シュリーヴィジャヤ王国(室利仏逝) – 世界史用語集

「シュリーヴィジャヤ王国(室利仏逝・しつりぶつせい)」とは、7世紀ごろから約600年にわたり、マレー半島南部からスマトラ島東岸一帯を支配し、海上交易を通じて栄えた港市国家・海洋王国のことです。首都はスマトラ島のパレンバン周辺にあったとされ、中国やインド、アラビア世界、日本などを結ぶ「海のシルクロード」の要衝として重要な役割を果たしました。世界史では、東南アジアの港市国家の代表例として、中国史書に見える「室利仏逝」「三仏斉」などの表記とともに紹介されます。

シュリーヴィジャヤ王国の特徴は、広大な陸地を直接支配するのではなく、マラッカ海峡周辺の海上交通路と、沿岸部の港市を押さえることで勢力を広げた点にあります。海峡を通る船に通行料や関税を課し、香辛料・金・錫(すず)、布、陶器などの交易品を仲介することで富を蓄えました。また、インドの仏教、とくに大乗仏教・密教の拠点としても知られ、多くの僧や学者が学びに訪れた国でもあります。

この解説では、まずシュリーヴィジャヤ王国がどのような自然環境と国際情勢の中で成立したのかを見ていきます。つぎに、王国の政治構造や港市ネットワーク、仏教王国としての側面を整理し、続いて中国・インド・中東・日本との対外関係をたどります。最後に、11~13世紀ごろにかけての衰退と、のちのマジャパヒト王国やマラッカ王国へのつながりを確認し、「シュリーヴィジャヤ王国」という用語が東南アジア史・海のシルクロード史の中でどのような意味を持つのかを立体的に理解していきます。

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成立の背景:海のシルクロードとマラッカ海峡

シュリーヴィジャヤ王国が栄えた舞台は、インド洋と南シナ海を結ぶ「海のシルクロード」の要所、マラッカ海峡周辺です。インドから中国へ向かう船は、ベンガル湾からマレー半島南端・スマトラ島北岸を経て、マラッカ海峡を抜け、南シナ海を通って広州など中国の港に向かいました。このルート上に位置する港を押さえることは、東西交易の流れをコントロールすることに等しく、そこに大きな利益が生まれました。

スマトラ島の東岸一帯は、熱帯雨林に覆われた大河の河口デルタ地帯であり、金・錫(すず)などの鉱物資源や、樹脂・香木・胡椒などの産物に恵まれていました。一方で、内陸のジャングルを開発して大規模な農業国家を築くには難しい環境でもあり、むしろ河口や湾に港市をつくり、外からやってくる商人と内陸の物産を結びつける「中継地点」としての発展が適していました。シュリーヴィジャヤ王国は、こうした地理的条件をうまく活かし、川と海を押さえることで勢力を伸ばしたと考えられています。

7世紀ごろ、中国の唐の史書には、スマトラ島の南部に「室利仏逝」という国が現れ、使節を派遣して朝貢してきたことが記録されています。また、同じ頃のインド系碑文からは、「シュリーヴィジャヤ」という名を持つ王が、近隣の港市や海上ルートを支配していたことが読み取れます。さらに、8世紀ごろにはマレー半島東岸(クランタンやチャイヤー周辺)にも勢力を及ぼし、半島側の港市も含めた広いネットワークを形成していたと考えられています。

当時の東南アジアは、扶南やチャンパ、ジャワ島のシャイレーンドラ朝など、多くの港市国家・海洋王国が競合する世界でした。その中で、シュリーヴィジャヤ王国はマラッカ海峡周辺という戦略的な位置を押さえることで、インド洋と南シナ海を結ぶ「中継貿易のハブ」となり、7~10世紀ごろにかけて大きな影響力を持つようになりました。

