香料諸島(モルッカ諸島) – 世界史用語集

香料諸島(こうりょうしょとう、モルッカ諸島・Maluku/Moluccas)は、クローブ(丁子)とナツメグ(およびメース)の原産地として中世以降の世界経済を動かした群島です。インドネシア東部、スラウェシ・ニューギニア(パプア)・セラム・ハルマヘラに囲まれた「ウォーレシア(生物地理区)」に位置し、火山・深海海溝・多雨林が織りなす独特の自然環境を持ちます。中世のイスラーム商業圏ではテルナテ王国・ティドレ王国などの香料産地がマラッカやグジャラート、紅海・地中海へ香辛料を送り、ヨーロッパでは薬用・保存・香味料として高価に取引されました。16世紀初頭にポルトガルが到来し、17世紀にはオランダ東インド会社(VOC)がほぼ独占を確立、イギリス東インド会社と激しく争います。バンダ諸島での強制的独占と住民虐殺、アンボイナ事件、1667年ブレダ条約(「マンハッタンとルン島の交換」で知られる)など、近代初頭の帝国主義と企業統治の縮図がこの小群島に凝縮しました。19世紀には苗木の流出と世界的移植により独占が崩れ、20世紀には植民地統治からインドネシア独立へ、内戦と和解を経て、現在はマルク州・北マルク州として豊かな生物多様性と多民族文化をたたえる地域となっています。

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地理・自然環境──ウォーレシアの火山弧と香辛料の故郷

モルッカは、ユーラシア・インド・太平洋のプレート境界が複雑に絡み合う島弧帯に位置します。テルナテやティドレ、バチャンなどの小島は成層火山がそびえ、肥沃な火山土壌と高温多湿の気候がクローブやナツメグの生育に最適でした。クローブは主に北マルク(テルナテ、ティドレ、ハルマヘラ西岸)に自生し、ナツメグ(および仮種皮のメース)はバンダ諸島が原産地です。これらは長らく地域外では結実せず、苗木も管理されてきたため、産地限定の希少性が価格を押し上げました。

生物地理学的には、ここはウォーレシア(アルフレッド・ラッセル・ウォレスが提唱)の中心域で、アジア系とオーストラリア系の生物相が交錯します。オオコウモリ、極彩色の鳥類(セラムコバネミツスイなど)、固有の両生爬虫類、サンゴ礁生態系が共存し、人間による香辛料栽培と海上交易もまた、この環境に適応して発展しました。地震・津波・火山噴火は歴史を通じて反復し、都市・港湾の興亡と人口移動を促してきました。

前近代の香料交易──イスラーム港市とテルナテ・ティドレ

13〜15世紀、イスラームはマレー世界に普及し、マラッカ王国やアチェ、ジャワ北岸港市群と結びついた香料交易網が形成されました。テルナテ王国とティドレ王国は互いに競合と同盟を繰り返し、ハルマヘラや小島の生産者を取りまとめてクローブを出荷、陶磁器・綿布・鉄器・銀などの外来製品を受け取りました。生産は小農・村落単位の庭園的栽培で、在地支配者(コラノ/サフ)の徴税と通婚関係が供給の安定を担保しました。香辛料はマカッサルやバンテン、マラッカに集まり、グジャラート商人、アラブ商人、さらにはヴェネツィアを経由して欧州へ運ばれました。

中世末には香辛料の医療・保存・儀礼上の需要が高まり、特にクローブは歯痛・口臭対策や肉の保存料として珍重されました。ヨーロッパ側の供給源は長らく秘匿され、地理学的想像力を掻き立てる「香料の島」の伝説が生まれます。このベールを最初に剥いだのが、インド航路を開いたポルトガルでした。

