ヴ・ナロード(人民のなかへ) – 世界史用語集

「ヴ・ナロード(人民のなかへ)」は、19世紀ロシア帝国で農奴解放後の1870年代に高揚したポピュリズム(ナロードニキ)運動のスローガンと実践を指す言葉です。都市の学生・知識人・職工見習いなどが農村へ赴き、農民共同体(オーブシチナ)に住み込みながら教育・医療・法務相談・合作の導入・宣伝工作を試み、国家の上からの近代化に対して「下からの社会変革」を目指しました。実際には、農民の多くが外来の啓蒙者に懐疑的で、行政も治安強化で臨んだため、運動は挫折と弾圧、内部分裂を経験しますが、その過程からテロを辞さない「人民の意志(ナロードナヤ・ヴォーリャ)」や、のちの社会革命党、さらにはマルクス主義への転向など、ロシア革命史を貫く諸潮流が派生しました。「人民のなかへ」とは、田園への理想化と、共同体的社会主義への期待、インテリゲンツィヤの道徳的使命感が結晶した合言葉でした。本稿では、起源と背景、運動の展開と手法、思想的分岐と論争、影響と歴史的意義を、専門用語に偏りすぎない言葉で整理して解説します。

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起源と背景――農奴解放後の社会とインテリゲンツィヤの焦燥

1861年の農奴解放令は、ロシア帝国の農村秩序を大きく揺さぶりました。法的には身分的隷属が廃止され、村落共同体が土地の割替と納税を管理する体制が整えられましたが、実際には赎買金(償還金)負担と耕地の細分化、地主優位の条件設定が農民の生活を圧迫しました。鉄道建設や都市工業が伸びる一方、農村の停滞と飢饉の記憶は残り、地方自治の制度(ゼムストヴォ)も地域差が大きかったです。こうした状況で、都市の若い知識人や学生たちは、上からの改革だけでは社会の正義が実現しないと考え、「人民」の側に立つ実践を模索しました。

思想的な準備を促したのは、ラーヴロフとバクーニンという二つの系譜でした。ラーヴロフは、教育と特権を受けたインテリゲンツィヤが歴史に対して負う「道徳的負債」を強調し、人民の生活に寄り添う啓蒙と自己犠牲を説きました。バクーニンは国家と権威の破壊を唱え、農民の自然発生的反乱に革命の主体を見ました。さらにツルゲーネフの文学やチェルヌイシェフスキー『何をなすべきか』の理想的共同体像が、若者の想像力をかき立てました。農民共同体(オーブシチナ)が土地の共同所有を保持していることは、「西欧資本主義の段階を飛び越えてロシア固有の社会主義へ至れるのではないか」という期待を呼びました。

組織面では、1860年代後半から都市サークルが形成され、読書会と手工の訓練、田園への派遣の準備が進みました。医療・測量・教師・工匠などの技能を身につけ、身なりと言葉遣いを農民に近づける努力が払われました。こうして1873〜74年、数千人規模の若者が各地の村へ散っていく大波となり、これが狭義の「ヴ・ナロード(人民のなかへ)」の始発点とされます。

運動の展開と手法――教育・協同・宣伝、そして弾圧と裁判

現場での活動は多岐にわたりました。寺子屋的な読み書き教室、算術や衛生の講習、簡単な医療行為、獣医や助産の支援、測量と土地割の助言、協同組合・信用組合の発案、さらには農具の改良や小規模工房の開設など、生活に即した「改革の種まき」が志向されました。同時に、反ツァーリ的なビラ・冊子の配布、説教的な対話、税・徴兵の不正への抗議など、政治的含意の強い行動も並行しました。活動の成否は村の力学に左右され、長老や司祭、郡役人との関係構築が鍵となりました。

しかし、農民の反応は一様ではありませんでした。外から来た若者は、時に「怪しい扇動家」と見なされ、密告や排斥に遭うことも多かったです。農民の関心は土地配分・税・徴兵・飢饉対策といった現実の利害に集中し、抽象的な革命論には冷淡でした。運動側も、農民文化への無理解や、共同体の保守性を過小評価する傾向がありました。ゼムストヴォの一部改革派とは協働もありましたが、全体としては国家の監視が強まり、1874年の大規模検挙、1877年の「193人の裁判」など、見せしめ的裁判が続きました。長期の未決拘留と流刑は運動の人材と士気を削り、合法的な社会活動の余地を狭めました。

弾圧の圧力下で、運動内部は手段と目標をめぐって分岐します。合法的教育・協同を続ける路線と、直接行動・反乱扇動を選ぶ路線が緊張し、さらに秘密結社的な細胞組織が整えられていきました。1876年のカザン広場事件に象徴される街頭デモ、地方での徴兵反対・地租軽減を訴えるビラの散布などは、運動の「政治化」を加速します。

