「シュリーマン」とは、19世紀に活動したドイツ出身の商人・考古学者ハインリヒ=シュリーマン(Heinrich Schliemann, 1822〜1890年)を指す名称です。世界史では主に、ホメロス『イリアス』『オデュッセイア』に描かれた伝説上の都市トロイア(トロイ)の所在を信じ、その発掘を行った人物として登場します。また、ギリシア本土のミケーネ遺跡の発掘でも知られ、エーゲ文明研究の出発点をつくった人物として評価される一方、発掘方法が荒く、多くの遺構を破壊してしまったことから批判も受けている、光と影の大きい存在です。
若いころは商人として成功し、巨万の富を築いたのちに、少年時代からの夢だった「トロイア発見」に人生を捧げたという劇的な経歴も、シュリーマンのイメージを形づくっています。彼はホメロスの叙事詩を歴史的な事実の記録とみなし、従来は伝説とされてきたトロイア戦争の舞台を、本当に現実の都市として見つけられると信じました。その信念は、実際に小アジア西岸ヒサルリクの丘で都市遺跡を掘り当てるという成果につながりますが、同時に、層位の理解が不十分なまま深く掘り進めたため、後代の考古学者からは「遺跡を壊しすぎた」と厳しく批判されることになります。
この解説では、まずシュリーマンの生涯と19世紀ヨーロッパの時代状況を簡単に整理します。つぎに、トロイア発掘の経緯と成果、そこでの問題点を具体的に見ていきます。そのうえで、ミケーネなど他の発掘事業とエーゲ文明研究への貢献、そして「英雄的発見者」と「破壊的な素人発掘者」という二つの評価がどのように入り混じっているのかを考えます。概要だけでも「シュリーマンとはどんな人物か」がイメージできるようにしつつ、詳しく知りたい人は各セクションを通じて、彼の功罪を含めた全体像を立体的に理解できる構成にしていきます。
シュリーマンの生涯と時代背景
シュリーマンは1822年、当時のドイツ北部(メクレンブルク地方)の貧しい牧師の家に生まれました。幼いころから本が好きで、とくにホメロスの叙事詩『イリアス』『オデュッセイア』に魅了され、「いつかトロイアを見つけたい」と夢見ていたと伝えられます。しかし、家庭は裕福ではなく、正式な高等教育を受けることはできませんでした。少年時代には店員として働きながら、独学で語学を学ぶ生活を送っています。
20代になったシュリーマンは、ロシアやオランダを拠点とする貿易商社で働き始め、そのビジネスセンスと語学力を武器に成功への道を歩みます。彼は短期間のうちにロシア語・英語・フランス語・オランダ語・スペイン語などを次々に習得し、のちにはギリシア語やトルコ語まで身につけたと言われます。クリミア戦争やカリフォルニアのゴールドラッシュなど、当時の大きな経済チャンスを活かして事業を展開し、40代になるころにはすでに莫大な財産を築いていました。
この商人としての成功が、のちの「考古学者シュリーマン」を生み出す前提条件となります。彼は比較的若いうちに商売から引退し、「少年時代からの夢」を実現するための資金と自由な時間を手に入れました。1840〜60年代のヨーロッパは、古代ギリシア・ローマ文化への憧れや古代遺跡への関心が高まった時期であり、近代考古学が次第に学問としての形を整えつつあった時代でもありました。シュリーマンはこの流れの中で、「情熱を持つ富裕なアマチュア」として古代世界への挑戦に乗り出したのです。
一方で、彼の活動は、今日の意味での「科学的考古学」がまだ完全には確立していなかった時期に行われました。層位学(地層を手がかりに時代を判定する方法)や精密な記録・保存の重要性が広く認識されるのは、19世紀後半から20世紀の流れの中で徐々に進むことになります。そのため、シュリーマンは「発掘」を主に「宝探し」として捉え、目立つ遺物や建築物を追い求める一方で、繊細な遺構や土層を破壊してしまうことも多くありました。彼の生涯と業績は、まさに「ロマンと科学のはざま」に位置していると言えます。
