科挙の廃止 – 世界史用語集

「科挙の廃止」とは、東アジアの伝統的な官吏登用試験であった科挙(あるいはその同系制度)を近代の入り口で終止させ、近代学校と新式官吏登用制度へ移行した一連の出来事を指します。もっとも著名なのは清朝の1905年(光緒31)の全面廃止ですが、朝鮮(高麗—朝鮮王朝)の科挙は1894〜95年の甲午改革で先に廃止され、ベトナム(阮朝)では省試が1915年、宮廷試が1919年に終了しました。いずれの地域でも、外圧や戦争、財政難、官僚制の肥大、八股文に代表される学問の硬直化、理工・軍事・法財政など実用知の不足といった要因が重なり、「古典解釈による公選」から「近代学校→資格・試験→官吏登用」へと原理が切り替わりました。廃止は単なる終わりではなく、教育・社会・政治を横断する大改造の起点でした。以下では、中国・朝鮮・ベトナムを中心に経緯と理由、制度の乗り換え、社会への影響、長期的帰結を整理します。

スポンサーリンク

なぜ廃止されたのか:外圧・制度疲労・知の不一致

第一に外圧です。アヘン戦争以降の敗戦、不平等条約、列強の軍事・財政・外交の圧力は、従来の文治官僚制だけでは国家競争に応じきれない現実を突きつけました。砲艦外交、近代軍制、関税自主権、国際法、鉄道・電信といった新課題は、古典の章句解釈や八股の作文だけでカバーしにくかったのです。

第二に制度疲労です。受験規模の拡大により、挙人・進士と職位の需給がミスマッチを起こし、長期受験と無官待機者の滞留が生じました。採点の標準化は公平を高める一方、正解主義と模範答案の丸暗記が横行し、政治・経済・軍事の急速な変化に知が追いつかないという批判が強まりました。買官・捐納や派閥化の進行、教育資源の地域偏在も制度への信頼を蝕みました。

第三に〈知の不一致〉です。法学・財政学・国際通商・工学・医学・理化学・測量・統計など、新たな行政・産業の言語は旧来の官学枠外にありました。改革派は「中体西用(中国の体・西洋の用)」や「実学・時務学」を掲げ、学校・官庁・軍の各現場に必要な専門教育と採用制度を求めました。こうして、科挙の根幹であった〈経義と策論による一般文官選抜〉は、専門職能官僚の時代に合わなくなっていきました。

中国(清)のケース:1901年新政から1905年の廃止へ

清朝は、戊戌変法(1898)の挫折を経ながらも、義和団後の「新政」(1901)で文武官制・教育制度の全面改編に踏み切りました。1902年には近代学校体系(壬寅学制)の骨子が示され、1904年の癸卯学制で小学校—中学—師範・実業—大学へ続く枠組みが整います。京師大学堂(のち北京大学)、各省の師範学校・実業学校、外国留学の制度化が進み、科挙は次第に新教育の外周へ押し出されました。

転機は1905年8月の上諭(詔書)です。詔は、(1)科挙の全面停止、(2)各級学校の拡充、(3)学堂出身者の官吏登用、(4)留学生の優遇採用、を柱としました。これにより、郷試・会試・殿試は一挙に廃止され、受験者は学校へ進路を切り替えることになります。以後、官吏登用は「学堂出身→考課→任用」へと移行し、法政・実業・警務・郵伝・財政・鉄道などの専門官庁で新式官僚の育成と採用が進みました。

この大転換は、地方社会にも波及しました。宗族や郷紳は科挙向けの学田・書院を、師範学校・実業学校・新式小学校に転用し、女子教育や近代医療の導入も始まります。一方、旧式の読書人の一部は再適応を迫られ、新聞・出版・教育・法律家・記者・実業家へ転身する動きが目立ちました。清末新政は立憲化(諮議局・省議会)とも連動し、〈科挙廃止→新教育→公共圏拡大→新政治〉の連鎖を生み出しました。

朝鮮のケース:甲午改革による先行的廃止

朝鮮王朝の科挙は、日清戦争の渦中で推進された甲午改革(1894–95)において廃止されました。王政の近代化と中央集権化、身分制の解体、税制・軍制・司法の改編と並行して、旧来の文科・武科・雑科は停止され、学部(教育行政)の創設、漢城師範学校や外国語学校の整備が進みます。官吏登用は新式の試験・学校成績・実務考査へ置き換えられ、のちに大韓帝国期の官制改革で法学・財政・土木などの職能教育と結びつきました。

廃止の背景には、東学農民運動や王権・列強の角逐の中で、軍・財政・外交の近代化を急ぐ必要があったこと、科挙が党争と両班社会の再生産に組み込まれ、開化政策の阻害要因として認識されたことがあります。以後、成均館は教育機関としての再編を迫られ、官僚養成は師範・法学校・実業学校・海外留学に移りました。

