強制栽培制度(Cultuurstelsel/栽培制度)は、オランダ領東インド(主としてジャワ島)で1830年代から導入された植民地経営の方法で、村落に輸出向け換金作物の栽培を義務づけ、政府が定める価格で買い上げる仕組みのことを指します。農民は村の耕地の一部(教科書的には「およそ五分の一」と説明されます)をサトウキビ・コーヒー・藍などの栽培に充てるか、年間一定日数の労働に従事することを求められました。収穫物は政府が一括して輸出し、その利益は本国オランダの財政再建に回されました。制度の名は「栽培制度」とも訳されますが、実態としては強制と統制を伴い、地域や時期によっては過重な負担が農民にのしかかったため、日本の歴史教育では「強制栽培制度」と呼ぶのが一般的です。
この制度は、単なる農業技術の指導ではなく、税制・労役・流通・治安・行政を一体化した統制のパッケージでした。現地の有力者(摂政=レジャン)や村長層を統治の歯車に組み込み、官民のボーナス制度や歩合(栽培成績に応じた報奨)で動機づける点に特徴がありました。制度の表向きの原則では「食用作物の耕作面積は十分に確保し、過重な負担を避ける」とされましたが、実際には景気・天候・地方官の姿勢によって運用に大きな幅があり、豊凶や病害、輸送事故が重なると飢饉や疫病が発生することもありました。以下では、成立の背景、仕組みと運用、経済的成果と社会的影響、批判と転換という順に詳しく説明します。
成立の背景―オランダ財政とジャワの再編
強制栽培制度が導入されたのは、ナポレオン戦争後の国家再建というオランダ側の事情が大きかったからです。18世紀末以来、オランダ東インド会社(VOC)は財政難と腐敗で解体に追い込まれ、植民地統治は本国政府が直接担う体制に切り替わりました。しかし戦費と植民地維持費は重く、19世紀初頭のオランダ本国は慢性的な財政赤字に悩まされます。加えてジャワでは、1810年代の英領期(ラッフルズ統治)に土地税(ランド・レント)と自由栽培の試みがなされましたが、徴税の不安定さと治安の不確実性が残っていました。
1830年、新任の総督ファン・デン・ボスが打ち出したのが強制栽培制度でした。彼は現地の伝統的指導層(摂政・村長)を行政に組み込み、村単位の責任で換金作物の作付面積と収穫の割当を達成させる方式を採用しました。これにより、中央政府は細密な官僚網を増やすことなく、既存の村落秩序を利用して収奪と供給を安定化できると考えられたのです。制度はまずジャワの中部・東部を中心に展開し、のち地域の事情に応じて拡大・修正されました。
仕組みと運用―作付義務・買上・報奨・統制
制度の中心は、村落に対する作付義務と労働義務です。原則として、村の耕地のおよそ20%を輸出作物の栽培に充てるか、または(あるいは併用で)村人一人につき年間60~90日前後の労働提供を課す建て付けでした。実際の比率や日数は地域ごとに差があり、肥沃度や水利、既存の作物体系に応じて修正されました。対象作物は、サトウキビ、コーヒー、藍、茶、キナ(のちの時期)、タバコ(地域限定)などで、とくにサトウとコーヒーが柱でした。政府はこれらを定められた価格で買い上げ、運搬・保管・輸出を一元管理しました。
現場の推進力となったのが、地方官と現地名望層への「栽培歩合(いわゆる栽培プロセント)」です。割当を達成すると、官吏や摂政、村長には金銭や名誉の報奨が与えられ、逆に未達の場合は叱責や罰が科されました。これにより、現地指導層は村人の労働動員や土地配分に強い権限を持ち、期日までに収穫と出荷を終えるため、食用作物の作付を削ってでも達成を優先するインセンティブが働きがちでした。
物流面では、運河・道路・港湾・倉庫の整備が進み、砂糖の場合は政府と契約した精糖工場(製糖所)が各地に建てられました。官側は技術指導や苗の配給、農具・牛車の貸与を行い、灌漑工事や苗畑の設置も推進しました。表向きは「開発」と「指導」が強調されましたが、費用や労力の多くは村に転嫁され、輸送や工場労働も半強制的に動員されることがありました。病害虫や気象災害に直面した年には、割当達成のために再動員が繰り返され、農民の生活は逼迫しました。
法制度のうえでは、食用作物の耕作面積を侵さない、労役は上限日数を守る、過重な負担を避ける、といった保護規定が掲げられました。また不適地では現金納付や軽減も想定されました。ところが、統計・監査・司法救済の仕組みが脆弱な地域では、紙の上の原則が現実に徹底されず、地方官や請負人の裁量が強く働きました。その結果、村によって負担の濃淡が大きく、同じ制度のもとであっても体験の差は著しかったのです。