政治構造と港市ネットワーク、仏教王国としての姿

シュリーヴィジャヤ王国は、中国やヨーロッパのような「広大な陸地をひとつの行政機構で直接統治するタイプの国家」とは少し異なります。むしろ、スマトラ島東岸やマレー半島沿岸に点在する複数の港市(港町)をゆるく束ね、その上に権威を持つ「港市王国」として理解するとイメージしやすいです。中心となる港市はスマトラ島のパレンバン周辺とされますが、王権はそこから周辺の河口や湾にいる首長たちを従え、交易路の安全確保や関税の取り立てを通じて支配を行っていました。

王の権威は、軍事力や富の蓄積に加えて、宗教的な正統性によっても支えられていました。シュリーヴィジャヤ王国は、インドから伝来した大乗仏教・密教の中心として知られ、中国やチベットなどの僧侶たちにとって重要な学問の場となっていました。唐代の高僧義浄は、7世紀後半にインドから中国へ戻る途中、シュリーヴィジャヤに長期滞在し、ここを「南海の仏教学問の中心地」と評しています。彼の記録から、シュリーヴィジャヤには多くの僧や学者が集まり、経典の研究や翻訳が行われていたことがうかがえます。

王は、自らを仏教的な理想王(転輪聖王)に重ね合わせつつ、仏寺の建立や仏教僧団への保護を通じて権威を高めました。港市には仏塔や僧院が建てられ、インドからもたらされたサンスクリット語の碑文が残されています。こうした仏教的権威は、インド洋世界の他地域の商人や僧侶たちとの信頼関係を築くうえでも重要でした。仏教という共通の宗教文化を共有することで、遠く離れた地域の人びととも心のつながりを持つことができたからです。

経済面では、シュリーヴィジャヤ王国は「通行料と仲介貿易」で富を得るシステムを構築していました。マラッカ海峡を通過する船は、シュリーヴィジャヤ王国が支配する港に寄港し、そこで税や関税を支払う代わりに、安全な停泊や補給、交易の機会を得ました。王国は、内陸から集まる金・錫・樹脂・香木・胡椒などを、中国の絹や陶磁器、インドの綿布や宝石、中東の銀貨などと交換し、その差益を収入としました。

こうした港市ネットワークを維持するには、単純な武力だけでなく、他の港市や近隣の首長たちとの同盟関係・婚姻関係、儀礼的な贈り物のやり取りなど、複雑な人間関係の調整が欠かせませんでした。シュリーヴィジャヤ王国の王は、周辺の首長を「従属」させる一方で、彼らの自律性も一定程度認め、共通の利益としての交易ルートの安定を追求したと考えられています。

対外関係:中国・インド・イスラーム世界・日本とのつながり

シュリーヴィジャヤ王国は、国際的な交易・外交のネットワークの中で重要な位置を占めていました。まず中国との関係を見ると、唐・宋の歴代王朝に対してたびたび朝貢使節を送り、「室利仏逝」あるいは「三仏斉」などの国名で史書に登場します。中国側は、朝貢使節を受け入れることで海上交通路の情報や外貨を得る一方、返礼として絹や陶磁器、銅銭などを与えました。シュリーヴィジャヤ側にとって、これは実利とともに、中国皇帝から正式な「冊封」を受けたことによる権威の獲得という意味も持ちました。

インドとの関係では、商人や僧侶の往来がさかんでした。インドの東海岸やベンガル地方から来た商人たちは、シュリーヴィジャヤの港を中継点として中国市場にアクセスし、綿布や香辛料、宝石などを運びました。また、仏教僧たちは、インドの聖地とシュリーヴィジャヤを行き来し、経典や学問を伝えました。シュリーヴィジャヤに残る碑文の多くがサンスクリット語やパーリ語を用いているのは、このようなインド文化との密接な結びつきを反映しています。

8~10世紀ごろになると、アラビア半島やペルシア湾沿岸から、イスラーム教を信仰する商人たちがインド洋航路を通じて東南アジアに進出してきます。シュリーヴィジャヤ王国は、このイスラーム商人たちとも交易関係を築き、香辛料や金・錫などを供給する一方、中東の銀貨やガラス製品などを受け取りました。王国の支配層が本格的にイスラームに改宗するのはもっと後の時代(マラッカ王国など)の話ですが、この時期からすでにイスラーム世界との経済的つながりは生まれていたと考えられます。