ベトナムのケース:1915・1919年の終止符

阮朝の科挙は、仏領インドシナ体制下で漸次縮小され、省試(香試/郷試に相当)が1915年、宮廷の廷試(殿試に相当)が1919年に廃止されました。仏語教育・近代学校(公学校・里学校)・専門学校の整備、ローマ字表記の国語(クオック・グー)の普及が進むなかで、旧来の漢文科挙は行政の中枢から外されていきます。廃止は象徴的意味を持ち、官僚登用は仏印当局の試験・教育資格へと切り替わりました。

ベトナムの場合、漢字・喃字に基づく文人文化と、国語・仏語の近代教育の二重構造がしばらく並存しました。廃止は、言語・文字と官僚制の結びつきの転換、すなわち「漢文公共圏→国語・仏語公共圏」への移行を象徴します。多くの科挙出身者が新聞人・教育者・民族運動へ転身したことも、移行期の特徴でした。

制度は何に置き換わったのか:近代学校×官吏登用の新回路

三地域に共通するのは、「学校→資格→採用」の直結です。師範学校は初等中等教育の教員を、法政学校は司法・行政官を、実業学校は工業・商業・農林水産・鉄道・電信の技術官を、軍学校は将校を育てました。大学や専門学堂が徐々に整備され、官吏登用は学歴—国家試験—実務研修という近代的プロセスに切り替わります。留学制度(日本・欧米・中国本土・仏領の都市)も、早期に整えられました。

同時に、「公開競争」「匿名採点」「多重採点」「定期実施」といった科挙由来の〈公平の技法〉は、新制度に受け継がれます。中国では民国期に考試院が、朝鮮では近代官吏試験、ベトナムでは仏印当局の試験が、それぞれ近代型の文武官選抜を制度化しました。近代以降の学校入試・公務員試験に、科挙の運用技法が影響していることは見逃せません。

社会への影響:士大夫・郷紳の再編、出版・教育市場の転換

長期的影響は三層で現れました。第一に、支配層の再編です。科挙が消えることで、士大夫・郷紳の正統性は「古典の素養」から「学歴・資格・職能」へと移行します。地方の名望家は学校の設立・寄付・教育行政への参画によって、新しい公共性を担いました。一方、旧式読書人の一部は周縁化し、新聞・出版・教育・商工業へ転じることで地位を再構築しました。

第二に、出版・教育市場の転換です。注疏や類書、策例集を支えていた市場は、教科書・参考書・雑誌・新聞へ重心を移し、女子教育や理工・商科の教材が急速に整備されます。印刷・紙・文具の産業構造も、受験から学校へと需要の流れが変わりました。

第三に、政治文化の変化です。学校教育は国民国家のアイデンティティ形成と結びつき、国語・歴史・地理・衛生・体操が公共の科目として整えられます。討論・演説・社団活動は、新しい公共圏の技法として普及し、議会と新聞、選挙・政党・労働組合といった近代政治の装置が育つ土台になりました。

残されたもの・失われたもの:連続と断絶のバランス

科挙の廃止は断絶であると同時に連続でもありました。連続面では、公開競争と公平手続という理念、答案の匿名化や多重採点といった技法が、新制度に受け継がれました。また、家庭の教育投資や受験文化は形を変えて存続し、「試験社会」という新しい課題が現れます。

断絶面では、八股文という書式的美学、漢文に支えられた文体と学統の一部が後景化し、専門分化と国語化・欧文語化が進みました。知の権威の源泉が、儒学的教養から専門知・実証へ移る過程で、文化の通約性が揺らぐ面もありました。他方、旧来の「士」的倫理(節義・廉恥・公的奉仕)を新官僚制にどう埋め込むかという課題も提起されました。

年表と地域比較(要点)

・1894–95年:朝鮮、甲午改革で科挙廃止。教育・官制の近代化を推進します。

・1901年:清、新政開始。官制と教育の全面改革を布告します。

・1902年:壬寅学制(試案)。近代学校体系の骨子を提示します。

・1904年:癸卯学制。小中等・師範・実業・大学を連ねる制度を整えます。

・1905年:清、郷試・会試・殿試の全面廃止。学堂出身優先・留学生登用を明示します。

・1915年:阮朝、地方試(省試)を停止します。

・1919年:阮朝、廷試(宮廷試)を停止。漢文科挙の時代が終わります。

まとめ:制度転換の意味

科挙の廃止は、単に試験の形式を変えた出来事ではありませんでした。国家が求める人材像—古典の章句を正確に解釈し、文体の規範に通じる能吏—から、法と会計、工学と衛生、軍事と外交の〈専門職〉へと軸足を移したことを意味します。それは、政治の正統性を支える知の在庫と、その流通回路を根本から組み替える作業でした。各地域の道筋は異なりますが、共通しているのは「教育の量と質を国家の力の源泉に数え直す」決断です。科挙が千年かけて築いた公平の技法と公共の精神を活かしつつ、専門知と多様性を抱き込む新制度へ—この難題にどう応えるかが、近代以降の東アジアの持続的なテーマになったのです。