経済的成果と社会的影響―「黒字」と犠牲の並存
強制栽培制度は、短期的にはオランダ本国に巨大利益をもたらしました。政府は買上価格と海外販売価格の差益、関税・運賃・保険・金融から収入を得て、いわゆる「植民地黒字(バティフ・サルド/バティグ・スロット)」で財政赤字を穴埋めしました。19世紀中葉にはオランダ国家歳入の重要部分が東インド依存となり、国内の鉄道・運河・公共事業にも資金が回りました。ジャワ側でもインフラ整備や現金経済の浸透、技術の移転、都市商業の活性化という正の側面がありました。
しかし、その背後には大きな社会的犠牲がありました。第一に、食用作物の作付が削られた地域では、米の不足と価格高騰が起こりました。第二に、労働の季節配分が換金作物中心に傾き、農繁期に人手が不足する「手間取り」が常態化しました。第三に、輸送と現金納入の責任が村に課され、未達成分の補填として家財の差押えや強制労働の延長が行われる事例も生じました。病害や異常気象が重なった年には、局地的な飢饉やコレラの流行が記録され、死亡率の上昇と人口の停滞が観察された地域もあります。
社会構造にも変化が生じました。村落内部では、土地や水利にアクセスの良い家とそうでない家の格差が拡大し、現金収入を得た層は小規模な商業や貸付に進出しました。一方、負債に苦しむ家は土地の権利を失い、賃労働や出稼ぎに頼る割合が増えました。従来から存在した共同体の相互扶助は、強いノルマと現金需要の圧力の下でひずみ、村の指導層が官の代理人としてふるまうため、内部対立が深まることもありました。
文化面では、換金作物の栽培技術や工場労働の経験が蓄積され、道路網・港湾の整備は市場との接続を強めました。同時に、労働動員の常態化は、近代的な「時間管理」や「監督」の観念を農村に持ち込み、日常のリズムや儀礼の暦にまで影響しました。宗教行事や冠婚葬祭の日時が調整を迫られるなど、生活文化の再編が静かに進行したのです。
批判と転換―文学の告発から自由主義政策へ
1850年代以降、制度への批判は国内外で強まりました。オランダの作家ムルタトゥリ(筆名、実名エドゥアルト・ドゥフイース・デッケル)は、官僚としての現地体験を基に『マックス・ハーフェラール』(1860)を発表し、ジャワの村々で栽培割当がどのように不正と暴力を生むかを告発しました。彼の作品は大きな衝撃を与え、議会での追及や調査報告、制度改正の議論を促しました。ヨーロッパの自由主義的世論の広がり、米英などとの貿易・投資関係の変化も、独占的な官主導の制度を見直す圧力となりました。
1860年代から70年代にかけて、強制栽培制度は段階的に緩和・解体へ向かいます。コーヒーや藍の独占は縮小され、砂糖部門では官の統制を残しつつも民間契約の比重が増しました。決定的だったのは、1870年のアグラリア法(農業法)といわれる立法で、これにより植民地での民間投資とプランテーション経営(長期租借)が制度的に後押しされ、「自由主義政策(リベラル・ポリシー)」への転換が進みました。以後、スマトラなど他島部では私企業主導のタバコ・ゴム・パーム油などの大規模プランテーションが急拡大し、ジャワの強制栽培制度は歴史的役割を終えます。
ただし、制度の終焉は直ちに農民の自由と福祉の向上を意味しませんでした。私企業の利益追求は別種の労働規律と土地収奪を生み、契約労働(クーリー)をめぐる新たな問題が現れます。20世紀初頭の「倫理政策」は、教育・灌漑・移住(トランスミグラシ)で農村の改善を図ると称しましたが、植民地的開発の限界は根深く、社会運動や民族運動の高まりが植民地支配そのものの正当性を問う段階へ進んでいきました。
総じて、強制栽培制度は、19世紀植民地経営の典型として、国家財政・官僚制・在地社会の三者を結びつけた巨大な仕組みでした。短期には輸出と歳入を伸ばし、道路・港湾・工場などの近代的インフラを押し広げましたが、その費用は多くの場合、農民の生活とリスクに転嫁されました。制度が残した矛盾と経験は、文学・政治・経済の領域に長く影を落とし、のちの自由主義政策や倫理政策、さらには独立運動の思想と実践にも継承されていきます。歴史を学ぶ上では、統計の「成功」と現場の「負担」を併せて見る複眼的な視点が欠かせないと言えるでしょう。