トロイア発掘:伝説の都市を求めて
シュリーマンの名を世界に知らしめたのは、小アジア西岸でのトロイア発掘です。彼はホメロスの叙事詩を単なる物語ではなく、地名や地形の描写に一定の歴史的信頼性があると考えました。そして、『イリアス』の記述や古代地理学者ストラボン、トルコ在住の研究者たちの意見などをもとに、ダーダネルス海峡(ヘレスポントス海峡)に近い「ヒサルリク」という丘こそが、かつてのトロイアの所在地であると推定します。
1870年から本格的な発掘が始まると、シュリーマンは大規模な作業員を雇い、丘を横切るように巨大な溝(トレンチ)を掘り進めました。彼の目的は、「ホメロスの時代に相当する都市層」を早く見つけることでしたが、そのあまりの急ぎぶりと大胆な掘り方によって、上位の地層や遺構が多く破壊されてしまいました。今日の考古学の基準から見ると、この作業はあまりにも荒っぽく、取り返しのつかない損失を生んだとされています。
しかし、その過程で、ヒサルリクの丘の内部に複数の都市層が重なっていることが明らかになりました。つまり、トロイアは一度きりの都市ではなく、長い時間の中で何度も破壊と再建を経験し、層を重ねてきた「多層都市」だったのです。シュリーマン自身は、比較的古い層(現在の研究では「トロイアII」とされる時期)で見つかった城壁や建物、そして大量の金銀製品などを「トロイア戦争時代の遺構」とみなし、「プリアモスの宝物」と名づけました。
この「プリアモスの宝物」は、金の冠や首飾り、腕輪、杯などからなる豪華な遺物群であり、当時のヨーロッパ社会に大きな衝撃を与えました。新聞や雑誌は、「伝説のトロイアから王の宝物を発見した英雄」としてシュリーマンを称え、彼自身も著作や講演を通じて、その発見を積極的に宣伝しました。彼の名は一躍、世界的な有名人となり、「考古学的ロマン」の象徴のように語られるようになります。
しかし、後の研究によって、シュリーマンが「トロイア本来の都市」と考えた層は、ホメロスのトロイア伝説よりもずっと古い時代(紀元前2500年頃)に属することが分かってきました。今日では、トロイア戦争のモデルとなった可能性が高いのは「トロイアVI」または「トロイアVIIa」と呼ばれる層であり、シュリーマンが最初に注目した層とは時代が異なるとされています。つまり、彼の発見そのものは重要だったものの、「どの層がホメロスのトロイアか」という点については誤認がありました。
また、「プリアモスの宝物」の扱い方にも問題がありました。シュリーマンは当初、オスマン帝国政府と結んだ契約に反して、宝物の多くを秘密裏に持ち出し、自分の名誉と研究資金のためにヨーロッパへと移送してしまいます。この行為は当時から批判の対象となり、法的・倫理的な問題をはらんでいました。トロイア発掘は、考古学史上の画期的な出来事であると同時に、文化財の扱いをめぐる国際的な議論の出発点の一つともなったのです。
ミケーネなど他の発掘とエーゲ文明研究への貢献
トロイアでの成功ののち、シュリーマンはギリシア本土でも重要な発掘を行いました。なかでも有名なのが、ペロポネソス半島北東部にあるミケーネ遺跡の発掘です。ホメロスの伝えるところによれば、ミケーネはトロイア戦争のギリシア側の英雄たちを率いたアガメムノン王の本拠地とされており、シュリーマンはここにも「英雄時代の宮殿と宝物」が眠っていると考えました。
1870年代、彼はミケーネの「ライオン門」と呼ばれる巨大な門の内側で発掘を行い、複数の円形の墓地(いわゆる「円形墓地A」)を発見します。その中からは、多数の黄金の副葬品が見つかりました。とくに、黄金製のマスクや装飾品は強い印象を与え、シュリーマンはそのうちの一つを「アガメムノンのマスク」と呼んで有名にしました(実際にはアガメムノン本人のものとは時代が合わないと考えられています)。