日本との関係についても、直接・間接のつながりが指摘されています。奈良時代の日本の正倉院文書には、「室利仏逝」からの使節が来日したとの記録があり、シュリーヴィジャヤ王国と日本朝廷のあいだに何らかの外交的接触があったことが分かります。また、唐や宋の時代、日本の遣唐使や商人が中国南部の港を経由する際、そこに集まってきたシュリーヴィジャヤの商人と間接的に交流していた可能性もあります。実際、正倉院に伝わるガラス製品や香料の一部は、インド洋・東南アジア経由でもたらされたと考えられています。

このように、シュリーヴィジャヤ王国は、東アジア・インド・イスラーム世界を結ぶ「海の国際社会」の一員として活躍し、その中心となる意思決定の場が、スマトラ島東岸の港市と王宮だったのです。王国の存在は、陸のシルクロードだけでなく、海を通じた交流がいかに広範囲に広がっていたかを示す象徴的な例だと言えます。

衰退とその後:マジャパヒト・マラッカへの連続性

シュリーヴィジャヤ王国は、7~10世紀ごろに最盛期を迎えましたが、11世紀以降、徐々に衰退していきます。その要因としては、いくつかの内外の変化が挙げられます。一つは、インド洋交易に参加する勢力の多様化です。ジャワ島ではシャイレーンドラ朝やその後継勢力が台頭し、またインド・中国双方の商人が直接ジャワ島やマレー半島の他の港に向かうなど、シュリーヴィジャヤ一国がマラッカ海峡周辺を独占することが難しくなっていきました。

また、11世紀にはインド南部のタミル系王朝チョーラ朝が、強力な海軍を率いてインド洋交易に乗り出します。チョーラ朝は一時期、シュリーヴィジャヤ王国の拠点に対して軍事攻撃を行い、スマトラ島やマレー半島のいくつかの港市を破壊・略奪したと伝えられています。これにより、シュリーヴィジャヤ王国の支配体制は大きな打撃を受け、港市ネットワークの統合力が弱まったと考えられます。

さらに、12~13世紀ごろには、ジャワ島東部にマジャパヒト王国が成立し、東南アジア海域世界の新たな覇者として台頭します。マジャパヒト王国もまた海上交易に依存する海洋国家であり、スマトラやマレー半島の一部にも影響力を及ぼしました。こうしたなかで、シュリーヴィジャヤ王国はしだいに存在感を失い、やがて史料からもその名があまり登場しなくなっていきます。

しかし、シュリーヴィジャヤ王国が築いた「海峡を押さえて通行料と仲介貿易で栄える」というモデルは、その後も東南アジア史の中で繰り返し現れます。15世紀には、マラッカ海峡沿いにマラッカ王国が興り、イスラームを受け入れた港市国家として、再び地域の中継貿易を担うようになります。マラッカ王国はしばしば「シュリーヴィジャヤの後継者」とも言われ、港市ネットワークと宗教的権威を組み合わせた統治スタイルにおいて、共通点が多く見られます。

近代以降、ヨーロッパ列強が東南アジアに進出し、この地域を植民地化していく過程でも、かつてシュリーヴィジャヤやマラッカが押さえていたような海峡や港の支配は、依然として重要な意味を持ちました。オランダやイギリスがマラッカ海峡とその周辺をめぐって競合したのは、シュリーヴィジャヤ以来の「海域覇権」の継承とも見ることができます。

世界史で「シュリーヴィジャヤ王国(室利仏逝)」という用語に出会ったときには、7~13世紀ごろのスマトラ島東岸・マラッカ海峡周辺で、港市ネットワークと海上交易を基盤に栄えた仏教海洋王国だ、とイメージしておくとよいでしょう。そのうえで、中国やインド、イスラーム世界、日本との広いつながりを持ち、「海のシルクロード」の結節点として重要な役割を果たしたこと、そしてそのモデルがのちのマラッカ王国などへと受け継がれていったことを意識すると、東南アジア海域世界の歴史がより立体的に見えてきます。