アレクサンドル2世の暗殺は、1881年3月1日(ロシアのユリウス暦。グレゴリオ暦では3月13日)にサンクトペテルブルク中心部で発生した爆弾テロで、皇帝は冬宮に搬送されたのち同日薨去しました。首謀は革命的地下組織「人民の意志(ナロードナヤ・ヴォーリャ)」で、綿密な尾行・配置とニトログリセリン爆薬を用いた投擲爆弾により、護衛の薄い隙を突く作戦でした。事件は改革の旗手であった皇帝の生涯を断ち、直後に即位したアレクサンドル3世の反動政策と治安機構の強化を招き、ロシア近代の方向を大きく転換させました。暗殺はまた、政治的暴力の技術と心理を変えた画期であり、19世紀末から20世紀のテロリズムのプロトタイプとして世界史的に位置づけられます。
前史:未遂事件の連鎖と「人民の意志」の戦術
暗殺に先立つ数年、皇帝個人を標的とする試みが相次ぎました。1879年4月、元教師のアレクサンドル・ソロヴィヨフが街頭で銃撃を試みて失敗し、同年11月には皇帝の移動列車を爆破するため、線路に仕掛けた地雷が作動するも列車が別線を通過して難を逃れました。翌1880年2月には木工職人ステパン・ハルトゥーリンが冬宮の作業員に偽装して爆薬を持ち込み、食堂直下で爆発させて多数の死傷者を出しましたが、皇帝は偶然席に着いておらず無事でした。
これらの作戦は、農村啓蒙を掲げたナロードニキ運動の一派が地下化し、都市ゲリラとして再編された「人民の意志」によって主導されました。彼らは警察の監視や情報提供者への対抗として、偽装・尾行・分業を徹底し、爆弾技術の開発にも力を注ぎます。爆薬の設計はメンバーのニコライ・キバリチチが担い、化学と金属加工に基づく改良が重ねられました。1881年作戦では、皇帝の帰路が二通りあることに着目し、片方の道(小サドヴァヤ通り)には地下坑道を掘って地雷を、もう一方の道(カテリーナ運河〈現グリボエードフ運河〉沿い)には投擲班を配置する二重経路作戦が用意されました。
指揮は革命家アンドレイ・ジェリャーボフが担いましたが、決行直前に逮捕され、現場の総指揮はソフィア・ペロフスカヤが引き継ぎました。彼女は交差点ごとに見張りを立て、皇帝の進路を確認して配置に合図を出す役割を負いました。
3月1日の作戦と現場:第一爆発、降車、第二爆発、冬宮へ
当日、皇帝はミハイロフスキー馬練兵場での閲兵からソリで帰路につき、警護の近衛騎兵とともにカテリーナ運河沿いを進みました。ペロフスカヤの合図で、投擲班の一人ニコライ・リサコフが皇帝のソリ前方に爆弾を投げ、爆発で近衛と通行人が負傷、ソリが大破しました。皇帝は自ら負傷者の様子を見ようと車から降り、周囲に歩み寄ります。
この瞬間を狙って、別の投擲者イグナチー・グリネヴィツキーが皇帝の足元近くに二つ目の爆弾を投げ、爆発は皇帝の下肢と腹部に致命的な損傷を与えました。グリネヴィツキー自身も重傷を負ってその日のうちに死亡し、リサコフは現場で拘束されます。皇帝は近くのそりで冬宮へ運ばれ、血を流し続けながら医師団の治療を受けましたが、ほどなく薨去しました。遺体の周囲には破片と血痕が残り、現場は「文明と暴力の衝突」の象徴的な光景として記録されます。
なお、もう一方の小サドヴァヤ通りの地雷班は、皇帝が運河沿いの経路を選んだため作動の機会を得ませんでした。二重の罠は、その一方だけで目的を達したのです。
捜査・裁判・処刑:ネットワークの解体と象徴化
直後の捜査は、現場で逮捕されたリサコフの自白と、既に警察が把握していた容疑者群の尾行情報をつなぎ、指揮系統と作戦準備の過程を明らかにしました。爆弾製作者のキバリチチ、組織の理論家ニコライ・ミハイロフ、現場指揮のペロフスカヤ、当初の首謀者ジェリャーボフらが逮捕・起訴され、1881年4月3日(グレゴリオ暦15日)に絞首刑が執行されました。裁判過程で彼らは政治的主張を展開し、特にキバリチチは処刑直前まで爆薬とロケット推進に関する覚書を執筆したと伝えられ、近代科学と政治的暴力のねじれた接点を象徴しました。