思想的分岐と論争――「土地と自由」から「人民の意志」へ、そしてマルクス主義へ

1876年、各派を束ねるべく「土地と自由(ゼムリャ・イ・ヴォーリャ)」が再結成され、農民の土地要求を中心に据えた宣伝と秘密活動が進められました。しかし、蜂起の準備とテロ戦術をめぐる対立は深まり、1879年に分裂が決定的になります。穏健に農村工作と自治の浸透を図る「黒い再分配(チェルヌイ・ペレデール)」と、政治的要人への懲罰・抹殺を戦術に採る「人民の意志(ナロードナヤ・ヴォーリャ)」に分かれたのです。

「人民の意志」は、地下組織を緻密に再編し、通信・偽造・爆薬・諜報の技術を磨きました。1881年3月1日、彼らはついにアレクサンドル2世の暗殺に成功します。これは歴史的なインパクトを残しましたが、同時に激しい弾圧を招き、指導部は逮捕・処刑され、組織は短期間で壊滅的打撃を受けます。テロが人民の蜂起へ橋渡しするという戦術的期待は実現せず、国家は反動化し、検閲と警察権力は強化されました。

一方、「黒い再分配」は、マルクス主義の影響を徐々に受け、農民共同体を革命の主体とみなす観点から、都市労働者階級を重視する見方へと軸足を移す人々を生みました。プレハーノフはその代表で、のちにロシア・マルクス主義の父と呼ばれる位置を占めます。19世紀末、ナロードニキの一部は社会革命党(エスエル)へ受け継がれ、農民テロと地方自治の強化、土地社会化を主張する潮流となります。他方、レーニンらは労働者党の建設に向かい、農村への道徳的浸透より、都市プロレタリアの組織化と前衛党の必要を強調しました。

この思想的論争の根には、ロシア固有の共同体的伝統を革命の起点にできるのか、それとも資本主義の発展段階を媒介にせざるを得ないのか、という発展史観の対立がありました。「ヴ・ナロード」は前者の希望を体現しつつ、現実の農村の多様性と保守性、国家の統合力の前で修正を迫られたといえます。

影響と歴史的意義――道徳の政治、地方からの視線、そして長い余韻

「人民のなかへ」の経験は、いくつかの長期的影響を残しました。第一に、インテリゲンツィヤの自己像です。教育と特権を得た者が人民に奉仕し、共に生きるという規範は、20世紀のさまざまな社会運動・地域医療・農村協同に通じる倫理を育てました。実践の中で培われた読み書き教育、衛生指導、小規模金融や合作の技術は、政治の成否を越えて地域社会に痕跡を残しました。

第二に、国家と社会の関係の学びです。上からの改革と下からの運動の相互作用、警察・裁判・検閲の制度が政治文化を規定する力、合法と非合法の境界で生まれる新しいネットワーク――これらは後の革命運動、さらにはソ連期の政治文化にも影を投げました。「人民の意志」のテロは、政治的効果の限界と反動の誘発という逆説を体現し、暴力と大衆動員の関係をめぐる議論の素材となりました。

第三に、知識と現場の往還です。運動は多くの挫折を味わいましたが、農村調査や民俗採集、経済統計の萌芽は、のちの社会科学的な地域研究へと連なります。農民の生活世界に耳を傾ける態度、共同体の自治規範への関心、女性や若者の役割の再評価など、学知の焦点を都市中心から郡村へ移す視線を強めました。女性活動家の参加は顕著で、医師・教師・看護・宣伝に携わった多くの女性が、ジェンダー規範の壁を実践で押し広げました。

第四に、記憶と物語です。「ヴ・ナロード」は文学・回想録・伝記・映画で繰り返し語られ、清貧と献身、純粋さと悲劇、無理解と誤解の両義性が、世代ごとに新しい解釈を呼びました。ソ連期にはナロードニキ像は批判と称揚の間で揺れ、共同体的伝統の評価やテロ戦術の是非をめぐる議論は、政策とイデオロギーの変化を映しました。ポスト・ソ連期には、地方の自律や市民社会の再建の文脈で改めて読み直されています。

最後に、語そのものの整理です。「ヴ・ナロード」はロシア語の前置詞+名詞の形で、直訳すれば「人民(民衆)の中へ」です。運動の実名としては「人民主義者(ナロードニキ)」が一般的で、1873〜74年の大量下郷運動を特に「ホジュジェーニエ・ヴ・ナロード(人民のなかへ〈行くこと〉)」と呼びます。似た語の「人民の意志(ナロードナヤ・ヴォーリャ)」は、分岐後の秘密結社の名であり、同義ではありません。用語の区別を押さえることが、歴史像の輪郭を正しく捉える助けになります。

総じて、「ヴ・ナロード(人民のなかへ)」は、道徳的情熱が社会の構造とぶつかった地点を示す歴史用語です。インテリゲンツィヤが人民の生活世界へ降り、共に働き学ぶことで変革を起こそうとした試みは、成功と失敗を併せ持ちながら、ロシアの近代に深い刻印を残しました。農村の現実、国家の力、暴力の誘惑、知識の責任――これらの交点に立って、私たちは「人民のなかへ」という言葉がいまなお孕む問いを、現在の社会運動や地域づくりの文脈に引きつけて考えることができるのです。