紅巾の乱 – 世界史用語集

紅巾の乱(こうきんのらん、1351〜1368年ごろ)は、元末の財政破綻・自然災害・疫病の連鎖と、弥勒下生・明王出世を説く民間宗教(白蓮教系)や秘密結社的ネットワークが結合して華北・江漢・淮河流域から江南一帯へ拡大した大反乱を指します。指導層は単一ではなく、劉福通・韓山童・徐寿輝・陳友諒・張士誠・方国珍・明玉珍など諸勢力が乱立し、やがて朱元璋(のちの明の洪武帝)が群雄を制して南京を拠点に明を建て、1368年に大都(北京)を放棄させて元朝の華北支配を終わらせました。紅い頭巾・鉢巻を標識とする「紅巾軍」は、救済・互助の宗教結社が軍事化した姿であり、地方官・塩商・船頭・手工業者・流民・僧侶など多様な層が加わりました。本項では、制度と環境の危機、宗教と動員の仕組み、蜂起の時系列と地域差、群雄割拠と内戦、朱元璋の台頭と明国家形成、社会経済への長期的影響、評価上の論点をわかりやすく整理します。

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危機の背景と動員の論理:財政・環境・宗教が重なる土壌

14世紀の元は、紙幣(中統交鈔・至正交鈔)の乱発と銀不足に起因するインフレ、塩専売・茶税の増徴、度重なる兵役・運河輸送の強制で社会の不満を高めました。黄河は1344年に大規模な河道変動を起こし、華北の堤防・運河網が破損、食糧と輸送の基盤が揺らぎます。加えて「小氷期」的気候の不安定と黒死病(ペスト)の流行が人口・労働・財政に打撃を与え、北方遊牧勢力との国境軍事費も重荷でした。モンゴル支配層・色目人と漢人官僚の摩擦、地方官の買官・苛斂誅求は、基層社会の不満をさらに募らせます。

宗教的には、白蓮教・弥勒信仰・明教(マニ教)などの要素が交差し、「弥勒下生」「明王出世」「仏日増輝」の標語が世直しの物語を形づくりました。韓山童とその子韓林児を「宋王の後裔」と称して擁立した劉福通は、救済と義挙の二重の言語で信徒を組織し、互助金・符籙・念誦・斎会を通じて動員力を培いました。「紅巾」は識別標でもあり、同じ宗派・同志のネットワークを可視化する役割を果たしました。

また、財政破綻は「塩」の政治を歪めます。塩引請(塩引札)を通じた専売と運上は地方豪商と官僚の癒着を生み、塩場・運河・港湾を押さえた者が軍糧と現金を握る構図ができました。後の張士誠・方国珍は、まさにこの「塩と海」を制した典型です。運河輸送(漕運)の混乱は、京畿の糧秣を逼迫させ、地方政府に自生的武装と徴発を促しました。

蜂起の展開:通州・潼関以東から江漢・淮西、江南へ

1351年、黄河の治水工事に集められた労働者と宗教ネットワークが結びつき、通州(北京東南)・潼関以東の広い地域で連鎖的蜂起が発生しました。劉福通は韓林児を擁して「小明王」を樹立、汴梁(開封)・亳州・安豊などを転戦し、華北と淮西に大本営を置くかたちで勢力を広げました。元側は宰相トクト(脱脱)が正規軍を統率して当初は反乱を押し返すものの、宮廷内の罷免・政争で統率が崩れ、鎮圧は継続性を欠きます。

同時期、江漢・江西方面では徐寿輝が漢陽で自立して「天完(天完国)」を称し、ほどなく陳友諒がその有力将として台頭します。徐寿輝の政権は宗教色が濃く、斎醮・新王権の儀礼を整えましたが、権力分配をめぐる内紛の末に1360年、陳友諒により簒奪されます。陳は江州・武昌に拠って「漢」を称し、江漢・鄱陽湖の水運を掌握しました。

東南沿海では、張士誠が塩場の高郵・泰州を押さえ、のち蘇州に拠って「周」を称します。彼は徴税と塩運支配で財力を築き、堅固な城郭と兵糧庫を整備しました。浙江沿岸の方国珍は寧波・台州一帯の海商・水軍を背景に独立勢力となり、海上交易と関所で資金を得ます。西南では明玉珍が四川・重慶で「大夏」を称し、山城と長江上流の舟運を要害としました。こうして、紅巾由来・非紅巾由来の勢力が錯綜し、華中・江南は「群雄の海」と化します。