「人民の意志」は地下新聞や宣言で、皇帝暗殺を「人民の自己解放のための手段」と正当化しましたが、組織の損耗は深刻で、厳格な取締りの中で指導的ネットワークは崩壊へ向かいます。以後、ロシアの革命運動は、民衆蜂起をめざす潮流、労働運動へ軸足を移す潮流、民族運動に交差する潮流などへと分岐していきました。
政治的帰結と歴史的評価:改革の挫折、反動体制、そして記憶
暗殺の政治的帰結は即時的かつ大きいものでした。事件前日までに、内務大臣ロリス=メリコフが、中央立法過程に社会代表(ゼムストヴォ・市会議からの選出者)を限定的に参加させる諮詢機関の設置案をまとめ、皇帝が原則裁可したとされます。これは議会主義には遠いものの、専制の自制と官僚制の開放へ踏み出す可能性を秘めていました。しかし皇帝の死により、この線は断たれます。
即位したアレクサンドル3世は、1881年4月の「不動の専制」を宣言する詔書で路線を明確化し、同年には「治安維持に関する臨時規則」を公布して、非常権限下での逮捕・追放・集会規制を広範に認めました。秘密警察制度は再編され、皇帝直属の第三部が廃される一方、内務省警察部のもとに保安局(通称オフラーナ)が整備され、各都市に分局が置かれて政治警察が制度化されます。大学自治と出版の自由は制限され、ゼムストヴォ・市会議の選挙規則も貴族優位へ改められました。こうして、アレクサンドル2世の改革で生成された公共圏は、強い圧力の下で収縮していきます。
歴史的評価は二重の視角を必要とします。第一に、暗殺はテロリズムの近代化を画し、都市空間・保安警備・爆薬技術・メディア世論の相互作用を通じて、少数者が政体全体に打撃を与えうることを証明しました。第二に、それは同時に改革の挫折を招き、専制の自衛反応を強めた結果、立憲化の機会費用を増大させました。皇帝個人の暗殺が、かえって政治の閉塞を長引かせる—この逆説は、後代の革命運動の内省にも影を落とします。
記憶の領域では、現場近くに「血の救世主教会」(正式名・スパース・ナ・クロヴィ)が建てられ、皇帝の死を悼む宗教的モニュメントとして都市景観に刻まれました。一方、革命側の記憶では、ペロフスカヤらが殉教者として語り継がれ、文学・映画・歴史叙述における象徴性を帯び続けています。いずれにせよ、1881年の爆発は、国家・都市・市民・革命の関係を一変させる境界線となりました。
学習の要点と用語整理:年号・人物・場所・制度を結ぶ
学習では次の骨組みを押さえると理解が安定します。①年号と暦:1881年3月1日(ユリウス暦)=3月13日(グレゴリオ暦)、同年4月3日(=4月15日)の処刑。②人物と役割:現場指揮ペロフスカヤ、首謀ジェリャーボフ、投擲者リサコフ/グリネヴィツキー、爆弾設計キバリチチ、前段のハルトゥーリン(冬宮爆破)、未遂のソロヴィヨフ。③地理:カテリーナ運河(現グリボエードフ運河)沿い、ミハイロフスキー馬練兵場、冬宮。④用語:人民の意志、二重経路作戦、臨時規則、保安局/オフラーナ、ロリス=メリコフ案、「不動の専制」詔書。⑤因果:未遂の連続→警備の形骸化と手順化→二重経路への罠→暗殺成功→反動と治安強化→公共圏の収縮、という流れです。
総括すると、アレクサンドル2世の暗殺は、個人の決断と制度の方向を一挙に変えた出来事でした。改革の推進者を暴力で失うことが、直ちに改革の加速を意味しないどころか、逆方向の帰結をもたらしうることを、ロシア史は雄弁に示しています。事件の具体像(人・場所・技術)と、政治社会への波及(法・治安・記憶)を結びつけて叙述することが、この用語を深く理解する近道です。

