クリム・ハン国(一般にはクリミア・ハン国、Crimean Khanate)は、15世紀半ばから18世紀末にかけてクリミア半島と黒海北岸の草原地帯を基盤に存続したテュルク系のイスラーム国家です。ジョチ・ウルス(いわゆるキプチャク・ハン国/金帳汗国)の分裂過程から生まれ、ギライ(ギレイ)家が世襲君主として半島とステップを統治しました。黒海の要衝という地理、遊牧—定住の複合経済、オスマン帝国との宗主—従属関係、そして東欧・ロシア・ポーランド=リトアニア・コーカサスをまたぐ軍事回廊という四つの要素が、その歴史を形づくりました。17世紀までハン国は黒海世界の勢力地図で重要な駒でしたが、18世紀に露土戦争の渦中で弱体化し、1774年に名目的独立、1783年にロシア帝国へ併合されて終焉します。以下では、成立、政治制度と社会、軍事・外交、経済と都市、衰退と併合、文化と遺産の観点から、クリム・ハン国の実像を立体的に解説します。
成立の背景:金帳汗国の亀裂から生まれた黒海の世襲政権
14世紀末から15世紀前半にかけて、ジョチ・ウルスは内紛とティムールの介入、貿易路の変動で分裂が進みました。この権力空白の中で、ハージ・ギライ(Hacı I Giray, r.1441頃–1466)がクリミア半島と北黒海草原の諸部族を糾合し、王統ギライ家を開きます。彼と後継者は、半島の城塞(ペレコープ—オル=カピ)を押さえ、草原のノガイ、クマン=キプチャク系の部族、半島内部のテュルク・タタール系・ギリシア系・アルメニア系住民をまとめ、ハン権の核を築きました。
都市面では、半島東端のケルチ海峡一帯にジェノヴァ商人の商館都市(カッファ[現フェオドシヤ]など)が栄え、黒海—地中海—東方を結ぶ交易の要を成していました。1475年、オスマン帝国のゲディク・アフメド・パシャ遠征でジェノヴァの黒海拠点が陥落・編入され、同時にギライ家はオスマンの宗主権を承認して半独立の従属国となります。この時期以降、カッファ(トルコ語ではケフェ)などの港はオスマンの直轄、内陸はハン国の支配という二層構造が定着しました。
政治制度と社会構成:ハン、カルガとヌレッディン、そして四大ベイ
クリム・ハン国の中枢は、ハン(汗)と王族(ギライ家)による世襲君主制です。王位継承は長幼順に限られず、王族間の合議と有力貴族の承認、オスマン皇帝の勅許(バイラメ)という政治儀礼の重層で決まりました。ハンの下に、王族の高位職カルガ(kalga、第一継承者)とヌレッディン(nureddin、第二継承者)が置かれ、軍政の分担と地域統治の安定を図りました。
貴族層の中核は「四大ベイ」と総称される氏族—シリン(Şirin)、バリン(Barın)、アルグン(Argın)、キプチャク(Qıpçak)—で、彼らは草原の武力動員、課税・徴発、司法の初審を担い、ハン権の支柱でした。イスラーム法(ハナフィー法学)にもとづく裁判を行うカーディー(判事)と、ウラマー(法学者・説教師)が都市と村落に配備され、聖職者のワクフ(寄進財)も社会的機能を果たしました。都は当初サラチク、のちにバフチサライに置かれ、宮殿・モスク・マドラサ・庭園が整い、テュルク=イスラーム的宮廷文化の中心となります。
住民構成は多層的です。主体はクリミア・タタール人で、半島内のタタール(タタル=ヤイラや山間のタタール農民)と草原のノガイ遊牧民で生活様式が異なりました。そのほか、ギリシア人、アルメニア人、カライム(カライ派ユダヤ教徒)、ユダヤ人、ルテニア人、スラヴ系農民、ジェノヴァ系の末裔などが居住し、言語・宗教の多様性が日常の商工・手工業を支えました。
軍事と対外関係:草原の機動力、オスマンとの同盟、東欧の境界戦争
軍事の中核は、騎射を得意とする軽騎兵で、草原の機動戦に卓越していました。半島の喉元ペレコープ(オル=カピ)には土塁と堀から成る防壁が築かれ、ステップと半島の交通を制御します。ハン国はオスマン帝国の従属国として、オスマンのバルカン遠征やペルシア戦線に援軍を出す一方、独自にポーランド=リトアニア共和国やモスクワ国家(のちロシア)との国境紛争・略奪・捕虜交換を繰り返しました。
16世紀のデヴレト1世ギライは、ロシアの南下に対抗してモスクワに攻勢をかけ、1571年にはモスクワ郊外に侵入して市街を焼き払う戦果を挙げます(翌1572年モロジの戦いでは敗北)。ハン国の遠征は「クリム=ノガイ襲撃」と呼ばれ、草原の隘路—川と湿地を知り尽くす軽騎兵が、季節風を背に迅速に移動して村落や農地を襲い、捕虜と家畜を連れ帰るものでした。捕虜は身代金や労働力として流通し、黒海沿岸の市場(ケフェなど)で売買されました。こうした襲撃は東欧の農村社会にとって深刻な脅威であると同時に、ハン国にとっては軍事—財政システムの一部でもありました。
北の境界では、コサック勢力(ザポロージャ・コサック)とハン国が、時に対立、時に同盟を結び、ドニエプル・ドン流域の勢力図は流動的でした。ポーランド=リトアニア、モスクワ、オスマン、ハン国が三角・四角にらみで均衡を取るなか、17世紀にはロシアの火器・要塞網の発達が、草原騎兵の侵入を徐々に困難にしていきます。
