トマス・ジェファソン(Thomas Jefferson, 1743–1826)は、アメリカ独立宣言の主起草者であり、第3代合衆国大統領、民主共和党(ジェファソン=マディソン派)の指導者として、18世紀末から19世紀初頭のアメリカ政治と思想を方向づけた人物です。彼は「人間の平等」と「不可侵の権利」を宣言の言葉で世界に刻み、中央集権に対して地方自治と市民の自由を重んじる共和主義を説きました。同時に、ルイジアナ買収で領域拡張を大胆に進め、教育・宗教・建築・大学創設など幅広い分野で制度設計者としての手腕を見せています。他方、奴隷制に依存したプランテーションの所有者でもあり、サリー・ヘミングスとの関係や奴隷解放への消極さは、理念と現実の大きな矛盾として議論の的になってきました。彼の足跡を、思想、政策、外交、社会的矛盾の四つの視点からたどると、近代の自由の言語が生まれる場面と、その限界が同時に見えてきます。
生涯と時代背景――ヴァージニアの青年から独立革命の理論家へ
ジェファソンはヴァージニア植民地の地主家に生まれ、ウィリアム・アンド・メアリー大学で古典・法学・自然科学に親しみました。弁護士として出発し、植民地議会で英国本国の議会課税(代表なき課税)に反対する論陣を張ります。啓蒙思想、特にロックの自然権論、ヒュームやモンテスキューが提示した政府観と権力分立、スコットランド啓蒙の経験主義は、彼の思考の骨格を形作りました。1775年に大陸会議の一員となり、翌1776年、独立宣言の草案起草を委ねられます。彼は自然法の語彙で「生命・自由・幸福追求の権利」を掲げ、政府の正統性を被治者の同意に基礎づけ、圧政への抵抗権を明言しました。この文言は、以後の世界の革命と人権文書に長い影響を与えます。
戦時下、彼はヴァージニア州知事を務め、州法の成文化や刑法の近代化、相続制度改革(長子相続の廃止)などに着手しました。特に注目すべきは、宗教の自由を保障する「ヴァージニア宗教自由法」(1786)です。国家からの信仰の自由と、教会への国家支援の否定という二つの方向から、教会と国家の分離を明確にしたこの法は、のちの合衆国憲法修正第1条の思想的源泉になりました。独立後はパリでの公使として欧州の政治と文化を観察し、フランス革命への共感を深めますが、暴力の連鎖には距離を取り、アメリカには「農本的共和主義」を根づかせるべきだと考えるようになります。
思想と制度設計――共和主義、地方分権、教育・宗教・所有の哲学
ジェファソン思想の核は、第一に個人の自由と地方自治を重んじる共和主義です。彼は権力集中を腐敗の温床と見なし、連邦政府は限定された権限にとどめ、自治的な郡や州に広い裁量を与えるべきだと主張しました。ハミルトンの連邦党が国立銀行・債務の連邦化・関税保護といった中央主導の財政金融で産業化を志向したのに対し、ジェファソンは自作農(イェオマン)を共和国の徳の担い手とみなし、土地所有と独立自営による市民の自立を理想としました。これは、都市の賃労働者や金融資本への不信と裏腹で、農業中心の社会像が政治倫理の基盤になると考えたためです。
第二に、彼は文民の教育を共和政の条件とみなしました。無知は専制に従順を生むという認識から、初等教育の普及、公共図書館の設置、大学の創設を構想します。晩年に創立したヴァージニア大学(UVA)は、神学を中核に置かず、選択科目制と学問の自治を重んじる革新的な大学でした。建築家としても腕を振い、ローマの古典主義に学んだモンティチェロ邸とUVAキャンパスは、均衡・秩序・理性を形で表した「建築としての政治思想」でした。
第三に、宗教と国家の分離です。彼は信仰を個人の良心の領域と位置づけ、国家が教義を強制したり、課税によって特定教会を支援したりすることを拒みました。宗教自由は無神論者にも及ぶ、と彼は明言します。この立場は、少数派信仰の保護だけでなく、宗教が公論の場で多様な役割を果たす余地を残す設計でもありました。
第四に、所有と公共善の関係です。ジェファソンは小規模の土地所有を広く分配することが、政治的平等への近道だと考えました。広大な不在地主支配や投機的土地集中は共和政を蝕むという直感から、公領の分配や測量制度の整備に関心を払います。もっとも、実際の西方拡張は先住民の土地を侵食する過程でもあり、この理念は深刻な代償と矛盾を伴いました。
政争と大統領期――選挙革命、ルイジアナ買収、禁輸法、外交の試行錯誤
