抗糧 – 世界史用語集

抗糧(こうりょう)とは、国家や政権が住民に課した穀物の納入(年貢・公糧・軍糧・漕糧など)に対して、拒否・先延ばし・減免要求・逃散・武装抵抗などの形で対抗する行動や運動を指す言葉です。主として中国史で用いられる概念で、唐の両税法以後、明の里甲制と黄冊・魚鱗図冊、清の攤丁入畝・地丁銀、近代の捐税・徵糧制度から、軍閥時代・日中戦争期の「公糧」まで、さまざまな財政・軍需体制のもとで繰り返し発生しました。抗糧は単なる「怠納」ではなく、飢饉・戦乱・価格変動・官吏の苛斂誅求・運輸コストの高騰など、構造的要因が重なったときに噴出する社会現象でした。地域の有力者(紳士・里長)と小農・佃戸の利害調整が破綻すると、拒納や逃散、納入物資の隠匿、役所包囲、輸送路の遮断、さらには蜂起へと拡大しました。抗糧を理解すると、古代から近代にかけての国家と農村社会の力関係、税制の設計と失敗、災害や戦争がもたらす負担の分配が、具体的に見えてきます。

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概念の射程──「抗税」との違い、対象としての穀物納入

「抗糧」は広く「抗税(納税拒否・減免要求)」に含まれますが、焦点が穀物の物納・現物供出に置かれる点が特徴です。中国史では、税の銀納化が進んだ後も、軍需・京城の食糧・救荒の備蓄・漕運の維持のために、穀物の実物納入(糧)が重視されました。とくに黄河—大運河体系で首都に集積する「漕糧」や、現地駐屯軍の「軍糧」、地方財政の基礎になる「倉糧」は、単なる財源ではなく「物流の課税」で、農民は収穫物だけでなく運搬・倉入れ・保管の負担まで求められました。このとき、相場の下落や運賃の上昇、堤防決壊や道路破損、回船・牛車の不足といった現実のコストが過小評価されると、負担は急速に「不可能」へ傾き、抗糧が発生しました。

抗糧の手段は段階的です。最初は収穫量の過小申告、納期の遅延、倉入り前の目減り(自然減と称する)などの「柔らかい抵抗」から始まり、やがて村落ぐるみの集団減免嘆願、納税台帳の破損・焼却、徴収吏の追放、輸送路の封鎖、治所の包囲、隣村連合の武装化へと硬化します。しばしば地域エリート(里長・紳士・廟会の世話役)が表向きは調停者、裏では分担逃れの主導者となる二重性を帯び、貧農・佃戸は苛酷な攤派(割り当て)を押しつけられて蜂起の主力となりました。

前近代の主要局面──唐末から明清期の税制と抗糧

唐の中後期に両税法が導入されると、貨幣・布・穀物の複合的な徴収が行われるようになりましたが、安史の乱以後は節度使の自立化と戦費の増大で、地方での現物徴発が乱発されます。黄巣の乱末期には、塩価の高騰・穀価の乱高下・治安悪化が重なり、村落は納入路そのものを防衛しようとする動きを見せました。

明代の中核は里甲制と戸口・土地台帳(黄冊・魚鱗図冊)で、原則は定額の賦役・地税を村落単位で共同負担する仕組みでした。16世紀後半、張居正の「一条鞭法」により多くの租税・徭役が銀納へ整理されましたが、軍糧・漕糧・救荒倉など穀物現物の系統は残り、災害や軍事動員の局面では臨時の徵糧が多発します。小作地の拡大と商品作物の普及で収穫構成が変わると、割り当てと実収の不整合が拡大し、豪紳が名目上の「白契」「隠田」で課税を回避する一方、小農に割負が集中しました。明末の飢饉と戦乱(李自成・張献忠らの蜂起)では、地方官の苛政と兵站の逼迫が抗糧・抗役を連鎖させ、徴糧そのものが火種となりました。

清代には、康熙・雍正期に「攤丁入畝(丁税の地税化)」が進み、地丁銀の比重が増します。原則として貨幣納税化が進んだものの、乾隆以後の人口増、黄河治水費、辺務・軍費の膨張で、地方は追加の徵糧を繰り返し、飢饉年や洪水年には「挙村抗糧」と呼ばれる集団拒納が史料に現れます。白蓮教徒の乱(18世紀末〜19世紀初)の背後にも、捐税の乱発と糧道(糧食輸送路)の過負荷がありました。太平天国・捻軍期には、里甲や保甲の徴糧が治安維持と不可分になり、清官の「撫」と地方民兵の自衛が錯綜して、村落社会は「納めるか、逃げるか、戦うか」の三択に追い込まれます。

近代の拡大──軍閥・抗日戦争・「公糧」をめぐる攻防

清末・民国期には税目が増殖し、各省・軍閥は戦費・給養のために臨時税と徵糧を濫発しました。鉄道・道路の整備で市場統合が進むと、穀価は都市相場に引きずられ、農民の「納めるべき糧」と「売れば得るはずの現金」の間にギャップが拡大します。軍閥の押し借り、保甲を通じた徴発、運送の賄賂・関門通行料の加算が重なると、村落は集団で納入拒否・隠匿・山地への逃散を選び、しばしば地元の秘密結社・廟会・自衛団が抗糧の組織化を担いました。