朱元璋の台頭:軍制・財政・人材登用の三位一体

朱元璋はもと貧農出身で僧籍を経て郭子興の麾下に入り、やがて独立して応天府(南京)を掌握、江南の米穀地帯・運河・水運を基盤に勢力を伸ばしました。彼の強みは三点に整理できます。第一に軍制の整備です。義勇・降兵を戸籍と連動させて衛所制度の原型を作り、歩弓・槍・火器・水軍を組み合わせた小隊運用で機動力を高めました。第二に財政・軍糧の自立です。江南の富饒を活かして屯田・魚稅・市舶を掌握し、兵站の内給化を進めました。第三に人材登用です。劉基(劉伯温)、宋濂、章溢、李善長、徐達、常遇春ら文武の才を取り立て、規律・法度・兵站・外交を分担させました。

1363年の鄱陽湖の会戦は転機でした。朱元璋の水軍は火攻・連環船戦法を駆使して陳友諒の大艦隊を撃破し、江漢の主導権を奪取します。続いて1364年に「呉」を称して政権を制度化、1367年には張士誠の蘇州を包囲・降伏させ、方国珍を帰順させて東南の背後を固めました。1368年、国号を「明」として出師、徐達・常遇春を北伐に送り、翌年までに大都放棄・山西攻略を経て華北から元勢力を駆逐しました(北元は漠北で存続)。

社会・経済の変容:移住・土地・貨幣・塩と海

紅巾の乱とその後の再統合は、人口移動と土地秩序を大きく塗り替えました。華北から江南・四川への避難・再定住が進み、空閑地の丈量・屯田が行われます。明初は黄冊・魚鱗図冊で戸口と地籍を再編し、里甲制で労役・納税・治安の基盤を再設計しました。軍戸・民戸の区分は衛所制と連動し、兵農合一の体制が整います。

貨幣・財政では、元末の紙幣インフレの反省から、明初は宝鈔の発行に慎重で、銅銭・銀貨の流通を実勢に委ねつつ、賦役の実物納・里甲負担の平準化を図りました。塩の専売は引き続き王朝財政の柱であり、塩引請(塩引)の制度が整備されますが、塩運の要衝を押さえた豪商の影響力は残存し、地方財政・治安と密接に絡み続けました。沿海では方国珍系の海商ネットワークが一部吸収・再編され、海禁と市舶司の枠内での貿易管理が再構築されます。

都市・手工業では、蘇州・杭州・南京・景徳鎮・松江などが絹織・綿織・陶磁・造船の中心として再開発されました。運河(大運河)の浚渫と河道改修は、漕運と市場統合を回復させ、京畿—江南の経済軸を再強化します。宗教・社会では、白蓮教系の組織は弾圧と転向の両面を経験し、寺院・祠廟・社学の再建が秩序回復の装置となりました。

評価と論点:民衆反乱か、地域国家の創出か

紅巾の乱はしばしば「民衆の反乱」と表現されますが、その性格は単純ではありません。宗教的救済と政治的権力争奪、略奪と交易、地方自治と王朝再建が同じ回路で進行しました。劉福通・徐寿輝の宗教王権は、カリスマと教団で短期動員に成功した一方、官僚・財政・軍制の持続性で脆弱でした。張士誠・方国珍の「塩・海」政権は、財源と城郭で粘りましたが、広域統合の理念と人材に欠けました。朱元璋の成功は、宗教カリスマではなく制度設計への集中、すなわち軍・財・文の三位一体にあり、ここに「乱世から国家へ」のエンジンがありました。

思想史的には、「明王出世」の語が新王朝「明」の名に重なる偶然(あるいは政治的演出)が議論されます。朱元璋は宗教勢力を取り込みつつも、統治正当化の言語を儒教的徳治・天命へ回収し、法度(大明律)と礼楽で秩序を固定化しました。民衆宗教は地下へ潜り、明末清初に再び反体制運動として噴出することになります。

社会史の視点では、紅巾期の暴力がもたらした被害—農村の荒廃、捕虜・流民・奴婢化、都市の焼亡—と同時に、後の発展の前提—土地の再配分、労働の再編、都市の再建—を生んだ両義性が重要です。江南の綿作・機織の普及、景徳鎮の窯業拡大、運河都市の復権は、戦後復興政策と市場の自律が合わさって進みました。

史料面では、『元史』『明史』のほか、地方志・碑刻・商人文書・僧籍台帳などの断片が再構成に不可欠です。宗教結社の教義・ネットワークは敵対史料に歪められがちで、考古学・経済史・環境史の知見を併用した総合的分析が求められます。黄河改道・運河機能不全・疫病流行などの自然・社会的ストレスが、どのように反乱の臨界点を下げたのかを数量的に追う研究が進展しています。

総じて、紅巾の乱は「元を倒した農民反乱」という枠を越え、海と塩・河と運河・宗教と財政・都市と農村がからみ合う巨大な制度変換期でした。紅い布は救済の旗であると同時に、ネットワークの可視化装置でした。その可視化が、やがて国家の「登録(黄冊)と地図(魚鱗図冊)」という別タイプの可視化へ置き換わるとき、明という統合国家が現れます。紅巾を読み解くことは、アジアの国家形成と民衆運動のダイナミクスを理解する最短の入口なのです。