1789年、憲法のもとで新政府が発足すると、ジェファソンは初代国務長官に就任し、ハミルトン財務長官と路線を異にして激しく対立します。国立銀行の合憲性、対英外交、債務政策をめぐる論争は、のちの二大政党の起点となりました。1796年の大統領選ではアダムズに敗れて副大統領に就任し、連邦党政権の治下で「外国人・治安法」など強権的立法が可決されると、ケンタッキー・バージニア決議で州の権利と違憲審査を示唆する政治文書を作成します。1800年の選挙では、ジェファソン派が勝利し、同派のバラーとの獲得票同数による下院決選を経て第3代大統領に就任しました。「1800年の革命」と呼ばれるこの政権交代は、選挙を通じた平和的政権交代の先例として重要です。
大統領としての最大の事績は、1803年のルイジアナ買収です。フランスからルイジアナ領有権を買い取り、合衆国の領土を一挙にミシシッピ以西へ倍増させました。憲法に明文のない領土取得の合憲性をめぐる逡巡を抱えつつも、彼は国家の将来に資すると判断して断行します。すぐさまルイス=クラーク探検隊を派遣し、地理・自然・交易路の調査を進めました。これにより、西部への移住と市場の拡大は加速しますが、同時に先住民の土地権利が侵食され、連邦と部族の関係は緊張を深めていきました。
外交・通商では、ナポレオン戦争下の英仏対立が中立国アメリカの航行を脅かしました。英国の拿捕・ Impressment(米船員の強制徴募)や仏の大陸封鎖に対抗して、ジェファソンは1807年の禁輸法で対外貿易を全面的に停止し、経済的圧力で交渉力を得ようと試みます。しかし禁輸は国内経済、とりわけニューイングランドの海運と商業に深刻な打撃を与え、密貿易と政権への反発を招きました。禁輸法はのちに緩和・撤回されますが、経済制裁という手段の限界を示す教訓となりました。
内政では、連邦党が拡張した軍備や官僚機構の縮減、連邦税(物品税)の廃止、国債の返済など、政府の「軽量化」を進めました。連邦司法に対しては、マーバリー対マディソン事件を通じて最高裁が違憲審査権を確立するという思わぬ帰結も生まれ、三権の均衡が新しい段階に入ります。任期を終えた彼は、三選を拒み、二期慣例(のちの修正第22条の先触れ)を暗黙に支えました。
矛盾と評価――奴隷制、先住民、女性、自由の言語の限界と継承
ジェファソンの影は、何より奴隷制の問題に投げかけられます。彼は生涯で数百人の奴隷を所有するプランターであり、債務や経済構造を理由に生前の全面解放には踏み切りませんでした。著作では奴隷制を「道徳的に悪」としつつも、白人と黒人の共存への悲観や偏見を記し、植民(国外移住)という非現実的方策に言及するなど、理念と政策の距離は大きかったのです。彼の子孫問題を含むサリー・ヘミングスとの関係は、近年の史料とDNA研究で事実とほぼ確定視され、ジェファソン像の再検討を促しました。彼の言葉が「すべての人間は平等に造られた」と高らかに宣言する一方、その「すべて」に誰が含まれるのか――この問いは、黒人、先住民、女性、貧困層の権利運動が世紀を超えて拡張していく起点となりました。
先住民政策では、文化の変容(農耕・私有・英語教育)を通じた「文明化」を推奨し、条約と交易で土地の譲渡を進める一方、抵抗に対しては軍事的強制も辞さない姿勢を示しました。これは後の強制移住(涙の道)につながる政策の語彙を用意する側面があり、拡張主義の道徳的問題を早くから孕んでいます。
女性と政治参加について、彼は同時代の多くの思想家と同様に公的領域からの排除を当然視し、参政権や教育の平等に積極的ではありませんでした。ジェファソンの共和主義が想定する市民は、白人男性の自営農を中心とする狭い像であり、これを拡張する作業は19〜20世紀の運動に委ねられます。
それでもなお、ジェファソンの自由の言語――天賦の権利、政府の被治者同意、言論・信教・出版の自由、教育の普及――は、アメリカ内外で権利拡張の旗印として再解釈され続けました。リンカーンは独立宣言の文言を奴隷制廃止の道義的根拠として再読し、キング牧師は公民権運動で「約束手形」として彼の言葉を突きつけました。理念の射程が、原文の限界を超えて拡張されていくプロセス自体が、ジェファソンのもたらした最大の歴史的効果だったとも言えます。
モンティチェロの丘に眠るジェファソンは、墓碑に「独立宣言の起草者、宗教自由法の起草者、ヴァージニア大学の創設者」とだけ刻むよう遺言しました。大統領職や外交官としての肩書を退け、言葉と制度と教育を自らの遺産とした選択は、彼の自己理解をよく表しています。彼の生涯をたどることは、自由と平等をめぐる近代の約束がいかに生まれ、その約束がどのように裏切られ、また回収されてきたのかを学ぶことにほかなりません。理念と現実の裂け目の上に立ち、なお理念を磨き続ける――ジェファソンという名は、その難題を引き受けるための起点であり続けます。