ポルトガルの到来とマラッカ支配──最初の「ヨーロッパ企業統治」

1511年、アルブケルケがマラッカを攻略すると、1512年にはアントニオ・デ・アブレウ、フランシスコ・セラーニョらがバンダやテルナテに到達し、現地支配者と通商関係を築きました。ポルトガルは要衝に砦を築き、航路・香辛料の積出港を鎖で結ぶ「 Estado da Índia(インド政庁)ネットワーク」を形成します。しかし、軍事的拠点は点在で、現地政治への介入やキリスト教宣教(イエズス会フランシスコ・ザビエルの活動を含む)が対立を招き、テルナテでは反乱に遭うなど、恒久的支配には至りませんでした。

ポルトガルが香料の原産地を西欧にもたらしたことは画期的でしたが、物流の規模とコストで限界があり、さらにスペインとも競合しました。マゼラン艦隊は太平洋を横断してモルッカに到達(1521)し、両国は香料の取り分をめぐってサラゴサ条約(1529)で勢力範囲を画定します。以後、現地ではテルナテ・ティドレ・バチャンなどの勢力とヨーロッパ諸国の多角的抗争が続きました。

VOCの独占と暴力──バンダ諸島・アンボイナ事件・ホンギ遠征

1602年設立のオランダ東インド会社(VOC)は、株式会社と国家権限を併せ持つ特異な存在でした。VOCはアンボンを拠点に香料取引を一本化し、供給独占のために「特定島以外での栽培禁止」「苗木破壊」「輸出許可制」を徹底します。バンダ諸島では、ナツメグの自由貿易を維持したい首長層と衝突し、1621年、総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンの命で武力制圧と住民虐殺・強制移住が実行されました。残された土地はオランダ人請負農(ペルケニール)に分与され、アンボンや他地域からの労働者が働かされました。これによりナツメグは名実ともにVOCの独占商品となります。

1623年のアンボイナ事件では、オランダ当局が「陰謀」の嫌疑で英国人因商と日本人傭兵らを逮捕・処刑し、英蘭対立は深刻化しました。17世紀を通じてVOCは「ホンギ(香料取り締まり)遠征」と呼ばれる武装検閲隊を海域に巡回させ、禁制地のクローブ樹伐採や密貿易の取り締まりを行います。これらは企業利益を守るための制度化された暴力であり、労働と土地支配の強制によって成り立っていました。

英蘭抗争と「ルン島=マンハッタン」──ブレダ条約の象徴性

17世紀前半、イギリス東インド会社(EIC)はバンダの小島ルン島(Run)を足場に抵抗し続けました。英蘭戦争の帰趨を決めたのはヨーロッパ側の海戦でしたが、1667年のブレダ条約で、イングランドは北米のニューネーデルラント(のちのニューヨーク)を保持し、オランダはルン島を含む香料諸島での地位を確保しました。しばしば「マンハッタンと小島ルンの交換」と喩えられるこの合意は、世界の片隅の群島が大西洋世界の都市の運命と直結していたことを示す象徴的事件です。

その後も英蘭の抗争は続きますが、18世紀にはフランスのピエール・プウォーブル(Poivre)がクローブとナツメグの苗をモーリシャスやレユニオンへ持ち出し、19世紀にはオマーン・ザンジバル政権が大規模なクローブ栽培を展開、さらに英国・オランダの植民地園芸試験場が各地で移植を成功させました。こうしてVOCの価格カルテルは崩れ、香料諸島の「世界独占」は終焉を迎えます。

近代の植民地統治とその変容──VOC解散からオランダ領東インドへ

1799年にVOCが解散すると、オランダ本国政府が直轄統治に移行します。ナポレオン戦争期には英国が一時占領(1796・1810など)し、1814年以降に段階的に返還されました。19世紀のオランダ領東インドでは、強制栽培制度(コーヒー・砂糖などジャワ中心)に比べれば香料諸島の比重は低下しますが、アンボンは軍港・教育拠点として機能し、キリスト教会・学校・音楽文化(アンボン人兵士の鼓笛隊など)が地域アイデンティティに影響しました。多島海の交通整備、地方首長制度の再編(在地法と慣習法の編纂)、徴税制度の近代化が進む一方、伝統的生業と市場経済の隙間で貧困・移住が進行しました。

