常事態に大統領が法効力を持つ命令を発する権限)は、議会の不安定を補う安全装置として設けられましたが、運用には判断が問われました。
大統領エーベルトの課題は山積みでした。戦後賠償と領土問題を定めるヴェルサイユ条約の受諾(1919年6月)は国内に深い屈辱感を生み、右派は「十一月の犯罪人(敗戦と革命を招いた裏切り者)」と社会民主党を非難しました。1920年には退役軍人や右派将校が主導したカップ一揆が起こり、ベルリンの政府は一時首都を放棄します。エーベルトは官僚・労組に呼びかけてゼネストで抵抗し、クーデターは数日で頓挫しましたが、地方では左派の蜂起と右派の準軍事組織が衝突し、国内秩序は危うい綱渡りが続きました。
経済面でも、1923年のハイパーインフレーションは国民生活を破壊し、国家の正統性を揺るがしました。フランス・ベルギーによるルール占領に対し、政府は受動抵抗(スト・怠業・税の不払い)を支援しましたが、流通する紙幣は雪だるま式に膨張し、パン一斤が朝と夕で価格が変わる異常事態に陥ります。エーベルトはレンテンマルク導入と財政再建(シュトレーゼマン内閣、シャハトの通貨政策)を後押しし、国際的にはドーズ案受諾を通じて賠償支払いの枠組みを現実的に再設定しました。1924年以降は「相対的安定期」が到来し、文化も経済も一時的に活況を取り戻します。
治安・軍との関係――フライコール、州政府への介入、国家の二重性
エーベルトの統治で批判の的となるのは、治安維持における旧体制勢力との協力です。1919年・1920年の動乱期、政府はフライコールと呼ばれる義勇軍を対内治安に用いました。彼らは左派蜂起の鎮圧に有効でしたが、王党派・民族主義的傾向が強く、のちには政府に反旗を翻す勢力にもなりました。カップ一揆後、政府はフライコールの解体を進めましたが、ヴァイマル国家の暴力装置が二重化していた事実は、共和国の脆弱性を露呈しました。
また、連邦制の下で州政府が急進化・反乱の拠点になる事態も生じました。1923年秋、バイエルン州では右翼の動きが活発化し、ベルリンの中央政府に非協力の姿勢を見せます。エーベルトは憲法第48条を用いて「国家非常事態」を宣言し、プロイセン州では左派系政府を解任して戒厳体制を敷くなど、秩序維持を優先しました。この運用は、議会主義者としての彼が例外的手段に頼らざるを得ない現実と、非常権限が後の権威主義に転化しうる危険の両面を示しています。
対外関係と国際秩序への復帰――現実主義的協調路線
ヴァイマル期の対外政策で、エーベルトは政府の対外協調路線を支持・調整しました。外相ラーテナウは賠償問題での現実的交渉と、ソ連とのラパッロ条約(1922)で孤立打破を図り、のちのシュトレーゼマンはロカルノ条約(1925)で西側国境の不可侵を確認、ドイツの国際連盟加盟(1926)へ道筋を付けます。エーベルトはこうした路線を政治的に支え、国内の民族主義的反発をなだめるために議会工作と世論対話を続けました。彼の死はロカルノ批准の最中で、共和国の国際復帰がようやく視界に入った矢先の出来事でした。
人格・統治スタイル・死――「実務の人」の強みと限界
エーベルトは華々しい演説家でも理論家でもなく、妥協と段取りに長けた調整型の政治家でした。質素な身のこなしと労働者階級への誠実さは多くの支持を集める一方で、決断の場面では非情な選択(蜂起の武力鎮圧、非常命令の発出)も辞さず、結果として左右双方から「裏切り者」扱いされることもしばしばでした。彼は1925年2月、虫垂炎と腹膜炎の合併症で急逝します。享年53。死の直前まで職務にあたり、憲法第48条をめぐる訴訟や中傷(戦時中の休暇旅行を巡る名誉毀損裁判など)にも耐えていました。彼の死は、調停者としての重りを失った共和国にさらなる不安定をもたらし、その後のヒンデンブルク大統領の下で第48条が多用され、議会制の形骸化が進む入口ともなりました。
評価と意義――「革命後の国家」を作る難しさ
エーベルトの歴史的評価は、視点によって分かれます。社会民主主義の立場からは、無血に近い制度移行、普選と議会制の確立、労働者の社会権の憲法化など、彼の「秩序ある革命」を高く評価します。他方、急進左派からは、旧軍部・官僚との妥協を重ね、社会主義変革の機会を逸したうえ、スパルタクス団鎮圧に手を染めた「反革命の共犯者」と断罪されます。右翼からは、ヴェルサイユ条約受諾と賠償の遂行をもって「十一月の犯罪人」と蔑まれました。つまり、彼はほぼすべての陣営から異なる理由で批判されつつも、現実の国家運営を引き受けた「唯一の責任ある政治家」であったという逆説が残ります。
より構造的に見ると、エーベルトの試みは「二つの正統性(評議会革命と議会民主主義)」の緊張を、選挙と法手続で吸収しようとするものでした。彼の妥協は短期の秩序を得ましたが、司法・軍・行政・教育・外交の上層に残った帝政期エリートの文化を十分に民主化できず、共和国の土台に“旧体制の影”を残しました。非常権限の導入は危機対応には有効でしたが、のちに権威主義的運用の前例となります。とはいえ、1923年の通貨安定、ゼネストによる反クーデター、国際復帰の道筋など、彼の統治は瓦解の淵で国家をつなぎとめた事実もまた明白です。
総じて、フリードリヒ・エーベルトは、敗戦と革命の廃墟から議会制民主主義を立ち上げるという、近代政治でもっとも難しい課題に直面した「実務の人」でした。彼の名を学ぶことは、民主主義が理念だけでは成り立たず、暴力装置・官僚機構・国際秩序といった硬い現実を動かす地道な妥協と制度設計が必要であることを教えてくれます。同時に、短期の安定が長期の正統性を損なうリスク、非常権限が常態化する危険、分断社会で中道が被るコストも、彼の軌跡から読み取ることができます。エーベルトは英雄でも悪役でもなく、危機の時代に「責任」を引き受けた政治家の典型として、ワイマール期を理解する基準点であり続けるのです。