日中戦争期には、国民政府・日本占領政権・共産党の根拠地がそれぞれ徴糧制度を敷き、三重徴発が発生した地域もありました。国民政府は公糧・田賦の前倒し徵収や通貨膨張に頼り、占領下政権は軍需供出を優先し、共産党は「減租減息」と引き換えに公糧(現物負担)を組織しました。農民の抗糧は、単なる拒否だけでなく、どの政権の徴収網に「合意」するかの政治選択でもあり、地方の実力者や女性・青年の動員が重要な役割を果たしました。抗糧はこの時期、ゲリラ戦・破壊工作(糧道の遮断)と結びつき、戦争の帰趨とも連動しました。

原因の分析──価格・輸送・制度・権力関係

抗糧の背景は、四つの層で整理できます。第一に経済条件です。冷害・旱魃・洪水・虫害などの自然要因、穀価と銀価の裂け目、運賃と人足賃の上昇、倉敷の損耗と保管ロスが重なれば、名目割当量の実質負担は倍化します。第二に制度設計です。台帳の古さ、地籍と実耕の不一致、里甲や保甲を通じた共同責任ゆえの「押しつけ合い」、免税地・隠田の存在、役人の「浮課(上乗せ徴収)」が、納入の公平感を壊します。第三に政治・軍事です。戦時の臨時徵糧や軍の横取り、治安悪化、賄賂・縁故による免除は、納税のインセンティブを破壊します。第四に地域社会の力学です。廟会・宗族・講社などの自律的ネットワークは、抗糧の動員と交渉の両方に使われ、地域エリートの利害と貧農の不満が一致すると、抗糧は蜂起へと転化しやすくなります。

国家の対応──減免・開中・漕運改革・保甲強化

王朝や政権は、抗糧に対して「飴と鞭」を使い分けました。飴は、凶年の減免・延期・貸与(常平倉・義倉の放出)、相場連動の換算、徴収の銀納化・現金化(市場から買い上げる)などです。明代の「開中(民間業者に漕運を任せ、代わりに特権を与える)」や、清代の漕運改革は、国家が自前で穀物を運ぶコストとリスクを下げる工夫でした。鞭は、保甲・団練の強化、徴糧吏の武装、抗糧村への罰金・連帯責任、逃散者の連れ戻しなどで、しばしば暴力的でした。長期的に有効だったのは、地籍の更新、負担の按分ルールの透明化、治水と道路の整備、相場情報の共有といった「制度とインフラ」の改善です。

社会文化の側面──儀礼・言説・ジェンダー

抗糡(抗糧)の現場では、儀礼や言説が動員の潤滑油になりました。廟前の誓約・香の点火、祖先牌位の前での盟約、零細戸の哀訴を先頭に据える行列、女性や老人が前面に立つ座り込みなど、暴力に訴えずに道徳的正当性を可視化する工夫が見られます。教化・勧善書が広がると、官側も「仁政」「恤民」の語彙で応答し、減免令や賑恤の演出を行いました。ジェンダーの点では、糧の担ぎ手・行列の維持・食の再配分など、家内労働と公共行為の境界で女性の役割が大きく、抗糧は「家計の防衛」として理解される面も強かったです。

比較と位置づけ──世界史の税抵抗との接点

抗糧は中国固有の語ですが、現象としては世界各地の税抵抗と通底します。日本の年貢減免一揆、欧州の塩税暴動や十分の一税抵抗、近代国家の食糧供出拒否など、現物徴収と物流コストが重くのしかかる場面で同型の運動が生まれました。違いは、広大な内陸輸送と治水のコスト、里甲・保甲の連帯責任、宗族・講社という強固な地域ネットワークが、抗糧に特有のダイナミクスを与えた点です。中国史における抗糧は、単なる租税叛乱ではなく、「国家—市場—村落」の三者関係が破綻したときに現れる「物流と財政の危機」の兆候でした。

史料と研究の手がかり──台帳・告示・訴状・訟案・出土文書

抗糧の実像に迫るには、単に反乱記事に頼らず、台帳(黄冊・魚鱗図冊)、倉廩の出納簿、県告示、訴状・口供書、処罰記録、賑恤簿、廟の寄進帳、商人の往復状など、多様な史料を突き合わせる必要があります。近年は、出土の簡牘・契約文書、漕運路の考古学、価格史・気候史のデータが活用され、災害と価格・輸送コストと抗糧発生との相関が数量的に検討されるようになりました。個別村落のミクロ史研究は、エリート—小農—佃戸間の負担転嫁や、宗族・講社の役割を具体的に描き出し、抗糧の「誰が得をし、誰が損をしたか」を可視化しています。

総括──国家財政と生活防衛のせめぎ合いとしての抗糧

抗糧は、財政・軍需・救荒を維持したい国家と、生存の安全域を守りたい地域社会の境界線で起こる摩擦でした。穀物という重量財の現物納入は、農民にとって収穫・乾燥・保管・輸送・検収という一連のコストを意味し、そのどこかが破綻すれば、拒納は合理的選択にもなります。他方、国家側にとっては糧の集積が断たれることは政権の正統性と直結し、強硬策に傾きやすい構造があります。歴史は、強制力だけでも、情けだけでも収まらないことを示しています。負担の透明化、災害リスクの共有、物流インフラの整備、価格の合理的換算という地味な改善が、最終的には抗糧の土壌を縮小しました。抗糧というレンズを通すと、税制や国家の設計が、生活の現場の物理的制約(重さ・距離・気候)とどれほど密接に結びついているかが、具体的に理解できるのです。