経済と都市:草原の遊牧と半島の商工、黒海の中継貿易
ハン国の経済基盤は二重構造でした。草原地帯では遊牧と半農半牧が主で、羊・馬・牛の群れと季節移動が家産の核を成しました。半島内では、果樹園・ぶどう・穀物・塩田(シヴァシュ沿い)・漁業・皮革など多様な生産が営まれ、山間の村落はテラス農業で自給を支えました。都市では、鍛冶・革・絨毯・陶器・銅器などの手工業が盛んで、ギルド的な職能組織(エスナーフ)が存在しました。
交易の回路では、ケフェ(フェオドシヤ)、ケルチ、バフチサライ、ゲヴレク=メナレ(エヴパトリア)などの港・市が結節点となり、黒海—地中海—カフカス—ステップの物資が行き交いました。塩・穀物・皮革・毛皮・蜂蜜・蝋、そして最も利潤の大きい捕虜奴隷が輸出され、代わりに織物・金属製品・奢侈品・貨幣が流入しました。オスマンの関税・港湾統制のもとで、ハン国の徴税(十分の一税、交易税、橋税)と王族・貴族の私財収入が絡み合う複雑な財政構造ができあがりました。
衰退の過程:露土戦争、条約、そして併合
17世紀後半以降、ロシアは南下政策を加速させ、砦と定住農業の前進でステップの軍事地理を塗り替えました。アゾフ海岸の掌握(ピョートル1世期)、ドン・ドニエプル下流域の要塞線の整備は、ハン国の機動力を殺ぎ、遠征の射程を縮めます。18世紀に入ると、露土戦争(1710年代、1735–39年、1768–74年)が相次ぎ、クリミアはたびたび戦場となって荒廃しました。ミュンニッヒのロシア軍は1736年にペレコープを突破し、半島内へ侵攻、都市と田園は延焼と略奪にさらされます。
決定的だったのは、1768–74年の戦争と、その終結を画するキュチュク・カイナルジャ条約(1774年)です。この条約はハン国の「独立」を名目的に承認しましたが、実質的にはロシアの影響下に置かれ、宗主国オスマンとの紐帯は弱まりました。王位継承と貴族派閥の分裂、ロシア軍の介入、貢納・関税の減少、捕虜供給の途絶などが重なり、統治の求心力は急速に低下します。1783年、エカチェリーナ2世はクリミア併合を宣言し、ハン国は国家としての幕を閉じました。併合後、ギライ家は追放され、宮殿やワクフ財産は帝国の制度に組み込まれます。
文化と遺産:バフチサライの宮殿、イスラーム学知、記憶の位相
ハン国の文化遺産を象徴するのが、バフチサライ宮殿です。中庭(ハレム)、来賓の間(ディヴァーネ)、噴水(プーシキンが詩『バフチサライの泉』で詠んだ泉)、モスク、マドラサ、霊廟(トゥルベ)が一帯を成し、テュルク=イスラーム建築とクリミアの自然素材が調和しています。学知の面では、法学・神学・修辞学などのマドラサ教育が行われ、書写室・図書蔵が機能しました。スーフィー教団のロッジも都市と農村に点在し、宗教実践と地域共同体を結びました。
言語はクリミア・タタール語(テュルク語派)で、半島方言・ノガイ方言などの差を持ちながら、宮廷・宗教・商業の標準が形成されました。食文化では、チェブレキ、ピラウ、葡萄葉包み、乳製品、クミスなど、遊牧と地中海世界の要素が重なります。音楽・詩(アーシュクの口承詩)も盛んでした。
ハン国滅亡後、クリミア・タタール人は帝政期にトルコ・ドブロジャ・中東へ大規模移住を強いられ、半島内の人口構成は大きく変化します。ソ連時代の1944年には、ドイツ占領期の協力を口実にクリミア・タタールの全民族追放(中央アジアへの強制移住)が断行され、甚大な犠牲を出しました。1989年以降、帰還運動が進み、モスクや墓所の修復、言語教育の再建が始まります。ハン国の歴史は、帝国と民族、宗主権と自治、移動と定住のせめぎ合いの記憶として、今日の政治と文化の議論に生きています。
意義:黒海世界の結節点に立つ「境界国家」の作法
クリム・ハン国を学ぶ意義は、第一に、金帳汗国の解体からオスマン—ロシアの覇権競合へと続く黒海世界の長期的変動を、地域国家の視点からつかめることにあります。第二に、遊牧軍事力・捕虜経済・港湾中継貿易という三つの回路を組み合わせた国家運営の具体像が見えること、第三に、宗主国との従属関係(ヴァッサレッジ)を外交資源として使いこなす「境界国家の作法」が読み取れることです。ハン国は、帝国史の陰に隠れがちな地域システムの論理を、最も鮮明に示すケーススタディの一つなのです。
まとめ:海と草原の交差点—クリム・ハン国の歴史像
クリム・ハン国は、海の交易と草原の機動、イスラームの法と遊牧の慣習、オスマンの宗主権と自立の志向が重なり合う場所に立っていました。ギライ家の宮廷と四大ベイの武力、カッファの市場とバフチサライの泉、ペレコープの土塁と草原の風—それらの組み合わせが、三世紀余の時を支えました。やがて砦と火器、近代国家の行政力の前に、騎兵の優位は後退し、黒海の覇権は塗り替えられます。それでも、ハン国の遺した文化的・制度的・記憶的な層は、今日のクリミアと黒海世界を理解する鍵であり続けます。海と草原の交差点、その歴史を丁寧に読み解くことが、現代の複雑な境界政治を見通す目を養ってくれるのです。