ミケーネでの発掘は、ギリシア本土の青銅器時代に高度な宮殿文化と王墓が存在したことを実証し、「ミケーネ文明」として知られるエーゲ文明の一端を明らかにしました。さらに、シュリーマンはティリンスやオルコメノスなど、他の青銅器時代遺跡でも調査を行い、壮大な城塞や宮殿の遺構を発見します。これらの成果は、のちにエヴァンズ(クレタ島クノッソス宮殿の発掘で知られる考古学者)らによる研究へ引き継がれ、エーゲ文明全体の像を描き出すうえで重要な材料となりました。
ただし、ミケーネなどでの発掘でも、シュリーマンの方法はやはり現代の基準から見ると粗い部分が多く、遺構の細部や出土状況が十分に記録されていないため、後世の研究者を悩ませる点も少なくありません。彼は自らの仮説に合う遺物や建築に強い関心を向ける一方、それ以外の情報の記録・保存には必ずしも注意を払っていませんでした。そのため、「発見の規模は大きいが、資料としての精度には問題がある」という評価がつきまといます。
それでも、シュリーマンの活動がなければ、トロイアやミケーネ、ティリンスといった遺跡がこれほど早く世界の注目を集めることはなかったかもしれません。彼は、自らの巨額の私財を投じて発掘を行い、その成果を分かりやすい物語として広く世に伝えることで、古代エーゲ世界への関心を高めました。シュリーマンの開いた道を、のちの「科学的考古学者」たちが検証し、修正しながら進めていったと見ることもできます。
評価と問題点:ロマンの英雄か、破壊的な素人か
シュリーマンの評価は、古くから賛否両論が激しく分かれてきました。一方では、ホメロスの伝説を信じて実際にトロイアやミケーネの遺跡を掘り当てた「情熱的な発見者」「考古学の英雄」として称えられます。少年時代の夢を諦めず、商人として成功した財産をすべて古代探究に注いだ生き方は、多くの人びとに強いインパクトを与えました。また、当時はまだ確立していなかったエーゲ文明という概念を、強い物語性とともに世界に広めた功績も無視できません。
一方で、現代の考古学の立場からは、彼の発掘方法や文化財の扱い方に対する厳しい批判も多くあります。トロイアのヒサルリクでは、上層の遺構を壊してしまったため、後の時代の都市構造や生活の詳細を知る機会が失われました。もし彼がもう少し慎重に層を追い、記録を残していれば、今日の私たちははるかに多くの情報を得られたかもしれません。また、「プリアモスの宝物」を秘密裏に持ち出した行為は、現在の文化財保護の観点からすれば明らかに不適切であり、植民地主義的な奪取行為として問題視されています。
さらに、シュリーマンは自らの発見をドラマチックに語る傾向が強く、日記や手紙、著作の中で事実を誇張したり、後から脚色したりした可能性が指摘されています。たとえば、トロイアでの「妻が宝物を身につけている写真」などは、宣伝的な意図が色濃く、実際の発掘状況をそのまま映したものとは限りません。このような点から、彼の残した記録は、史料として利用する際に慎重な検討が必要とされています。
それでも、「シュリーマンが悪だった」と単純に断じてしまうのは適切ではないでしょう。彼は、まだ考古学の方法論が現在ほど洗練されていなかった時代に生きており、その中で「発見」と「保護」のバランスについて十分な指針がなかったことも事実です。彼の活動に対する批判と反省を踏まえてこそ、20世紀以降の考古学は、より慎重で科学的な方法へと発展していきました。その意味で、シュリーマンは「反面教師としての先駆者」という側面も持っています。
世界史で「シュリーマン」という名前に出会ったときには、まずホメロスの叙事詩を信じてトロイアとミケーネを発掘した19世紀の人物であり、エーゲ文明研究の出発点をつくった一方で、多くの遺構を破壊してしまったという功罪を併せ持つ存在だ、とイメージしておくとよいでしょう。そのうえで、「ロマンあふれる英雄」としての側面と、「科学的考古学の基準から見た問題点」の両方を意識することで、歴史研究や文化財保護のあり方について、より深く考えるきっかけにもなります。