20世紀に入ると、第一次世界大戦後の価格変動と世界不況、第二次世界大戦の日本占領(1942–45)が地域社会を揺さぶります。戦後、インドネシア独立革命(1945–49)を経てマルクは共和国に編入されましたが、1950年に一部勢力が南マルク共和国(RMS)を宣言し武力衝突が発生、のちに亡命RMSがオランダで活動を続けました。冷戦期には宗教・民族間緊張が燻り、1999年以降アンボン周辺で深刻な宗教暴力が起きましたが、和平合意と地方分割(マルク州/北マルク州の設置)を通じて再建が進みました。

社会・文化・言語──多島海に生きる人びと

香料諸島は、オーストロネシア語族(マレー・トラジャ・タラウド等)とパプア系言語が混在する多言語社会で、交易言語としてのマレー語(アンボン・マレーなどの方言)が広く用いられてきました。イスラームはテルナテ・ティドレの王権儀礼と結びつき、キリスト教はポルトガルとオランダの宣教によって都市・島嶼部に根づきました。音楽・舞踊(カケンやトゥカンなどのリズム)、船大工の技(カパル・カラディ)、香辛料を用いた料理(クローブ入りのスイーツや肉料理)、ベータルナット(檳榔)の嗜好など、海と香辛料に支えられた生活文化が息づいています。

土地制度は在地慣習(アドゥァット)と植民地期の登記が重層化し、村落単位の共有林・果樹園(クローブ園)と私有地が併存します。クローブの収穫は世帯経済の柱であると同時に価格変動の影響を受けやすく、国際相場・為替・輸送コストが直撃します。近年はツーリズム(ダイビング・バードウォッチング・歴史遺産巡り)、ナツメグ・クローブ加工品のブランド化、ココナツやカカオとの複合経営など、リスク分散が模索されています。

科学・思想史への足跡──ウォレスの「線」と地球規模の連結

1850年代、博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレスはマルク海域を精力的に踏査し、スラウェシとボルネオ/バリとロンボクの間に動物相の急変線(ウォレス線)を見いだしました。モルッカは彼にとって生物進化の鍵と、経済植物学の現場でもあり、ナツメグ・クローブの在来分布と人為移植が生態系に与える影響の早期観察地でした。香料の化学(オイゲノール等)や防腐効果の研究は食品科学・薬学に広がり、現代のエッセンシャルオイル産業や機能性食品の領域にも接続しています。

世界史的意義──小島が左右した大国の針路

香料諸島の歴史は、局地的資源がいかに世界の政治経済を動かしうるかを示す典型です。クラフト的園芸作物(クローブ・ナツメグ)の地域独占が、海上帝国・株式会社・軍事技術・国際法(条約)・宗教宣教・移民労働と絡み合い、グローバルな制度実験場になりました。VOCの企業統治は、株主利益と国家権力の融合が現地社会に暴力的な帰結をもたらしうることを示し、ブレダ条約は大西洋世界とインド洋世界の交換関係を可視化しました。苗木の流出と栽培地の拡散は、一極独占の終わりと、植物・人・知識が国境を越えて移動する近代の始まりを告げています。

今日、香料諸島は過去の痛みと誇りを抱えつつ、持続可能な観光、海洋保全、伝統文化の継承に取り組んでいます。火山の裾野に立つクローブの古木、波間に浮かぶ香辛料の積出桟橋、砦跡の石垣、モスクと教会の並立——それらは、世界の周縁に見える小島が、実は中心と周縁を結ぶハブであり続けたことを物語っています。香料諸島を学ぶことは、世界史のスケール感を手触りのある素材と匂いに結びつけ、「大航海時代」と「企業統治」の抽象語を、暮らしと景観のレベルに引き戻す作業でもあります。